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2015年2月16日 (月)

石川県から北海道への開拓移住者たち

石川県からの北海道開拓移住者たち

北方警備の重要性
明治維新政府は北海道開拓こそが殖産興業の一環と考えた政策をとってきた。
江戸時代末期頃からのロシアによる択捉島、樺太、礼文島、利尻島への略奪行為があり、ロシアにとってはこれらの島々でもアジアへ向かう重要な拠点としての認識があったであろう、度重なる侵略行為で北海道への侵略を恐れた明治政府は、屯田兵制度により開拓と国防を兼ね備えた制度を運用し、当時、失業状態であった士族の活用をも図ったのである。

屯田兵制度
明治4年戊辰戦争で旧幕府軍で敗戦した旧仙台藩岩出山領主の伊達邦直が、札幌郡石狩(現当別町)に入植したのを始めとし明治5年には開拓使制度により札幌開拓使庁を本庁とし、函館、根室、宗谷、浦河、樺太に支庁を設置した。
明治7年、建白書を政府に建議した黒田清隆が北海道開拓長官となり、翌8年には最初の屯田兵198戸965人が札幌郡琴似兵村に入村した。これは宮城、青森、酒田の士族であった。明治10年には琴似、山鼻の屯田兵が西南戦争に出動している。
明治23年、士族授産政策の終了により士族屯田から平民屯田になり、軍事優先から奥地の開拓へと転換して行くのである。

石川県の対応
金沢市史では石川県人の北海道移住の項で、明治6(1873)年5月石川県は県下物産の移出を実現すべく、忠告社社員林顕三・県吏川崎曽平に北海道の視察を命じた。
彼らは函館から渡島半島を北上し、6月末に札幌に至った。札幌では貧困にあえぐ士族の移住を進めるため、金沢区方積金により土地を買得し開墾することを開拓使庁に請願した。
その後林は北海道西海岸を経て樺太(からふと)まで視察を続けたが、9月初め再び札幌に至り、土地の買収や入植者の農具・家具・小屋掛料の給与などについて開拓史と協議を行った。
こうして石狩国札幌郡豊平川以東に75,000歩と長屋2棟を得て金沢に戻った。
この間石川県は明治6年7月県民に北海道移住を呼びかけていたが、林の帰県後(11月末)再び呼びかけを行った。
翌7年3月士族の井上栄信ら8人に40,000歩(一人5,000歩)を分与し、井上を責任者として士族の移住が始まった。その後5月に新たに平民2人が移住したが、それ以降の移住は続かなかった。
林は明治7年6月に「北海紀行」を金沢の如欄堂から刊行し北海道の状況を伝え、石川県人の北海道の関心を高めた。

 また、金沢市史では明治初期に根室など道東方面に漁業を目的として移住する人々がいたことを記述している。
「海産干場」の借用・払下に関する根室県の文章によれば、金沢区下百々女木(どどめき)町の平民浅賀孝次郎ら石川県出身者が明治9年頃から根室や択捉島周辺で漁業を営んでいたことが分かるが、同12年には金沢士族の永田高致らが3万円の資本を集め択捉島で漁業を営む汪網社を設立した。
しかし、所有船の事故で大きな打撃を受け、明治16年同社の事業は金沢士族で結成された起業社に継承された。
明治16年起業社が北海道岩内郡梨野舞納村で開拓移住者受け入れのための小屋掛け、蒔種場の開墾を開始し、翌17年起業社として旧加賀藩士28戸、152人が入植した。
明治20年までの入植は47戸を確認できたが前田神社由緒書では79戸が入植となっている(『前田村開拓130年に寄せて』、「北の農士たち」を参照してください)
 明治33年屯田兵の募集を中止する。7,337戸、約39,000人が屯田兵として入植した。
石川県からは492戸。全国で1位の入植となっている。

自然災害と開拓移住
日清戦争後の明治30(1897)年には、コンカ虫(うんか)の大群が発生し、その被害はまことに甚大であって、実った穂が殆どなかったといわれている。
このため明治31年ころから明治末期にかけて、遂には郷里を捨てて北海道、樺太や金沢へと多くの人が出て行った。今日、村の中に空地が点在するのはこの離村によるものである。
特に金沢市の赤土町の場合は、65戸のうち18戸が北海道、樺太へ渡り、20戸が他へ転出していったという。
北海道に新天地を求めた人々は石川県から相当数にのぼり、中でも岩内郡に入植した人達は加賀藩士前田候の名をとり、前田村と称し、開墾すれば1戸当り3~5町(5ha)が自分のものとなるので、彼らは北陸人特有の粘りで成功を納めたのである。
中には、ここから再び雨龍郡の幌加内や名寄に入植した人もあった。(金沢市二塚村郷土史より)

開拓移住の分類
北海道への開拓者移住は下記のように分類される
1、士族授産事業による開拓移住
  旧加賀藩士による岩内郡前田村開拓
2. 士族屯田兵制度による開拓移住(明治8年~明治22年)
  琴似、篠路、江別、篠津、野幌、輪西、東和田、西和田
3. 平民屯田兵制度による開拓移住(明治23年~明治33年)
  美唄、高志内、茶志内、北江別乙、南江別乙、東秩父、西秩父、北一巳、南一巳、納内、士別、北剣淵、南剣淵、上野付牛(相内)、中野付牛(北見)、下野付牛(端野)、北湧別、南湧別
4.  農業移住者による開拓
 ・小作農移住者   岩崎団体、高島開拓団等
 ・自作農移住者   大椴子植民団体等
5 漁業関係の移住者.
  松前、釧路、羽幌、猿払等
6. その他の移住者
  建設関係、商売の関係

下表は屯田兵村の年度別入村表である。
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 屯田兵については各兵村別の入植者名が屯田兵を調査している各種団体より出身県別に明らかにされています。
 出身県は石川県であっても出身地は多くの方々が明らかではないのです。
これら屯田兵として移住した人々の出身地と入植時の苦労等を調べ、記録として残しておきたいと思っています。

一般の農民の人々については、村落ごとに村史等を調べ、また必要に応じて移住先の町史等を取寄せて、移住した人達の暮らしと開拓時の苦悩等を記録していきたい。
村落については明治22年(1889年)4月1日の石川県市制町村制施行(1市、15町、258村)時点の町村史が一つのまとまった行政区として記録が残されている可能性が大きいので、この時点の区割りを一つの参考としていきたい。

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