2017年11月11日 (土)

松本信幸氏の子孫の方を探しています

私の知人から北海道へ開拓移住した松本氏の行方を探していましたが、探しきれずにいると相談を受けました。


・松本信幸氏は明治3年石川県石川郡(当時の戸籍では能美郡となっているかもわかりません)河内村で生まれました。
明治36年3月に何人かの村人と十勝国河東郡音更村へ開拓移住しました。

・明治38年には河西郡帯広村に住所を移しているのが調査の結果判明しておりました。

・その後、明治44年9月に函館へ転出した記録があったのですが、昭和9年の函館の大火で市役所の住民票等が消失したため、調査が出来ないと函館市役所より回答があったそうです。

その後、函館に在住しているか他所に移住しているか松本信幸家の消息はわかりません。
明治時代に北海道へ開拓移民で渡道した松本信幸氏(のぶゆき)の子孫の方からの連絡をお待ちしています。

2017年11月 4日 (土)

北桧山区の太櫓地区への布教活動の移住者達(3)

光玄寺の寺院商号は「真宗大谷派 潮騒山光玄寺」となっていました。
 光玄寺の左横には鳥居が建っており、神社がありました。帰ってから調べると言代主神社という神社でした。
 光玄寺様に訪問しましたが、住職さんは不在で詳しいお話を伺うことができなかったのですがこの地を訪れることで内心ほっとしました。太櫓海岸と光玄寺の全景を写真に収めてきました。

Img_1229_3                  (真宗大谷派 潮騒山光玄寺)
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                       (駐車場より寺院を見る)

 太櫓海岸は約200m位の砂浜がある海岸で海水浴場になっていました。
 鰊漁が盛んな頃はこの海岸では網を使って直接漁を行い、活気のある風景だったのでしょうか?そんな思いを後にせたな町の図書館に向かいました。
Img_1231_2Img_1230_2Img_1232_2                  (太櫓海岸海水浴場)

 せたな町の役場は土曜閉庁となっており、せたな町情報センターに向かいました。
 情報センターの図書室の受付で来意を告げせたな町の町史の場所を聞くと親切にその場所まで案内してくれました。
Img_1224                          (せたな町役場)
Img_1225                   (せたな町情報センター)

 太櫓に関して色々な著書を調べてのですが、明治に石川県から太櫓に移住したとは書かれていますが、私の知りたい事柄については記述がありません。
 それでも、参考なればとコピーサービスをお願いすると。コピーは可能ですが、代金の支払いは月曜日に役場の方で支払いとのことだったので、コピーは断念しました。
 結局、図書館での収穫は著書の名前を書き写しただけとなり、図書総合貸借で借用して詳細を調べることにし、太櫓の調査を終了しました。

2017年10月28日 (土)

北桧山区の太櫓地区への布教活動の移住者達(2)

平成29年7月22日 

光玄寺に手紙を
布教の為に住職を派遣した小松市串町の「光玄寺」に下記の要旨のについて教えていただきたく手紙を書きました。
・北海道の江差の北にある「太櫓」地区に布教の為に串の住民が移住した記録が町史に載っていました。
・なぜ江差から遠く離れた辺境の地での布教活動だったのでしょうか。
・串町史を調べ、その中で開拓移住が決まった時に「光玄寺」の境内で親類との別れを惜しんで涙したと記述がありましたが、当時の記録などは残されていないのでしょうか。
・太櫓地区に移住された方の記録はないのでしょうか。
これらのことについて手紙の返事はもらえませんでした。

 当時はニシン漁の最盛時期で多くの漁師が北海道へ行っていましたが、漁期を過ぎると帰郷していたようです。
 開拓移住によって開拓した土地が個人所有になるという夢を抱き多くの人が未開の北海道へと移住したのに比べ、海岸と山に囲まれた偏狭な地に布教の為と何人かの人達が移住したことが分からないまま調査は中断してしまいました。

太櫓の光玄寺に手紙を
北海道旅行が決まり、この地区を訪ねたいとの思いから太櫓地区の光玄寺様宛に調査のお願いをしました。
 「石川県能美郡串村(現在の小松市串町)から後志の倶知安へ開拓移住した方々を調べ、一昨年倶知安町の円融寺様を訪れ住職様の奥様から「加賀団体入墾記念の崇徳碑」に関してお話を伺うことが出来、記念碑を写真に収めてまいりました。

その後、倶知安への開拓移住で串町史を調べておりましたところ、真宗の普及の為に
北海道へ多くの宗教の関係の方が渡道され布教活動をされたことを知りました。
 当時の串村からも太櫓地区に串の住民と共に布教の為に渡道したと町史に記述がありました。
 光玄寺様は小松市串町の光玄寺様と同じ名前でしたので、もしかしてご先祖様は同じかと勝手に解釈してお話をさせていただいておりますが、もし間違いなら申し訳ありません。

この太櫓地区には串村から移住された方はいらっしゃいますでしょうか?
移住した方の移住当時の氏名と移住年が分かる資料等があれば教えて頂ければ幸甚に存じます。」

太櫓地区の光玄寺様から返事が
『北海道の太櫓町の光玄寺で住職を務めている佐竹と申します。
先日は、ご丁寧なお手紙をお送りいただき誠に有難うございました。

さて、お手紙に書かれていた通り、当院は小松市串町の光玄寺から分かれて北海道へ入植した寺院であります。
入植したのは、明治14年10月であり、門徒数十名と共に海を渡ったと聞いております。
しかし残念な事に、資料不足と厳しい時代背景のためか、当院の方で分かっていることはこれだけであります。
幸い、数十年前に小松市の方から歴史に関わる調査として来られたそうなので、市でまとめられた内容はそちらで拝見できるかと思います。

そして、 串村から太櫓に移住された方々の名前等ですが、こちらも残念ながら分かりませんでした。
世代交代の流れと、人口の減少、その中で親から子への伝承が途切れてしまったのかも知れません。
私の祖母の遠い記憶から、串町の子孫だと思われるご家庭が1∼2件上がりましたが、何分不確かな記憶なので苗字の明記は控えさせていただきます。

ご連絡が遅れてしまい、誠に申し訳ありませんでした。
開拓使の調査の成功を念じております。 

合掌  』

2017年10月23日 (月)

せたな町北桧山区太櫓への布教活動での移住者達(1)

平成29年7月22日 太櫓地区を訪ねて

今回訪ねたのは北海道久遠郡せたな町から約10km海側を南下した北檜山区太櫓です。
せたな町の太櫓(ふとろ)地区は明治14年に石川県能美郡串村(現在の小松市串町)から浄土真宗の布教活動の為に串村村民と共にこの地に移住したと記録にありました。
串村から北海道へ開拓移住した歴史を調べている時に太櫓地区への布教活動で村民と共に渡道した。しかも一般の開拓移住の始まる前でもあり興味を惹かれる事象でもあり今回訪ねることにしました。

Photo                      (北海道桧山郡)
Photo_2                    (せたな町太櫓区)
地勢
せたな町は道央道の国縫ICから国道232号線を約42km離れた場所にあります。また、太櫓地区から江差までは海岸線を走り約80km離れた場所でもあります。
岩内から寿都町から弁慶岬を廻り国道229号線をひたすら海岸沿いに南下します。
Img_1214Img_1212                        (弁慶岬)


せたな町の手前で国道から右折し道道740号線を海岸線に沿って車を走らせると太櫓海岸です。岩内から約120kmでした。

太櫓の集落は西側には日本海、東側には丘陵地帯が迫っておりそのわずかな間を道道740号線が通っています。
太櫓地区の人家も僅かながらの平地を見つけて建物が建てられているように感じられるのです。
Img_1227Img_1229Img_1226                           (光玄寺)


 GoogleMapのストレートビューで調べると太櫓海岸の所に「光玄寺」というお寺があることがわかりました。

2017年8月19日 (土)

加賀団体による十勝地方への開拓移住者(8)

現在の中札内村
こうして開拓が始まってから40余年の歳月は流れ、その間には相次いで起こった札内川の氾濫で多くの土地を流失し、または、冠水して新たに川をなすなど幾多の変遷を重ねてきたが、戦後は堤防の施設も急速に進み漸くその難も遠ざかり現在では堤防の完成のほか、砂防ダムも要所に設けられて水害も今は昔の物語として止まるに至り、農耕地450ヘクタール余と宅地其の他を含めて完全に確保されるに至った。

また戸数(人口)も開拓当初に急速な増加を見て、大正初期には41戸を数えこともあったが、生活が不安定のため移り変りも激しく終戦後(昭和20年)までの移動は転入132戸、転出も100戸の多きに及んだ。
しかし、戦後の60余年間は社会経済の変動や経営規模の拡大などによる移動が若干見られるものの、大きい変動は概ね安定の兆しが見られ、昭和55年頃戸数は28戸であったが平成16年には25戸である。

2017年8月12日 (土)

加賀団体による十勝地方への開拓移住者(7)

内山忠次郎の功績
内山氏が当区に入植されたのは開拓の始めよりやや後れて大正7年と聞くが、27才の若さで早くも開拓の志を樹てられ明治29年に先に渡道していた叔父孝太郎氏を頼って千葉県匝瑳郡豊栄村(現八日市場市亀岡)から単身で渡道され幸震村(現大正町)に入地されて以来上途別、越前、幸福等数ヶ所に亘って開拓が進められた。
その間明治32年に越前(現昭和町)の小森清太郎氏の次女セツさんと結婚して、いよいよ北海道永住の意思を固められた氏は身辺整理のため一時帰郷して実家の整理をし、父親甚右ヱ門氏(大正12年死去)を伴って再び新開地に戻り開拓に精魂を傾けられ夫婦間に子供が恵まれなかったこともあってか、将に開拓に一路に精進されたのである。

明治44年に中札内(現北1区)に移住したが、そのころから逐次農地を拡張して大正5年には常盤区内に45ヘクタールを取得し、大正7年に入地(西2線268番地)され、以来毎年多くの雇人を使って営農して、その後も多くの土地(150ヘクタール)を取得し、その所々に小作人を入れて営農させるなど将に大地主として活躍された。
一方公職の歴史も長く大正4年に大正村初代(大正4年に村が誕生)の議会議長として選出されたのにはじまり、その後常盤区に居住後も引続いて7期(Ⅰ期2年)当選し昭和4年6月で14年間に亘って村政に参画され、学務委員等も務められなど地域の進展に偉大な貢献をされており、昭和2年の大正村開拓30年記念式で自治功労賞として顕彰されている。

しかし、昭和20年太平洋戦争終結直後の9月に生涯苦楽を共にした妻セツさんに先立たれ、続いて自作農創設特別処置法による農地改革で多くの土地を手放し、加えて年齢も既に75才となったことから、農業を離れ悠々自適の生活に入ったが、その期間も長くは続かず、昭和25年12月17日遂に81年の歴史を残して大往生を遂げられている。ここに氏の生前の労をねぎらうと共にその御功績を永く讃えたい。

2017年8月 5日 (土)

加賀団体による十勝地方への開拓移住者(6)

十勝の開拓
 北海道に開拓は殖民地の選定から始まり区画制を明治24年から行われたが、十勝原野は広大なため1年では区画測量が出来ず、先ず十勝川沿岸からはじまり、年毎に増画され当地域は明治29年に区画をされている。
 これを「殖民地区画」といい、300間(545.4m)毎に縦横に道路予定地をとって区画し、その300間平方の地積30町歩(90,000坪、約30ha)を中画といい、それを6等分して巾100間(181.8m)、長さ150間(272.7m)の5町歩(15,000坪、約5ha)を小画とした。更に900間四方(中画の9倍)の地積を以て大画とした。
一般的には小画を移民1戸当たりの基準とし1戸分と言ったことから今日も尚5町歩を1戸分と言われる所以である。
 この地域は「明治29年殖民地区画札内原野」といい、明治19年に北海道庁が設置された後に調査された「ヌツブコマップ原野」総面積11,640ヘクタール余の殆どが含まれているとされている。(明治35年の地区別開発略史による)が、その区域の北は帯広市昭和町の20号から南は上札内50号迄、東西には基線以西の札内川までの細長い区域で常盤区はこれに含まれていることになる。
 また、道路予定地には縦横に号及び線の名称を付け当地区は南北に基線を求めて基線以東に「東」を、以西には「西」を冠して呼称し、号は帯広市に起点をおいて追番号で表しているが、測量点が各所(数ヶ所)から行われたため区画ごとの境界に格差が生じ、例えば中札内に39号が2ヶ所あったり36号を付してありそれぞれ三角形の地積があるのは、そのことによるものである。

 明治30年4月1日から「北海道国有未開発地処分法」が施行されたが、これは未開発地を無償で貸付し開墾してからこれを付与する制度で、これによって移住者が急速に増し
大正地区には石川、福井、富山、岐阜の各県から団体の入植があってその中には土地の貸下げが受けられず小作を申込んだ者もあったという。
 幸震村の人口が明治30年に165戸(639人)となり、同35年には221戸(894人)となっていることからも、その急増を物語っている。

 4年後の明治34年に愛国の8号から幸震(現大正町)、上札内を経て大樹に通じる「札内原野殖民地道路」が着工され漸く道路開発の見通しが立ち、常盤区内(上札内から39号までの間)は明治39年二施行された。
 また、明治38年に帯広・釧路間の鉄道が開通したことや日露戦争の終結で景気が上昇し、土地の売買も活発になり移民も繁くなってその年に内海又吉・田丸近一・勘原新助・勘原良三郎の4氏が入地して当部落の最初の住民となった。
 この年、明治38年を常盤区の開基とする。しかし、この人達は開拓の傍ら生活を維持するため炭焼や下駄棒(下駄の材料)を作って僅かな現金収入を得たもので、あるとき(明治41年頃)ドロの大木を切断して天狗の怒りにふれて暴風となり恐怖におののいたこともあったというが当時の住戸が拝み小屋で出入口にムシロを下げただけの粗末なものであっただけに如何に怖かったが想像される。

 翌39年には豊岡伍作ほか3氏が入地したが、豊岡氏が広い土地の貸下げを受けたため縁故者や小作人が相次いで入地し、更に先に大正地区に移住した加賀や越前団体の人達が増反や分家などで競って土地を求めたので3年後の明治42年には戸数も26戸となり、その年に小学校(旧札内校)も開校されて漸く安定の兆しが見え、加えて初代校長が先に大正地区に加賀団体長として入植された久保清次氏であったことが一層住民に力強さを感じさせたものである。
 こうして人々の苦労は着実に稔り開墾作業も順調に進んでこの年は農地の払下げを受け得るまでになり、その前年の明治41年に未開地処分法の改正が行われて「無償ヲ売払制度トシテ大地積ハ大企業ノ企業ヲ高メタメ売払イトシ、小地積ハ貸付シテ無償付与ヲシテ移民ノ自作農化ヲ図ル」となったが当地区には影響もなく区内で210ヘクタールの農地が付与を受けた。
しかし、区内居住者で付与を受けたのは僅か4戸(40ヘクタール)で大部分は地主の嶋谷伊三郎氏(140ヘクタール)高下貞平氏(30ヘクタール)で占めており、小作人が多かったことを物語っている。
 翌43年には160ヘクタールの農地が新しく付与を受け、続いて44年、45年と開拓は進んで総面積526ヘクタール余、土地所有者は48名に及んだが、その内32名を村外者で占め、区内居住者は16名に過ぎなかった。
 その間明治43年に嶋谷伊三郎氏の土地は高倉安次郎氏に移り、昭和5年には更に作田太七郎に移譲され、その後徐々に耕作者(小作人)に売渡され、その他の村外者の土地も縁故者や分家等に譲渡されて村外地主はその姿を消し、更に太平洋戦争後の昭和22年の農地改革(自作農創設特別処置法の施行)により買収、売渡しが行われて殆どの農家が自作農となった。
こうして大地主は姿を消したが往時の開拓にはその人々の貢献度は大きく、特に当区では開拓当初の嶋谷、(高倉)農場、豊岡伍作氏、大正時代から昭和初年の内山忠次郎氏があげられるが、その中でも内山氏は永年当部落で営農をされ公私ともに名だたる活躍をされたので特筆して面影を留めることとする。

2017年7月29日 (土)

加賀団体による十勝地方への開拓移住者(5)

常盤地区
常盤史(昭和59年7月20日発行)によると常盤への最初の入植者は明治38年内海又吉、田丸近1、勘原新助、勘原良三郎の4人であった。
翌明治39年、豊岡伍作、菅原増太郎、建部仁三郎が入植した。その後、縁故者や小作人が相次いで入植し明治42年には戸数26戸となったと書かれています。
常盤開拓100年記念誌「常盤史」(平成16年12月23日)より石川県より入植された方が掲載されていましたのでこの資料より開拓の歴史を見ていきます。

常盤区の位置
常盤区、北は40号から南は47号、東に基線から西へ札内川右岸までの地域で、南北におよそ3,870m東西1,465mで細長い行政区であって中札内市街と隣接し極めて利便性にも恵まれた区である。

区の名称
開拓当初の名称は定かではないが、地主の名を冠した農場名や単に幸震村上札内と字名を呼称していたようである。
大正4年4月1日に幸震村、売買村、上帯広村の三村の地域を以て大正村が誕生したことに伴い「部落」が定められ当区は第37部となった。
 その後大正13年2月に川西村(現川西、清川町)が分村したことにより部落名も改正されて第23部となったが、大正15年にその番号制を廃して地区名とすることになり、「常盤」と称するようになった。
 「常盤」とは木の葉がいつも緑である、または永久に変わらない状態を意味したもので、この名称は当時当地区選出の大正村議会議長の内山忠次郎氏によって選定されたものと言われる。

沿革
 明治2年8月に蝦夷が北海道と改称されて11国86郡となり、そのうち十勝は7郡51村と記されているが、当時は人家のある場所を単位として村と呼んだのでその数は鮮明ではない。
 明治9年に区制が布設され十勝は第23区第6小区となったが、明治12年には区制を廃して郡町村制が布かれ町村は先に調査された51村を基礎とし、河西郡は12村となった。しかしその先の調査の時に住んでいた人が移転したことにより既に人気のない村もあったという。
 常盤区は幸震村に属しており村の人口は明治14年調べで5戸15人であったとされているが、当部落に人家があったかどうかは定かではない。この地帯の地勢は札内川に沿ってピヨータン沢付近から穏やかな傾斜で下り十勝平野に広がる扇状形の平野地に属し、地域一帯は800年前に樽前山の爆発によって降った火山灰の地域と言われているが、当部落は札内川及びそれに連なる樹林に接しているため地味は回復して火山灰のそれとはやや異なり比較的に肥沃である。
 しかし、その反面水による被害は甚大で、増水の都度、氾濫して川岸に接する多くの土地を流失し、または冠水して表土を流し去るなど、その災いは常に繰り返され、そのため農地を失ってこの地を去った人や心ならずも住居を変えなければならなかった人も多く、これがこの地域の開拓を大きく阻害したことは否めない。
 このような特異性のある川であるため魚介類も目立ったものはなく、「ウグイ、カジカ、ドジョウ」程度の小魚が見られるだけで住民の食生活を潤すには至らなかった。また川幅が広がり原生樹林も多かったので山ブドウやコクワも相当に多かったが、これも水害で再三流されて秋の実りを見るのは僅かで遊ぶ子供達の慰め程度の量にすぎなかった。
 特に原住民はおよそ川を中心にして、そこに居住したいといわれ他の地方では逸話や遺跡などが残されているのを聞くが、当地区はこのような川の状況もあってか、その足跡をうかがい知ることができない。

2017年7月22日 (土)

加賀団体による十勝地方への開拓移住者(4)

加賀団体の入植
中札内村史(平成10年3月31日発行)より加賀団体の移住について書かれている事項を転記します。
明治29年の水害で石川県内各地では大きな被害を受けました。
加賀団体は明治30年石川県能美郡新丸村の住民40名余が団長に久保清次、副団長に山本清次郎を選んで組織された。ただし団体への加入資格は「120円以上の資金を有すること」が条件であった。

同年幸震村の地積60万9000余坪(約203ha)の殖民地貸与を受けた、その地は同29年
7月に久保清次が十勝国に入り移住地に選定した札内川右岸の現在の帯広市大正町であった。岐阜県民貸付地の上流に連接していて一帯が樹林地であった。

実際の移住者は29年1名、30年30名、31年3名の34戸であった。
道庁の殖民地情況報文に『その団体の組織の結束は固く、互いに協力して開拓に従事したので開墾の成績が著しく3年目にして全地(5haから10haまで無償貸与が受けられる、5年以内に成功検査を受け個人の所有となる)を成功したもの1戸、全地の70%~80%を開拓したものが十数戸ある。最も少ないものでも2haを下回るものはいない。樹林の笹地なので開墾が困難にも拘わらずこのように成功するのはその勤勉な仕事振りが思われる。』と紹介された。

2017年7月15日 (土)

加賀団体による十勝地方への開拓移住者(3)

開拓の歴史
中札内地域の和人の手による開拓は、明治38年以降であり、十勝管内では比較的遅い部類に属する。このことは、薩摩時代から北海道(蝦夷地)に対する施策は、この地域の産物をいかにして本州に移出するか、特に海産物に重点がおかれていたことと、北方(ロシヤ)の脅威に備えての沿岸防備に対応するためであったこと、こうしたことに加えて松前藩の「場所請負制度」は自然沿岸地域一帯の和人の定住、周辺の開拓に結びつき、その地点を拠点として内陸部の良好な原野を求めて和人の進出、入植は進んでいった。その場所として、良好な舟便の可能な湾岸、大河の畔りということになる。
これから遠隔の地であった札内川の川沿い、中でも、日高山麓に近いサツナイ原野一帯は、アイヌの人々にとっては豊かな狩猟の場であっても、和人の入植を容易に受け入れる環境にはなかったと言えるし、また道南の各地に比較して和人の進出要素が遅く、トノサマバッタの被害が生ずるまでは、十勝内陸部の農牧地の適応性が理解されておらず、十勝内陸部入植者がみられなかった、ということもあり、サツナイ原野の入植は、明治30年代に始まっているが、それも漸く市街地形成を成していた帯広周辺であり、サツナイ上流地域にまで及んでいなかった。
明治38年、帯広、落合間の鉄道開通を機会に、道内各地の既入植者からの移住、新しい土地を求めての入植者の増で中札内地域一帯の開拓が始まった、と言える。
従って、この地域では、他の地域で多くみられる様な「団体移住」は極く限られており、また大地主(不在地主)による農場開拓の歴史もみるべきものはない。

各地からの入植者
十勝の和人入植の歴史分類からみると第二次入植者とみるべきかも知れない。
村内には他の地域と異って多くの府県からの入植者があるが、このことが、これからのことを示している。島根、広島、徳島、静岡、福島、青森、岐阜、福井、石川、富山等多くの府県出身者を祖先として持つ村民が多いことは、他にみられない特徴でないだろうか。こうしたことから、本州からの移住者時を詳細に語り継がれる記録も少ない。
村内に入植した人々の中に、石川県からの祖先を持つ人の多くは、現大正町に団体入植した加賀団体であり、福井県のそれは現昭和町入植の越前団体であり、いま、この両団体の移住経過と、一入植者の苦難の歩みを掲載し、その程度の差はあれ、我々の父祖のこうした苦難の足跡に、現在の豊かな故郷が生れたということを理解すべきであると書かれています。

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