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2015年2月 5日 (木)

移住後の回想録より

南 様より提供を受けた資料です。

回想録の中で入植当時の貴重な資料となる個所を抜粋して転載させていただきます。

先祖は石川県江沼郡田尻村にて誕生しました。5人の幼い子供を連れて明治25年、前途に希望を抱き見知らぬ寒い国、北海道へ移住しました。
 母は家族の着物や着替え、そして最小限の身の回り品しか持って行けなかったことと、少しの貯えのお金は船賃や食費や生活費に必要であった。
四六時中賑やかな子供たちに反して母は複雑な気持ちで親類縁者に別れを告げ、気の休まる間もなく船に乗ったことだろう。
 当時の移住民は金石港より汽船で2昼夜かかって岩内港に上陸し、今の前田に向かったのですが、当時の岩内はまだ徴々たる1漁村で周りは湿地草原でした。
 いわんや前田村の地は鬱蒼としたジャングル地帯で熊やその他の野獣が出没していたのです。なかには意気消沈して働く気力も起こらなかった者もあったと墾鑿の譜という本に記してありますが、これは現実の話で色々と聞かされておりました。先に入植した人達は後からの人達を助け、道路作りと学問に力をいれたそうです。

祖父母の両親の会話には橋立の話ばかり出て、金石港の話題は出なかった。また、家族も一緒に行ったと思われる。その他の事情を想像すると、わたしたちの先祖は橋立から乗船したように思われます。
 祖父母の定住の地は暫らく無かったが、やがて岩内町の清住に住居を定めて小商店を営む(4~5年この場所に住むが)明治26年2月2日に私の叔父が岩内で生まれた。後に南権次郎家へ養子に行き南与惣松となる。

 当時、お米一俵が2円66銭の時代で祖父母の大変なときでした。
 家族をばらばらにしてはいけないと思い、郷土の出身者とも相談して当時の前田村岩崎へ先にきていた辻野伊太郎さん(大変文筆のたつ方で、後年小樽税務署管内土地査定委員を務める)のお世話で定住して開拓農業をすることにした。

 前田村岩崎での生活
 夏はいいのだが、蚊やブヨ、ハエが多く非衛生的で悩まされていた。木陰に行くと早速やぶ蚊やアブに刺された。冬は日本海からの季節風が強いので、住む小屋のような家は風の弱い谷間の低い所で小川の近い場所に5~6軒かたまって住んでいました。小川は炊事、洗濯の生活用水でもありました。
 祖父母が仮小屋をたてて春、夏大急ぎで薯(いも)やソバ、大根、その他を蒔く、鶏(にわとり)も飼い大切な栄養源となった。
 開拓といえば聞こえがよいが、毎日が土方の連続で大変な仕事である。今ならブルトーザーやショベルカーがあり、勿論新聞やラジオもない原始の生活、電気もなければランプを買うお金もない、馬も持っていない。あるのは人力だけでした。道具といえばツルハシ、鍬(くわ)、スコップ、鎌(かま)、モッコ、鋸(のこぎり)、マサカリと手作りの一輪車でした。

子供の時に聞いた父母の話
 暗い家の中は見えないだろうにと父母に聞くと、笑顔で仏壇に使う灯心を小皿に入れ、シラシミか菜種油を入れてローソクの代わりに使っていたよと答え、「へえー!」と子ども心に驚いた記憶があります。
その頃、唯一の現金収入が手間賃稼ぎで、道路工事や農家の手間仕事であった。また、家の回りは雑木が沢山あるので切って寄せて置き、炭焼き用や家の薪として使った。炭は売って現金収入になったが、木を切った跡は木の根を掘り、笹の根を掘り、石ころ堀りの毎日だったそうだ。
「聞こえるのは風に吹かれる木々の音、岩内に行けば故郷の橋立の海を想い、山を眺めれば故郷の白山を想う。今の季節、故郷の人達は何をしているのかなー!顔が見たい!話がしたい!そのうち頑張って行くようにしようしようと。何百回と心の中で会話し、月日を重ねてきた」と望郷の念を話された。
 故郷から便りがあると家族みんなで回し読みし、手紙を中心に語りあった。同郷人に会うと手紙の話を又聞いてくる。最後には鴨居の状差しに入れてしまうとまるで神社のお札のようになったとのことだった。このことは昔、父や母から聞いたことでした。

 私の小さいころの思い出
 私等の小さい頃は言葉の違いが大きかった記憶があります。お年寄りの生まれた地方の方言なまりの違いに驚いたものです。能登弁、加賀弁、広島弁、仙台、秋田、青森、富山、それに漁師の言葉。狭い土地に方言の多いこと、聞きなれた加賀弁はなぜか親しみがあって知らない人でもすぐに馴染んだが、聞きなれない方言で話をしているのを聞いてどんな所から来られた人だろう、親たちは普通に話
をしていると思って聞いておりました。
 でも、子供たちは学校で標準語を習うので皆同じでした。この方言も地方によって多少違いがあるが2代3代と世代が変わって北海道独特の親しみやすい言葉になってきました。

生活の記憶
家と申しましても小屋か物置のような家もあった。すべて自給自足で有るものは人の手間と助け合いの心だけの世相でした。
3~3.5間に8~8.5間の小屋、大きいように見えるが。(24坪~30坪)
小さい部屋が1つか2つあり、もう一つ炉端の部屋があり、炊事場は土間でする。後の半分は納屋兼倉庫と物置にまだるい便所と馬小屋がある。家の柱は5寸程の丸太造りで土台は無く、適当な石の上に置くだけの簡単な構造で、屋根は小麦を収穫した後の麦わらで屋根を葺き、部屋の天井だけは細い木を渡してスダレを敷いてある。
壁は湿地に自生している葦で下地を編んで粗壁を塗っただけの粗末な建物であった。外壁は雨や雪に濡れると落ちるので、葦か麦わらで養生していた。便所は炊事場から離れた土間に穴を掘り、土が崩れぬように細工して上に丈夫な板を2枚渡し、ムシロを下げただけという簡単なものだった。
生活用水は川の水を使い、井戸を掘れたら掘るという状況でした。燃料は豊富なので炭や薪や木の根を使い、手間をかけるといくらでも手に入った。
移動手段はどこへ行くにも歩く、歩く、歩くだけでした。勿論食事のバランスも悪いため、この時代の方々は小柄で平均寿命が短く50代にはお爺さんでした。
このような時に資力のある方たちは立派な家を建てていました。近くでは室岡さん、福井さん、戸田さん、沢山の部屋数と内部の造りが落ち着きのある色彩であった。家の前には大きな仙栽に北海道を模った石垣の池があり鯉が泳いでいたのを覚えている。また、色々の木や花を植えてありその北側には蔵があったのも覚えている。よく遊びに行ったものです。
今はもう、その家も仙栽も蔵も納屋も無く、道路用地になっていました。戸田さんへ行くたびにあの立派な家を思い出し、寂しい思いになりました。

お婆ちゃんは感じの良い方で、田植えに行くと昼食の時にお婆ちゃんは「食べられよ」、「食べられよ」と沢山よそわれて、食べ過ぎて苦しい思いをしたことは忘れられない思い出です。


これらの回想録は、入植当時の生活を知るうえで大変貴重な資料となりますので、南様の了解をいただき掲載させていただきました。

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