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2015年3月

2015年3月27日 (金)

5.吉野谷村からの北海道開拓移住者について

 吉野谷村からは120戸が北海道へ移住しています。
北海道への移住の動向について資料を検証していくと、吉野地区からは58戸で最も多く、全体の49%となります。

奈井江町の高島第一農場が16戸、池田町の高島第二農場が12戸で半分が高島農場の小作人として入植しているようです。

市原、木滑地区からは各々17戸が移住し、中宮地区からは16戸、佐良地区6戸、瀬波地区4戸、木滑新2戸となっている。合計120戸が開拓移住していることになります。
明治17年の戸数は683戸である。

「吉野谷村からの開拓移住」をPDFで閲覧ください

2015年3月15日 (日)

4-2.鳥越村から移住した新篠津村の平安農場について

鳥越村から開拓移住した移住民について、新篠津村役場へメールで問合せをしました。
平成25年(2013年)2月15日 (金)


「明治時代に白山麓から北海道へ移住した人達を調査しています。

調査の中で、明治30年に鳥越村(現在白山市)から
20戸の方々が新篠津村に移住したとなっていました。
もし、その方々が入植した地であれば、その方々の氏名が
判らないでしょうか、また自作農か小作農で入植したかの資料等も
有れば助かるのですが、

新篠津村は一昨年に当別町役場を訪問し、石狩金沢駅を探しに行ったときに
通過したところでした。その当時はまだは白山麓の調査はしていませんでした。

勝手なお願いで申し訳なく思っていますが、
ご協力の程お願いします。」

早速、新篠津村の担当者の方から返事を頂きました。早速、平成8年に発行しました「新篠津村百年史」を調べたところ、
明治30年頃、平安農場という地域の開拓に石川県の方々に協力をいただいた
ような記述がありました。
しかし、鳥越村とは書かれておらず、また、当時入植したかたのお名前も書かれて
おりませんでした。

とりあえず、抜粋した資料を送信しますので、ご確認ください。 」
資料とは「しんしのつむら百年史.pdf」でした。
これを資料として残すために文章化しました。しかしブログに添付する関係で再度PDF文章しましたので下記より閲覧ください。

「平安農場の記録」を閲覧ください

2015年3月 7日 (土)

4-1.鳥越村から北海道への開拓移住者について

 鳥越村からは明治23年から明治末期までに106戸が北海道へ移住しました。
北海道への移住先表(鳥越村の項を参照)により、明治23年~大正13年までの移住者数は121戸となっています。
 明治23年の釧路の太田屯田兵村に2戸が入植したのを始めに27年~37年にかけて江別乙屯田兵村に19戸が入植している。
これは屯田兵制度が終了したので入植者を頼っての移住と考えられます。

 明治30年には石狩郡新篠津村に20戸、雨竜郡雨竜村に12戸が集団で移住しています。
 明治22年の全戸数は1197戸であった。

 明治29年に(1896年)に篠津村から分村、新篠津村となった。鳥越村史では明治30年に20戸が入植したとなっていることから、新篠津村役場に入植者氏名について問合せました。

「平成8年に発行しました「新篠津村百年史」を調べたところ、明治30年頃、平安農場という地域の開拓に石川県の方々に協力をいただいたような記述がありました。
しかし、鳥越村とは書かれておらず、また、当時入植したかたのお名前も書かれておりませんでした」との返答でした。そして「新篠津村百年史」の抜粋のコピーも頂いた。
 「平安農場では明治28年(1895年)に小作人の小屋を57棟作り、翌年春に石川県に人を派遣して、小作人32戸を募集して移住させた。その次の年には、さらに24戸を移住させている。

小作人には渡航費用のほかに米や味噌、農具、種子料などを貸し与えて、定着を図った。
しかし、明治31年(1898年)に大水害が起きたため、緊急の手当を出してしのいだが、翌年には小作人34戸が相次いで農場から去った。」(年表では明治30年に石川県から24戸が平安農場に到着となっている。そして、翌年の水害被害で明治32年には移住者の大半の34戸が他に移住して行き、消息が不明となっている)

 明治30年の鳥越村から渡道したのは20戸で、平安農場に入植したのは24戸とすれば同時期の渡道であり、鳥越村からは平安農場に入植したのではないかと推考される。とすれば残り4戸については近隣の村からの渡道であったのであろうか?
 今後の調査で判明することを期待したい。

「鳥越村からの開拓移住」をPDFで閲覧ください

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