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2015年2月

2015年2月28日 (土)

3.尾口村から北海道への開拓移住について

尾口村からは30~40戸が北海道へ移住しました。
女  原から明治22年頃に10戸位が北海道へ集団移住しました。
東二口から明治29年頃に水害により戸数は不明であるが北海道へ移住となっています。
釜  谷から明治31年の大火で5~6戸が北海道へ移住しました。
鴇ケ谷から明治末期10戸位が北海道へ集団移住しました。
東荒谷から明治末期数戸が北海道へ集団移住しました。
資料より集計すると、明治22年から明治末期まで約30~40戸が北海道へ開拓移住したことになります。
明治中期~末期までの戸数は約800戸であった。


「尾口村からの開拓移住」をPDFで閲覧ください

2015年2月25日 (水)

2-2.北海道奈井江町の白山部落開拓の歴史

白峰村から北海道へ開拓移住した歴史を調査していく中で、白峰の民俗資料館を訪ね移築保存してある歴史的な建物を見学しました。
また、民俗資料館の館長さんに訪問した経緯を説明しましたところ北海道へ開拓移住した方から、「白山部落郷土史」(1958.4 白山部落開拓60周年記念)と「我らの郷土白山」(白山開拓100年記念協賛会)の2冊を寄贈して頂いたとのことで、この2冊を借用することが出来ました。

この郷土史から開拓当時の生活を垣間見ることが出来、当時の苦労と勤勉さが現在の町を培って来ていることが分かりました。
開拓60周年と100年記念誌の中から一部を摘録して「白山部落開拓の歴史」としてまとめました。

「白山部落開拓の歴史」をPDFで閲覧ください

2015年2月21日 (土)

2-1.白峰村から北海道への開拓移住者について

 白峰村からは61戸が北海道へ移住しました。
・明治29年の大水害で明治32年には半分の30戸が北海道へ移住しました。
・昭和9年の大風水害で耕地を失った多くの農民が北海道その他へ離村していきました。
・福井、石川県以外で圧倒的に多いのが北海道の61戸、大阪26戸、京都府18戸、滋賀県   17戸、岐阜県10戸、愛知県8戸、東京8戸といった数になります。
・市之瀬・赤谷・三ッ谷は明治の初めの大火で書類関係が焼失しており、明治29年の風水害で耕地が喪失しましたがその記録は残っていないそうです。
 全戸数は約170戸であったそうである。

「白峰村からの開拓移住」をPDFで閲覧ください

2015年2月20日 (金)

1.白山麓5村から北海道への開拓移住者について

白山麓に於いても洪水、土砂崩壊等で北海道へ移住を余儀なくされた歴史があります。
これらの事項を村史から、開拓した子孫の方々からの聞取りにて歴史の記録として残しておきたいと思っています。 小生の住む白山市から北海道へ移住した人々について調べることとしました。

平成の大合併で1市(松任市)、2町(美川町、鶴来町)、5村(白峰村、尾口村、吉野谷村、鳥越村、河内村)が合併し白山市となりました。いわば海抜0mから白山の頂上2,702mまでの高度差があり、石川県で最も広い行政区域でもあります。
 この白山を源とする手取川流域には多くの人達の生活があり、水との苦闘の歴史もありました。その水害の結果、多くの村落から北海道への移住開拓の夢を託し、移住した記録がありました。

 平成の大合併により、合併後の各町村役所は支所として存続していますが、これらの支所も本庁に統廃合され、昔の歴史を知る人々が高齢化してきました。
いずれ支所の中の歴史の資料等が解体後の行先もなく逸散され、歴史が途絶えると、面談して頂いた古老の方は深く憂慮されていたのが印象に残っています。
 今回、白山麓からの開拓移住者について村史、開拓団記念誌から調査したことを記録しましたが、他所の村史や開拓団の記録から新しい発見や、記録した箇所の間違いが判明すると思われますので、その都度修正し、改定していきたいと思っています。
 また、記録として後世に残すための方策を今後検討していきたいとも思います。
読者の皆様の中で渡道された方の情報等がありましたらご連絡いただければ幸いです。

以前の作成しました「白山麓からの開拓移住者たち」は白山麓5村のことをまとめてPDFとしてブログにアップできたのですが、そのブログが廃止になりましたのでPDFがアップ出来るブログを探して引っ越しをしてまいりました。
ファイル容量が1MBとなっている関係で文章を各村の単位で掲載してあります。

6.河内村から北海道への開拓移住者について

 河内村からは4戸が北海道へ移住した。
 河内村史の中からは北海道移住の資料は見いだせなかったが、吉野谷村史の中で「大椴子団体の団体移住民人名変更願」の中で4家族が天塩国留萌郡天登雁村トドコ原野に集団移住した。
 明治17年の全戸数は683戸である。

「河内村からの開拓移住」をPDFで閲覧ください

2015年2月16日 (月)

石川県から北海道への開拓移住者たち

石川県からの北海道開拓移住者たち

北方警備の重要性
明治維新政府は北海道開拓こそが殖産興業の一環と考えた政策をとってきた。
江戸時代末期頃からのロシアによる択捉島、樺太、礼文島、利尻島への略奪行為があり、ロシアにとってはこれらの島々でもアジアへ向かう重要な拠点としての認識があったであろう、度重なる侵略行為で北海道への侵略を恐れた明治政府は、屯田兵制度により開拓と国防を兼ね備えた制度を運用し、当時、失業状態であった士族の活用をも図ったのである。

屯田兵制度
明治4年戊辰戦争で旧幕府軍で敗戦した旧仙台藩岩出山領主の伊達邦直が、札幌郡石狩(現当別町)に入植したのを始めとし明治5年には開拓使制度により札幌開拓使庁を本庁とし、函館、根室、宗谷、浦河、樺太に支庁を設置した。
明治7年、建白書を政府に建議した黒田清隆が北海道開拓長官となり、翌8年には最初の屯田兵198戸965人が札幌郡琴似兵村に入村した。これは宮城、青森、酒田の士族であった。明治10年には琴似、山鼻の屯田兵が西南戦争に出動している。
明治23年、士族授産政策の終了により士族屯田から平民屯田になり、軍事優先から奥地の開拓へと転換して行くのである。

石川県の対応
金沢市史では石川県人の北海道移住の項で、明治6(1873)年5月石川県は県下物産の移出を実現すべく、忠告社社員林顕三・県吏川崎曽平に北海道の視察を命じた。
彼らは函館から渡島半島を北上し、6月末に札幌に至った。札幌では貧困にあえぐ士族の移住を進めるため、金沢区方積金により土地を買得し開墾することを開拓使庁に請願した。
その後林は北海道西海岸を経て樺太(からふと)まで視察を続けたが、9月初め再び札幌に至り、土地の買収や入植者の農具・家具・小屋掛料の給与などについて開拓史と協議を行った。
こうして石狩国札幌郡豊平川以東に75,000歩と長屋2棟を得て金沢に戻った。
この間石川県は明治6年7月県民に北海道移住を呼びかけていたが、林の帰県後(11月末)再び呼びかけを行った。
翌7年3月士族の井上栄信ら8人に40,000歩(一人5,000歩)を分与し、井上を責任者として士族の移住が始まった。その後5月に新たに平民2人が移住したが、それ以降の移住は続かなかった。
林は明治7年6月に「北海紀行」を金沢の如欄堂から刊行し北海道の状況を伝え、石川県人の北海道の関心を高めた。

 また、金沢市史では明治初期に根室など道東方面に漁業を目的として移住する人々がいたことを記述している。
「海産干場」の借用・払下に関する根室県の文章によれば、金沢区下百々女木(どどめき)町の平民浅賀孝次郎ら石川県出身者が明治9年頃から根室や択捉島周辺で漁業を営んでいたことが分かるが、同12年には金沢士族の永田高致らが3万円の資本を集め択捉島で漁業を営む汪網社を設立した。
しかし、所有船の事故で大きな打撃を受け、明治16年同社の事業は金沢士族で結成された起業社に継承された。
明治16年起業社が北海道岩内郡梨野舞納村で開拓移住者受け入れのための小屋掛け、蒔種場の開墾を開始し、翌17年起業社として旧加賀藩士28戸、152人が入植した。
明治20年までの入植は47戸を確認できたが前田神社由緒書では79戸が入植となっている(『前田村開拓130年に寄せて』、「北の農士たち」を参照してください)
 明治33年屯田兵の募集を中止する。7,337戸、約39,000人が屯田兵として入植した。
石川県からは492戸。全国で1位の入植となっている。

自然災害と開拓移住
日清戦争後の明治30(1897)年には、コンカ虫(うんか)の大群が発生し、その被害はまことに甚大であって、実った穂が殆どなかったといわれている。
このため明治31年ころから明治末期にかけて、遂には郷里を捨てて北海道、樺太や金沢へと多くの人が出て行った。今日、村の中に空地が点在するのはこの離村によるものである。
特に金沢市の赤土町の場合は、65戸のうち18戸が北海道、樺太へ渡り、20戸が他へ転出していったという。
北海道に新天地を求めた人々は石川県から相当数にのぼり、中でも岩内郡に入植した人達は加賀藩士前田候の名をとり、前田村と称し、開墾すれば1戸当り3~5町(5ha)が自分のものとなるので、彼らは北陸人特有の粘りで成功を納めたのである。
中には、ここから再び雨龍郡の幌加内や名寄に入植した人もあった。(金沢市二塚村郷土史より)

開拓移住の分類
北海道への開拓者移住は下記のように分類される
1、士族授産事業による開拓移住
  旧加賀藩士による岩内郡前田村開拓
2. 士族屯田兵制度による開拓移住(明治8年~明治22年)
  琴似、篠路、江別、篠津、野幌、輪西、東和田、西和田
3. 平民屯田兵制度による開拓移住(明治23年~明治33年)
  美唄、高志内、茶志内、北江別乙、南江別乙、東秩父、西秩父、北一巳、南一巳、納内、士別、北剣淵、南剣淵、上野付牛(相内)、中野付牛(北見)、下野付牛(端野)、北湧別、南湧別
4.  農業移住者による開拓
 ・小作農移住者   岩崎団体、高島開拓団等
 ・自作農移住者   大椴子植民団体等
5 漁業関係の移住者.
  松前、釧路、羽幌、猿払等
6. その他の移住者
  建設関係、商売の関係

下表は屯田兵村の年度別入村表である。
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 屯田兵については各兵村別の入植者名が屯田兵を調査している各種団体より出身県別に明らかにされています。
 出身県は石川県であっても出身地は多くの方々が明らかではないのです。
これら屯田兵として移住した人々の出身地と入植時の苦労等を調べ、記録として残しておきたいと思っています。

一般の農民の人々については、村落ごとに村史等を調べ、また必要に応じて移住先の町史等を取寄せて、移住した人達の暮らしと開拓時の苦悩等を記録していきたい。
村落については明治22年(1889年)4月1日の石川県市制町村制施行(1市、15町、258村)時点の町村史が一つのまとまった行政区として記録が残されている可能性が大きいので、この時点の区割りを一つの参考としていきたい。

2015年2月11日 (水)

小松市の偉人「坂本竹次郎」の功績

小松市の偉人
滝ケ原町の歴史
明治22年(1889年) 4月1日 市制町村制施行で、当時の那谷村, 菩提村, 滝ヶ原村を合併し江沼郡 那谷村となりました。
昭和30年(1955年)4月1日これまでの 江沼郡 矢田野村, 那谷村, 月津村の一部, 能美郡 中海村を小松市に編入しました。
さらに昭和31年(1956年)9月30日、能美郡 金野村, 西尾村, 新丸村, 大杉谷村, 国府村の一部を小松市に編入し現在の小松市となりました。

滝ケ原町は古くは石切場として栄えていましたが、外国産の需要増に伴い次第に衰退し、現在は数社となっているようです。
滝ヶ原石は凝灰岩で、石塀や土台石などに使用されてきました。
金沢城の外濠の石積にも使われているそうです。

小松市滝ケ原出身の坂本竹次郎氏の功績
この情報を提供して頂いたのは、小松市滝ケ原の下坂さんです。
平成24年7月7日、滝ケ原の下坂さんのお宅を訪問しました。下坂さんの父(88才)と母(83才)が私たちを迎えてくれました。
下坂さんのお母さんの思いは、「明治時代に単身北海道に渡り、坂本木材を興し、後に故郷に多くの徳を積んだ故郷の偉人を忘れないために記録に残してほしい」と話をされました。
 坂本竹次郎さんは明治4年三ツ屋に生まれ20歳の時、単身北海道に渡り日高町の字富岡の沙流川で「流送」という方法で川の途中に堰を設け、切り出した木材を川の流れを利用して集積し、まとめた木材を海まで運搬しました。
後に王子製紙の「山出し請負」を始め坂本木材合名会社社長となり財を築いた人物です。
また、故郷に愛着を持ち那谷小学校奉安殿の寄付をしました。
また昔、滝ケ原の道路が狭く、水害で橋が流されたのを知り、村に多くの寄付をしてくれたので道路を整備し、橋を架けることが出来ました。
村人はその徳を讃え丸竹橋と命名したそうです。
生まれ育った牧村八幡神社の境内を整備し、鳥居の寄付をも行いました。

010                               (丸竹橋)
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Photo_4                            (牧村神社)

Photo_3                          (坂本竹次郎像)


下坂さんの祖父(明治17年生まれ)が牧村八幡神社の氏子総代をしていた時に、坂本さんが来村し、村人と交流した時に神社の大幟旗を寄贈してくれたとのことでした。
 

村人は坂本さんの遺徳を後世に伝えるために昭和23年に牧村八幡神社の境内に石像を建立し、現在も境内を守っています。
 坂本さんを頼って何人かの村人が渡道していったとも話されていました。
坂本さんの生家は現在もありますが、現在は住む人もなく、時々管理する方が掃除に来ているだけだということでした。
Photo_6                        (坂本竹次郎の生家)

 牧村八幡神社の社殿は現在なく、坂本さんの寄進した石造りの大鳥居は下八幡神社に移設されています。
Photo_5                        (下八幡神社の鳥居)
 坂本さんの孫にあたる方が下坂さん宅を訪れたときに、「坂本木材100年史」の本を頂いたのですが、誰かに貸して現在は所在不明になっているとのことでした。
坂本木材から運送会社に転じているとの話でもあったようであるが、現在は所在もわからいとのことでした。
以上が聞取りした事柄です

後日談
帰宅後聞取り調査したことを整理し、インターネットで「坂本木材」に関して検索して情報を調べたのですが、坂本木材後の足取りが分かりませんでした。
後日、北海道新聞社のホームページから『石川県小松市出身の坂本竹次郎氏が明治時代に渡道し、沙流川で「流送」事業をして「坂本木材」を興した郷土の偉人ですが、その後のことが分かりません。御社の方で記録等があれば教えていただけないでしょうか。」
と問合せをしました。
翌日、新聞社から電話がありましたが実にそっけないものでした。
「札幌市の100万人の中から山田太郎を探すようなものです。それに坂本某という人は何なの?」
「流送で苫小牧の王子製紙に材木を納めていたそうで、YAHOOで名前を入力すると出て来ますが」
「Googleで検索すると、…英語ばかりだし…」
その後も会話をするのですが話がかみ合わないままで終了しました。
郷土の偉人は北海道のような開拓地では沢山おり、坂本木材から坂本運輸になったそうであるが調べたが結果は出てきませんでした。
調査することの難しさがここでも現実のものとなった感じです。
まだ、YHOOで検索してヒットしたホームページから情報をチョイスした方が良かったかもと思いました。
それでも何時か情報がヒットするかもと期待もあります。

また、「坂本竹次郎さんの足跡を探して」という行事が行われ、小松市の人達にとっては郷土の偉人として広く知ってもらうための活動も盛んに行われています。
「里山自然学校こまつ滝ヶ原」http://www.satoyama-komatsu.com/?category=about
上記団体が滝ケ原地区の景観保全に活動されています。

2015年2月 8日 (日)

前田村の岩崎部落

岩崎部落について(共和町史より)

明治19年、秋田県湯沢市岩崎町の斎藤直治氏は能登・加賀の単独移民者68戸をもって札幌県後志国岩内郡梨野舞納村の前田地区の隣接地に団体移住し、この地を岩崎部落としている。これらの農業移住集団を岩崎団体といわれている。
前田地区には明治16年より加賀士族入植のための小屋掛け、種蒔き用の開墾がおこなわれ、翌17年~20年にかけて加賀士族が入植している。明治18年には岩内郡梨野舞納村を割き前田村とするよう札幌県令に義情願が出され、翌19年1月18日には許可されている。従って岩崎団体が入植した時には前田村となっていたのである。
入植時の記録を「共和町史」から読み解くと
入植時の条件は開墾地は地主2分、小作8分に配分することになっていた。
早く入地したのは宮崎佐平治氏で、新たに入植した人は宮崎氏宅をワラジ脱ぎ場としたので、部落の長老として尊敬された。後から入植した辻野太郎氏は文筆に優れていたので、
両氏が部落の重鎮となってその発展に寄与した。
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次に明治28年に地主の斎藤直治氏と岩崎組合総代との間に結ばれた約定証券を下記に示す。

岩崎組合,約定証券
後志国岩内郡字岩崎学田ニ於テ拙者貸付許可並出願中ニ地面ノ岩崎組合総人数ハ是迄世話役ヨリ切渡シ置キタル地処ニ対シ左ノ条約相定メ候事
第1条 各名々ガ切渡シヲ得タル惣面積ノ内其8分ハ各小作人ノ所有トシ払下ゲノ節ハ直チニ各人ノ所有権ヲ有シ、登記引値スベキ事、但各義引値ニ付官庁ニ対スル裂地許可ヲ望ノ方法ハ其節別ニ協議ヲ逐クヘタ其費用並地代金登記料等一切ハ各人ノ負担タル事。
其1部ハ岩崎組合共有地トスル事、但其名前主ハ其節組合長名義トスベキ事。
其1部ハ拙者ノ所有タル事、但吾拙者分ノ1部及ビ所有地1部ニ付テハ切渡シヲ望ム各人ニ於テ小作ヲ為シ各其小作料ハ別ニ定ムル割合ニ依ルベシ。
第2条 現在小作人ニシテ他地方ヘ移動セントスルトキハ其小作地ヲ引受ケル約定アル小作料を収ムベキ代リ者ヲ定メタル上ニ出立スベキ事
第3条 各所有地ヲ他人ヘ売却セントスル時ハ岩崎組合惣役員ノ審議ヲ受クベキ事。
第4条 共有財産管理方ハ別ニ定ムル所ニ依ルヘシ。
第5条 公益及ビ組合必要ノ為メ道路堤防其他ニ使用セントスル時ハ何人モ異議ナタ承諾シテ其ノ所有権ヲ棄捨スベキ事。
第6条 猶約束スベキ事柄ノ本文ニ洩レ居ル所アル時ハ他日協議ノ上相定ムベキ事
    右之条約証券如件
    後志国岩内郡前田村字岩崎
              斎 藤 直 治 ○印
明治28年12月27日
 岩崎組合総代人 殿
   付記  登記書類其他1件書類ハ岩崎事務取扱者、宮崎佐平治
          昭和43年(孫宮崎與市所蔵)

斎藤直治
 秋田県岩崎町の住人、斎藤直治氏は石川県の能登・加賀から単独移民者68戸を以って岩崎組合を組織して、明治19年先導開拓に従事せり。
 開墾地は地主2分、小作8分に配分する約束にしていたが約定証券を示すまで約10年もかかったのである。

宮崎佐平治
 天保16年6月8日生
 明治19年斎藤直治の能登・加賀移民募集に協力し、自各戸募集の任に当たり、68戸となり、現地に移住せり。
 入地後は岩崎組合の世話役、総代人となり事務一切を担当す。
毎年移住者の出入り激しく分割割合等にても充分なる方法に至らず、明治28年春に至り、小作人に対して斎藤直治約定書を示すことになり、初めて永住者も大部分決定せり。
その際斎藤直治は岩内町の宮大工辻野井平に神社建設を依頼された。
宮崎佐平治にその監督を依頼した。この神社建築で今までの種々事項も和解の方向に向かい同年12月27日に斎藤直治氏の岩崎組合約定証券により事済となる。
大正9年10月の風害の為神社が損壊し、天照大神を前田神社に合祀してもらい現在に至っている。

起業社・岩崎部落の配置図 (共和町史より)
起業社関係のかたがたの記憶に基づいて、明治20年頃の住居の配置図をまとめたのが
下図である。
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岩崎組合事務所名簿  (宮崎与市氏蔵)

2015年2月 5日 (木)

移住後の回想録より

南 様より提供を受けた資料です。

回想録の中で入植当時の貴重な資料となる個所を抜粋して転載させていただきます。

先祖は石川県江沼郡田尻村にて誕生しました。5人の幼い子供を連れて明治25年、前途に希望を抱き見知らぬ寒い国、北海道へ移住しました。
 母は家族の着物や着替え、そして最小限の身の回り品しか持って行けなかったことと、少しの貯えのお金は船賃や食費や生活費に必要であった。
四六時中賑やかな子供たちに反して母は複雑な気持ちで親類縁者に別れを告げ、気の休まる間もなく船に乗ったことだろう。
 当時の移住民は金石港より汽船で2昼夜かかって岩内港に上陸し、今の前田に向かったのですが、当時の岩内はまだ徴々たる1漁村で周りは湿地草原でした。
 いわんや前田村の地は鬱蒼としたジャングル地帯で熊やその他の野獣が出没していたのです。なかには意気消沈して働く気力も起こらなかった者もあったと墾鑿の譜という本に記してありますが、これは現実の話で色々と聞かされておりました。先に入植した人達は後からの人達を助け、道路作りと学問に力をいれたそうです。

祖父母の両親の会話には橋立の話ばかり出て、金石港の話題は出なかった。また、家族も一緒に行ったと思われる。その他の事情を想像すると、わたしたちの先祖は橋立から乗船したように思われます。
 祖父母の定住の地は暫らく無かったが、やがて岩内町の清住に住居を定めて小商店を営む(4~5年この場所に住むが)明治26年2月2日に私の叔父が岩内で生まれた。後に南権次郎家へ養子に行き南与惣松となる。

 当時、お米一俵が2円66銭の時代で祖父母の大変なときでした。
 家族をばらばらにしてはいけないと思い、郷土の出身者とも相談して当時の前田村岩崎へ先にきていた辻野伊太郎さん(大変文筆のたつ方で、後年小樽税務署管内土地査定委員を務める)のお世話で定住して開拓農業をすることにした。

 前田村岩崎での生活
 夏はいいのだが、蚊やブヨ、ハエが多く非衛生的で悩まされていた。木陰に行くと早速やぶ蚊やアブに刺された。冬は日本海からの季節風が強いので、住む小屋のような家は風の弱い谷間の低い所で小川の近い場所に5~6軒かたまって住んでいました。小川は炊事、洗濯の生活用水でもありました。
 祖父母が仮小屋をたてて春、夏大急ぎで薯(いも)やソバ、大根、その他を蒔く、鶏(にわとり)も飼い大切な栄養源となった。
 開拓といえば聞こえがよいが、毎日が土方の連続で大変な仕事である。今ならブルトーザーやショベルカーがあり、勿論新聞やラジオもない原始の生活、電気もなければランプを買うお金もない、馬も持っていない。あるのは人力だけでした。道具といえばツルハシ、鍬(くわ)、スコップ、鎌(かま)、モッコ、鋸(のこぎり)、マサカリと手作りの一輪車でした。

子供の時に聞いた父母の話
 暗い家の中は見えないだろうにと父母に聞くと、笑顔で仏壇に使う灯心を小皿に入れ、シラシミか菜種油を入れてローソクの代わりに使っていたよと答え、「へえー!」と子ども心に驚いた記憶があります。
その頃、唯一の現金収入が手間賃稼ぎで、道路工事や農家の手間仕事であった。また、家の回りは雑木が沢山あるので切って寄せて置き、炭焼き用や家の薪として使った。炭は売って現金収入になったが、木を切った跡は木の根を掘り、笹の根を掘り、石ころ堀りの毎日だったそうだ。
「聞こえるのは風に吹かれる木々の音、岩内に行けば故郷の橋立の海を想い、山を眺めれば故郷の白山を想う。今の季節、故郷の人達は何をしているのかなー!顔が見たい!話がしたい!そのうち頑張って行くようにしようしようと。何百回と心の中で会話し、月日を重ねてきた」と望郷の念を話された。
 故郷から便りがあると家族みんなで回し読みし、手紙を中心に語りあった。同郷人に会うと手紙の話を又聞いてくる。最後には鴨居の状差しに入れてしまうとまるで神社のお札のようになったとのことだった。このことは昔、父や母から聞いたことでした。

 私の小さいころの思い出
 私等の小さい頃は言葉の違いが大きかった記憶があります。お年寄りの生まれた地方の方言なまりの違いに驚いたものです。能登弁、加賀弁、広島弁、仙台、秋田、青森、富山、それに漁師の言葉。狭い土地に方言の多いこと、聞きなれた加賀弁はなぜか親しみがあって知らない人でもすぐに馴染んだが、聞きなれない方言で話をしているのを聞いてどんな所から来られた人だろう、親たちは普通に話
をしていると思って聞いておりました。
 でも、子供たちは学校で標準語を習うので皆同じでした。この方言も地方によって多少違いがあるが2代3代と世代が変わって北海道独特の親しみやすい言葉になってきました。

生活の記憶
家と申しましても小屋か物置のような家もあった。すべて自給自足で有るものは人の手間と助け合いの心だけの世相でした。
3~3.5間に8~8.5間の小屋、大きいように見えるが。(24坪~30坪)
小さい部屋が1つか2つあり、もう一つ炉端の部屋があり、炊事場は土間でする。後の半分は納屋兼倉庫と物置にまだるい便所と馬小屋がある。家の柱は5寸程の丸太造りで土台は無く、適当な石の上に置くだけの簡単な構造で、屋根は小麦を収穫した後の麦わらで屋根を葺き、部屋の天井だけは細い木を渡してスダレを敷いてある。
壁は湿地に自生している葦で下地を編んで粗壁を塗っただけの粗末な建物であった。外壁は雨や雪に濡れると落ちるので、葦か麦わらで養生していた。便所は炊事場から離れた土間に穴を掘り、土が崩れぬように細工して上に丈夫な板を2枚渡し、ムシロを下げただけという簡単なものだった。
生活用水は川の水を使い、井戸を掘れたら掘るという状況でした。燃料は豊富なので炭や薪や木の根を使い、手間をかけるといくらでも手に入った。
移動手段はどこへ行くにも歩く、歩く、歩くだけでした。勿論食事のバランスも悪いため、この時代の方々は小柄で平均寿命が短く50代にはお爺さんでした。
このような時に資力のある方たちは立派な家を建てていました。近くでは室岡さん、福井さん、戸田さん、沢山の部屋数と内部の造りが落ち着きのある色彩であった。家の前には大きな仙栽に北海道を模った石垣の池があり鯉が泳いでいたのを覚えている。また、色々の木や花を植えてありその北側には蔵があったのも覚えている。よく遊びに行ったものです。
今はもう、その家も仙栽も蔵も納屋も無く、道路用地になっていました。戸田さんへ行くたびにあの立派な家を思い出し、寂しい思いになりました。

お婆ちゃんは感じの良い方で、田植えに行くと昼食の時にお婆ちゃんは「食べられよ」、「食べられよ」と沢山よそわれて、食べ過ぎて苦しい思いをしたことは忘れられない思い出です。


これらの回想録は、入植当時の生活を知るうえで大変貴重な資料となりますので、南様の了解をいただき掲載させていただきました。

2015年2月 1日 (日)

私の父は北海道の前田村出身です

新聞社より記事を見て話を聞いて欲しいとの連絡がありました。
その後、白山市内の方から電話を頂きました。小生のまとめた冊子「北の農士たち」について新聞で取り上げられてから、何人かの方からも電話がありました。

 拙宅に来ていただき話を聞いたことをまとめてみました。
白山市の南 光明様の先祖が明治25年に渡道していることや、祖父方は吉野姓であるが南権次郎氏方へ養子となり南姓となったことを家系図にて説明をしていただき、吉野吉五郎氏の5男の一己氏が一族の覚えとして書かれた文章や、入植当時の親の苦労等がまとめられている資料と吉野家、南家の家系図の提供を受けることができました。

 今回、前田村の中で岩崎部落について、前田神社総代の石動利明様からも資料提供(共和町史)もありましたので、石川県から北海道へ農業移住した方々が前田村の岩崎部落を開いた歴史を取り上げてみました。
 能登・加賀からの単独移住で68戸の殆んどの名前、出身地が分かりません。これが機会となり判明する手がかりとなればと節に願います。

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