2017年8月19日 (土)

加賀団体による十勝地方への開拓移住者(8)

現在の中札内村
こうして開拓が始まってから40余年の歳月は流れ、その間には相次いで起こった札内川の氾濫で多くの土地を流失し、または、冠水して新たに川をなすなど幾多の変遷を重ねてきたが、戦後は堤防の施設も急速に進み漸くその難も遠ざかり現在では堤防の完成のほか、砂防ダムも要所に設けられて水害も今は昔の物語として止まるに至り、農耕地450ヘクタール余と宅地其の他を含めて完全に確保されるに至った。

また戸数(人口)も開拓当初に急速な増加を見て、大正初期には41戸を数えこともあったが、生活が不安定のため移り変りも激しく終戦後(昭和20年)までの移動は転入132戸、転出も100戸の多きに及んだ。
しかし、戦後の60余年間は社会経済の変動や経営規模の拡大などによる移動が若干見られるものの、大きい変動は概ね安定の兆しが見られ、昭和55年頃戸数は28戸であったが平成16年には25戸である。

2017年8月12日 (土)

加賀団体による十勝地方への開拓移住者(7)

内山忠次郎の功績
内山氏が当区に入植されたのは開拓の始めよりやや後れて大正7年と聞くが、27才の若さで早くも開拓の志を樹てられ明治29年に先に渡道していた叔父孝太郎氏を頼って千葉県匝瑳郡豊栄村(現八日市場市亀岡)から単身で渡道され幸震村(現大正町)に入地されて以来上途別、越前、幸福等数ヶ所に亘って開拓が進められた。
その間明治32年に越前(現昭和町)の小森清太郎氏の次女セツさんと結婚して、いよいよ北海道永住の意思を固められた氏は身辺整理のため一時帰郷して実家の整理をし、父親甚右ヱ門氏(大正12年死去)を伴って再び新開地に戻り開拓に精魂を傾けられ夫婦間に子供が恵まれなかったこともあってか、将に開拓に一路に精進されたのである。

明治44年に中札内(現北1区)に移住したが、そのころから逐次農地を拡張して大正5年には常盤区内に45ヘクタールを取得し、大正7年に入地(西2線268番地)され、以来毎年多くの雇人を使って営農して、その後も多くの土地(150ヘクタール)を取得し、その所々に小作人を入れて営農させるなど将に大地主として活躍された。
一方公職の歴史も長く大正4年に大正村初代(大正4年に村が誕生)の議会議長として選出されたのにはじまり、その後常盤区に居住後も引続いて7期(Ⅰ期2年)当選し昭和4年6月で14年間に亘って村政に参画され、学務委員等も務められなど地域の進展に偉大な貢献をされており、昭和2年の大正村開拓30年記念式で自治功労賞として顕彰されている。

しかし、昭和20年太平洋戦争終結直後の9月に生涯苦楽を共にした妻セツさんに先立たれ、続いて自作農創設特別処置法による農地改革で多くの土地を手放し、加えて年齢も既に75才となったことから、農業を離れ悠々自適の生活に入ったが、その期間も長くは続かず、昭和25年12月17日遂に81年の歴史を残して大往生を遂げられている。ここに氏の生前の労をねぎらうと共にその御功績を永く讃えたい。

2017年8月 5日 (土)

加賀団体による十勝地方への開拓移住者(6)

十勝の開拓
 北海道に開拓は殖民地の選定から始まり区画制を明治24年から行われたが、十勝原野は広大なため1年では区画測量が出来ず、先ず十勝川沿岸からはじまり、年毎に増画され当地域は明治29年に区画をされている。
 これを「殖民地区画」といい、300間(545.4m)毎に縦横に道路予定地をとって区画し、その300間平方の地積30町歩(90,000坪、約30ha)を中画といい、それを6等分して巾100間(181.8m)、長さ150間(272.7m)の5町歩(15,000坪、約5ha)を小画とした。更に900間四方(中画の9倍)の地積を以て大画とした。
一般的には小画を移民1戸当たりの基準とし1戸分と言ったことから今日も尚5町歩を1戸分と言われる所以である。
 この地域は「明治29年殖民地区画札内原野」といい、明治19年に北海道庁が設置された後に調査された「ヌツブコマップ原野」総面積11,640ヘクタール余の殆どが含まれているとされている。(明治35年の地区別開発略史による)が、その区域の北は帯広市昭和町の20号から南は上札内50号迄、東西には基線以西の札内川までの細長い区域で常盤区はこれに含まれていることになる。
 また、道路予定地には縦横に号及び線の名称を付け当地区は南北に基線を求めて基線以東に「東」を、以西には「西」を冠して呼称し、号は帯広市に起点をおいて追番号で表しているが、測量点が各所(数ヶ所)から行われたため区画ごとの境界に格差が生じ、例えば中札内に39号が2ヶ所あったり36号を付してありそれぞれ三角形の地積があるのは、そのことによるものである。

 明治30年4月1日から「北海道国有未開発地処分法」が施行されたが、これは未開発地を無償で貸付し開墾してからこれを付与する制度で、これによって移住者が急速に増し
大正地区には石川、福井、富山、岐阜の各県から団体の入植があってその中には土地の貸下げが受けられず小作を申込んだ者もあったという。
 幸震村の人口が明治30年に165戸(639人)となり、同35年には221戸(894人)となっていることからも、その急増を物語っている。

 4年後の明治34年に愛国の8号から幸震(現大正町)、上札内を経て大樹に通じる「札内原野殖民地道路」が着工され漸く道路開発の見通しが立ち、常盤区内(上札内から39号までの間)は明治39年二施行された。
 また、明治38年に帯広・釧路間の鉄道が開通したことや日露戦争の終結で景気が上昇し、土地の売買も活発になり移民も繁くなってその年に内海又吉・田丸近一・勘原新助・勘原良三郎の4氏が入地して当部落の最初の住民となった。
 この年、明治38年を常盤区の開基とする。しかし、この人達は開拓の傍ら生活を維持するため炭焼や下駄棒(下駄の材料)を作って僅かな現金収入を得たもので、あるとき(明治41年頃)ドロの大木を切断して天狗の怒りにふれて暴風となり恐怖におののいたこともあったというが当時の住戸が拝み小屋で出入口にムシロを下げただけの粗末なものであっただけに如何に怖かったが想像される。

 翌39年には豊岡伍作ほか3氏が入地したが、豊岡氏が広い土地の貸下げを受けたため縁故者や小作人が相次いで入地し、更に先に大正地区に移住した加賀や越前団体の人達が増反や分家などで競って土地を求めたので3年後の明治42年には戸数も26戸となり、その年に小学校(旧札内校)も開校されて漸く安定の兆しが見え、加えて初代校長が先に大正地区に加賀団体長として入植された久保清次氏であったことが一層住民に力強さを感じさせたものである。
 こうして人々の苦労は着実に稔り開墾作業も順調に進んでこの年は農地の払下げを受け得るまでになり、その前年の明治41年に未開地処分法の改正が行われて「無償ヲ売払制度トシテ大地積ハ大企業ノ企業ヲ高メタメ売払イトシ、小地積ハ貸付シテ無償付与ヲシテ移民ノ自作農化ヲ図ル」となったが当地区には影響もなく区内で210ヘクタールの農地が付与を受けた。
しかし、区内居住者で付与を受けたのは僅か4戸(40ヘクタール)で大部分は地主の嶋谷伊三郎氏(140ヘクタール)高下貞平氏(30ヘクタール)で占めており、小作人が多かったことを物語っている。
 翌43年には160ヘクタールの農地が新しく付与を受け、続いて44年、45年と開拓は進んで総面積526ヘクタール余、土地所有者は48名に及んだが、その内32名を村外者で占め、区内居住者は16名に過ぎなかった。
 その間明治43年に嶋谷伊三郎氏の土地は高倉安次郎氏に移り、昭和5年には更に作田太七郎に移譲され、その後徐々に耕作者(小作人)に売渡され、その他の村外者の土地も縁故者や分家等に譲渡されて村外地主はその姿を消し、更に太平洋戦争後の昭和22年の農地改革(自作農創設特別処置法の施行)により買収、売渡しが行われて殆どの農家が自作農となった。
こうして大地主は姿を消したが往時の開拓にはその人々の貢献度は大きく、特に当区では開拓当初の嶋谷、(高倉)農場、豊岡伍作氏、大正時代から昭和初年の内山忠次郎氏があげられるが、その中でも内山氏は永年当部落で営農をされ公私ともに名だたる活躍をされたので特筆して面影を留めることとする。

2017年7月29日 (土)

加賀団体による十勝地方への開拓移住者(5)

常盤地区
常盤史(昭和59年7月20日発行)によると常盤への最初の入植者は明治38年内海又吉、田丸近1、勘原新助、勘原良三郎の4人であった。
翌明治39年、豊岡伍作、菅原増太郎、建部仁三郎が入植した。その後、縁故者や小作人が相次いで入植し明治42年には戸数26戸となったと書かれています。
常盤開拓100年記念誌「常盤史」(平成16年12月23日)より石川県より入植された方が掲載されていましたのでこの資料より開拓の歴史を見ていきます。

常盤区の位置
常盤区、北は40号から南は47号、東に基線から西へ札内川右岸までの地域で、南北におよそ3,870m東西1,465mで細長い行政区であって中札内市街と隣接し極めて利便性にも恵まれた区である。

区の名称
開拓当初の名称は定かではないが、地主の名を冠した農場名や単に幸震村上札内と字名を呼称していたようである。
大正4年4月1日に幸震村、売買村、上帯広村の三村の地域を以て大正村が誕生したことに伴い「部落」が定められ当区は第37部となった。
 その後大正13年2月に川西村(現川西、清川町)が分村したことにより部落名も改正されて第23部となったが、大正15年にその番号制を廃して地区名とすることになり、「常盤」と称するようになった。
 「常盤」とは木の葉がいつも緑である、または永久に変わらない状態を意味したもので、この名称は当時当地区選出の大正村議会議長の内山忠次郎氏によって選定されたものと言われる。

沿革
 明治2年8月に蝦夷が北海道と改称されて11国86郡となり、そのうち十勝は7郡51村と記されているが、当時は人家のある場所を単位として村と呼んだのでその数は鮮明ではない。
 明治9年に区制が布設され十勝は第23区第6小区となったが、明治12年には区制を廃して郡町村制が布かれ町村は先に調査された51村を基礎とし、河西郡は12村となった。しかしその先の調査の時に住んでいた人が移転したことにより既に人気のない村もあったという。
 常盤区は幸震村に属しており村の人口は明治14年調べで5戸15人であったとされているが、当部落に人家があったかどうかは定かではない。この地帯の地勢は札内川に沿ってピヨータン沢付近から穏やかな傾斜で下り十勝平野に広がる扇状形の平野地に属し、地域一帯は800年前に樽前山の爆発によって降った火山灰の地域と言われているが、当部落は札内川及びそれに連なる樹林に接しているため地味は回復して火山灰のそれとはやや異なり比較的に肥沃である。
 しかし、その反面水による被害は甚大で、増水の都度、氾濫して川岸に接する多くの土地を流失し、または冠水して表土を流し去るなど、その災いは常に繰り返され、そのため農地を失ってこの地を去った人や心ならずも住居を変えなければならなかった人も多く、これがこの地域の開拓を大きく阻害したことは否めない。
 このような特異性のある川であるため魚介類も目立ったものはなく、「ウグイ、カジカ、ドジョウ」程度の小魚が見られるだけで住民の食生活を潤すには至らなかった。また川幅が広がり原生樹林も多かったので山ブドウやコクワも相当に多かったが、これも水害で再三流されて秋の実りを見るのは僅かで遊ぶ子供達の慰め程度の量にすぎなかった。
 特に原住民はおよそ川を中心にして、そこに居住したいといわれ他の地方では逸話や遺跡などが残されているのを聞くが、当地区はこのような川の状況もあってか、その足跡をうかがい知ることができない。

2017年7月22日 (土)

加賀団体による十勝地方への開拓移住者(4)

加賀団体の入植
中札内村史(平成10年3月31日発行)より加賀団体の移住について書かれている事項を転記します。
明治29年の水害で石川県内各地では大きな被害を受けました。
加賀団体は明治30年石川県能美郡新丸村の住民40名余が団長に久保清次、副団長に山本清次郎を選んで組織された。ただし団体への加入資格は「120円以上の資金を有すること」が条件であった。

同年幸震村の地積60万9000余坪(約203ha)の殖民地貸与を受けた、その地は同29年
7月に久保清次が十勝国に入り移住地に選定した札内川右岸の現在の帯広市大正町であった。岐阜県民貸付地の上流に連接していて一帯が樹林地であった。

実際の移住者は29年1名、30年30名、31年3名の34戸であった。
道庁の殖民地情況報文に『その団体の組織の結束は固く、互いに協力して開拓に従事したので開墾の成績が著しく3年目にして全地(5haから10haまで無償貸与が受けられる、5年以内に成功検査を受け個人の所有となる)を成功したもの1戸、全地の70%~80%を開拓したものが十数戸ある。最も少ないものでも2haを下回るものはいない。樹林の笹地なので開墾が困難にも拘わらずこのように成功するのはその勤勉な仕事振りが思われる。』と紹介された。

2017年7月15日 (土)

加賀団体による十勝地方への開拓移住者(3)

開拓の歴史
中札内地域の和人の手による開拓は、明治38年以降であり、十勝管内では比較的遅い部類に属する。このことは、薩摩時代から北海道(蝦夷地)に対する施策は、この地域の産物をいかにして本州に移出するか、特に海産物に重点がおかれていたことと、北方(ロシヤ)の脅威に備えての沿岸防備に対応するためであったこと、こうしたことに加えて松前藩の「場所請負制度」は自然沿岸地域一帯の和人の定住、周辺の開拓に結びつき、その地点を拠点として内陸部の良好な原野を求めて和人の進出、入植は進んでいった。その場所として、良好な舟便の可能な湾岸、大河の畔りということになる。
これから遠隔の地であった札内川の川沿い、中でも、日高山麓に近いサツナイ原野一帯は、アイヌの人々にとっては豊かな狩猟の場であっても、和人の入植を容易に受け入れる環境にはなかったと言えるし、また道南の各地に比較して和人の進出要素が遅く、トノサマバッタの被害が生ずるまでは、十勝内陸部の農牧地の適応性が理解されておらず、十勝内陸部入植者がみられなかった、ということもあり、サツナイ原野の入植は、明治30年代に始まっているが、それも漸く市街地形成を成していた帯広周辺であり、サツナイ上流地域にまで及んでいなかった。
明治38年、帯広、落合間の鉄道開通を機会に、道内各地の既入植者からの移住、新しい土地を求めての入植者の増で中札内地域一帯の開拓が始まった、と言える。
従って、この地域では、他の地域で多くみられる様な「団体移住」は極く限られており、また大地主(不在地主)による農場開拓の歴史もみるべきものはない。

各地からの入植者
十勝の和人入植の歴史分類からみると第二次入植者とみるべきかも知れない。
村内には他の地域と異って多くの府県からの入植者があるが、このことが、これからのことを示している。島根、広島、徳島、静岡、福島、青森、岐阜、福井、石川、富山等多くの府県出身者を祖先として持つ村民が多いことは、他にみられない特徴でないだろうか。こうしたことから、本州からの移住者時を詳細に語り継がれる記録も少ない。
村内に入植した人々の中に、石川県からの祖先を持つ人の多くは、現大正町に団体入植した加賀団体であり、福井県のそれは現昭和町入植の越前団体であり、いま、この両団体の移住経過と、一入植者の苦難の歩みを掲載し、その程度の差はあれ、我々の父祖のこうした苦難の足跡に、現在の豊かな故郷が生れたということを理解すべきであると書かれています。

2017年7月 8日 (土)

加賀団体による十勝地方への開拓移住者(2)

幸震村
幸震村(さつないむら)は、かつて北海道河西郡にあった村で、現在は十勝総合振興局.
河西郡中札内村となっています。
 中札内村の北側には帯広市が接し、東側には河西郡更別村、南側には広尾郡広尾町と接しており、西側には日高山脈があります。
 現在はタレントの田中義剛氏が牧場長を務める「花畑牧場」で有名な観光牧場のある場所でもあります。
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村の沿革
1902年(明治35年)4月1日 - 北海道二級町村制施行により河西郡幸震村が村制施行し、幸震村が発足した。
1915年(大正4年)4月1日 - 河西郡上帯広村、売買村と合併し大正村を新設して消滅。
1947年(昭和22年)9月1日 - 旧村域である大正村大字幸震村の一部が分割され、新設の中札内村、更別村の一部となった。

幸震村の歴史の項目は札内村史より転記しました。
サツ・ナイ(乾く川)の意があり、「この川は不思議に西南の風(ピカタ風)吹けば、雨降らずして水量増す。
平時ことに夏に至れば、川水減少し、往々床々に乾固の場所を生ずる。ゆえにこの名あるなり」といわれている。
旧大正村幸震は、幸(サチ)・震(ナイ)をあてたものであり、渇水は夏に限らず、冬期間も、中札内市街地より上流約数kmにわたって渇水状態となることからこの名がある。

2017年7月 1日 (土)

加賀団体による十勝地方への開拓移住者(1)

石川県から幸震村への開拓移住者
 
石川県能美郡新丸村から北海道幸震村へ開拓移住した人達の歴史を調べるために幸震村を訪ねてきました。
平成27年7月のある日、日高町から日勝峠を越え帯広に入りました。この日勝峠は2回目なのですが、今回も峠の上の方は霧がかかって峠からの風景は見えませんでした。
中札内村への途中に幸福駅がありました。

明治時代に福井県から幸震村(さつない)へ入植した開拓移住者の地域で、アイヌ語のサツナイという当て字が読みにくいので「(幸震)コウシン」と呼ぶことが多かったそうです。
この地域の人達が何時ごろからか不明だが福井の「福」と幸震の「幸」を合わせて「幸福」という地名にしたそうです。
 この地区に国鉄の広尾線の駅がありましたが昭和62年(1987年)の廃線に伴い廃駅となりましたが、「愛国駅から幸福駅」という触れ込みで今でもこの駅を多くの観光客が訪れています。
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                     (旧国鉄広尾線軌道)

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P7230099                             (幸福駅ホーム)

幸福駅を後にして中札内村を訪れたころは雨模様になりました。
中札内村役場を訪ね、開拓の歴史について尋ねると役場の副村長さんが話を聞き対応してくださいました。
石川県の新丸村から幸震村への開拓移住者の方々の入植について尋ねると、石川県からの開拓の入植者が多く入植しているのは帯広市の大正町の方ではないかとのことでした。
それでも新丸村の開拓移住者の一覧を見て「この壬生(みぶ)という名前の人は当村にいる」と言われ、壬生(いくるみ)さんとお呼びするのですねと尋ねると「そうです」と答えられました。
この方の呼び方は一般的ではないため先代の方は新丸村出身者ではないかと思うようになりました。
副村長さんは別室から一冊の本を持ってこられ、それを開き名前を調べ始めました。
この記念誌の中の王生さんは石川県出身であることがわかりました。
その本は「常盤開拓100年記念誌」でした。その記念誌をお借りすることが出来、関係個所をコピーし返却しました。

この十勝地区には幸震村、高島第二農場があり石川県から多くの人達が入植している地域でもあります。
今回は幸震村を主体に調べた事を書いていきます。

役場で中札内図書館の場所を教えていただき、図書館に向かいました。
雨は一向に止む気配がありませんが目的の図書館がありました。
中札内文化創造センターというホールや会議室などの複合施設の中に図書館がありました。
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                       (中札内文化創造センター)


図書館の中は広く沢山の蔵書の中から中札内村史ほか資料を読み漁り、必要箇所を抽出しコピーして頂き図書館を後にしました。

2017年3月25日 (土)

石川県から石狩町花畔村への開拓移住者(10)

入植時の石川県の出身地名
石狩地区への入植時の出身地は石川県下の16町村に渡っていました。
その当時の出身地と現在の市町名を揚げておきますので参考して頂けたらと思います。
出身当時の町名          現在の市町名
江沼郡東谷奥村荒谷      加賀市山中温泉荒谷町
江沼郡東谷奥村今立、西袋  加賀市山中温泉今立町
江沼郡東谷奥村大土      加賀市山中温泉大土町
江沼郡東谷奥村新保      加賀市山中温泉上新保町
 ※記念誌では東谷奥村新保となっていますが、上新保と思われます。
江沼郡上河原崎村       加賀市河原町
 ※記念誌では上河原崎となっていますが、河原と思われます。
江沼郡庄村            加賀市庄町
能美郡串村             小松市串町
能美郡新丸村新保         小松市新保町
能美郡長野村字牛島       能美市牛島町
石川郡白峰村字白峰       白山市白峰
河北郡倶利伽羅村竹橋     河北郡津幡町竹橋
羽咋郡東増穂村里本江     羽咋郡志賀町里本江
羽咋郡椑造村             羽咋郡志賀町今田
羽咋郡子浦               羽咋郡宝達志水町子浦
鹿島郡滝尾村             中能登町小竹
鳳至郡南志見町字西山志   輪島市西山町

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新天地を求め上川郡江丹別への再移住
 花畔での開拓を完成させ予定存置を確定させた加賀団体であったが、花畔開拓が完了してから石狩国上川郡のエタンベツ原野の未開地90万8688坪の貸付を受け、この地に小作人を入れて開墾したと記録されています。

 道立文書館の資料では江丹別の開墾は明治34年とある。江丹別原野開墾、そして江丹別への再移住を決意した動機には明治30年の「北海道土地払下規則によって開墾成功後土地払下げが従来は千坪1円であったが無償となった事や花畔の土地の開墾成功によって土地を担保に入れることが可能となり、土地請願の資金調達がしやすい条件が整ったことによるものと推定されます。

石川県人の気質
 記念史の中で明治44年の北海道庁調査の「北海道と各道府県の関係」には石川県移住者の気質について「一般質素にして着実勤倹、よく業務に励むといえども、やや偏執(頑固)の評あるを免れず、いずれも仏教の信仰厚し。然れども酒を飲み賭博をなすもの少なからず、商業中にはすこぶる有為の人物あり」とやや辛口の評価がなされていると書かれています。
 花畔の開墾やその後の江丹別原野への再挑戦という、他の開拓者にはまねのできない行為には同郷の者として改めて敬意を表するものです。

 このようにして開拓された花畔村でしたが、明治35年には樽川村と花畔村が合併することになり、お互いから1字 ずつとって花川村となった経緯がありました。
 明治40年に石狩郡石狩町と石狩郡花川村が合併し、石狩郡石狩町となりました。
平成8年には市制をひき、石狩市となっています。石狩市役所も近くにあり、札幌市のベットタウンとして発展している町です。
平成24年(2012年)8月27日輪島市と友好都市提携を行っています。
 

2017年3月18日 (土)

石川県から石狩町花畔村への開拓移住者(9)

加賀団体の故郷(能美郡新丸村)について
・地理
新丸村は能美郡の最南端に位置している。東方は石川郡の白峰村、尾口村、鳥越村に、南方は福井県大野郡の北谷村、野向村、荒土村(現在勝山市)に接している。
西方は江沼郡の東谷奥村(現在山中町)、西谷村(現在山中町)、能美郡大杉谷村(現在小松市)に、北方は能美郡の西尾村(現在小松市)及び石川郡の鳥越村に接している。
新丸村(しんまるむら)は、石川県能美郡に存在した村である。

 東西の最長距離は4.3㎞、南北の最長距離は16.6㎞でその面積は83.75㎢である。
  明治22年(1889年)の市制町村制施行により新保村、瀬納谷村、丸山村、小原村、杖村が合併し新丸村となった。合併した村のうち、新保・丸山の両村の名前より新丸とした。
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自然災害
 この村も山に囲まれた場所で河川の氾濫や山崩れ等で様々な災害に見舞われた歴史があります。その中でも村民が北海道へ移住することになった大災害がありました。
明治29年8月1日の大豪雨のため、河川が氾濫し、県下全体に大きな被害をもたらしたのですが、村内を流れる大日川も大増水し滝の尻川沿いに土砂崩れがおこり、村内に大きな被害が出ました。

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  特に丸山、新保では被害が甚だしかったが、その惨状の悲惨さに中には復興を断念し、新天地に希望を託して北海道に渡る者41戸、231名に達している。
 新丸村の資料では明治23年に新保地区から春木氏ほか5家族が北海道石狩国石狩郡花畔村(ばんなぐろむら) へ開拓移住が始まったと記載されていましたが、花畔開拓資料では明治27年となっていました。

生活様式
 新丸村の村民はどのような生活をしていたかが記録されていましたので、生活様式が記載されたものを転記します。
 昭和初期までの生活状態の一端を述べると、夜の寝具では村内を通じ敷布、布団を敷いて寝るような家は一部落で2、3軒位です。
大抵は藁を敷き夜具の一枚も着て寝るという家は上の部であり、多くはその時その時の着のみ着のままで眠り、その尽ですぐに労役に服したものであります。
また調味料の如きものは村内の余程の裕福な家でなければ味噌を用いなく多くは塩のみでありましたと記載されていました。
 新丸村からの移住者は多く、石川県内、福井県、その他で特に多かったのが北海道への移住者です。
 北海道も各所に開拓移住していますので、別項目で「新丸村」からの開拓移住者を取り上げていきたいと思っています。

 

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