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2015年5月21日 (木)

7.白山麓5村からの北海道移住者のまとめ

村史を調査した結果、多くの村人が墳墓の地を離れ新天地である北海道へと移住した記録がありました。
これらの多くは白山麓で共通しているのは、大雨による手取川の氾濫で川沿いの生活道路、田畑の流失や崩壊、そして家の流失等が重なり生活基盤が無くなったため、やむなく慣れ親しんだ生地を捨て、新天地を求めた記録でもあったのです。
 ここで白峰村、尾口村、鳥越村、吉野谷村、河内村からの北海道移住者数をまとめてみました。

 白峰村からは61戸が北海道へ移住した。
・明治29年の大水害で明治32年には半分の30戸が北海道へ移住した。
・昭和9年の大風水害で耕地を失った多くの農民が北海道その他へ離村していった。
・福井、石川県以外で圧倒的に多いのが北海道の61戸、大阪26戸、京都府18戸、滋賀県17戸、岐阜県10戸、愛知県8戸、東京8戸といった数になるのである。
・市之瀬・赤谷・三ッ谷は明治の初めの大火で書類関係が焼失しており、明治29年の風水害で耕地が喪失したがその記録は残っていない。
 全戸数は約170戸であった。

尾口村からは30~40戸が北海道へ移住した
女  原から明治22年頃に10戸位が北海道へ集団移住
東二口から明治29年頃に水害により戸数は不明であるが北海道へ移住
釜  谷から明治31年の大火で5~6戸が北海道へ移住
鴇ケ谷から明治末期10戸位が北海道へ集団移住
東荒谷から明治末期数戸が北海道へ集団移住
資料により集計すると、明治22年から明治末期まで約30~40戸となる。
明治中期~末期までの戸数は約800戸であった。

 鳥越村からは明治23年から明治末期までに106戸が北海道へ移住した
北海道への移住先表(鳥越村の項を参照)により、明治23年~大正13年までの移住者数は121戸となっている。
 明治23年の釧路の太田屯田兵村に2戸が入植したのを始めに27年~37年にかけて江別乙屯田兵村に19戸が入植している。これは屯田兵制度が終了したので入植者を頼っての移住と考えられる。

 明治30年には石狩郡新篠津村に20戸、雨竜郡雨竜村に12戸が集団で移住している。
明治22年の全戸数は1197戸であった。

 明治29年に(1896年)に篠津村から分村、新篠津村となった。鳥越村史では明治30年に20戸が入植したとなっていることから、新篠津村役場に入植者氏名について問合せました。

「平成8年に発行しました「新篠津村百年史」を調べたところ、明治30年頃、平安農場という地域の開拓に石川県の方々に協力をいただいたような記述がありました。
しかし、鳥越村とは書かれておらず、また、当時入植したかたのお名前も書かれておりませんでした」との返答でした。そして「新篠津村百年史」の抜粋のコピーも頂いた。
 「平安農場では明治28年(1895年)に小作人の小屋を57棟作り、翌年春に石川県に人を派遣して、小作人32戸を募集して移住させた。その次の年には、さらに24戸を移住させている。

小作人には渡航費用のほかに米や味噌、農具、種子料などを貸し与えて、定着を図った。
しかし、明治31年(1898年)に大水害が起きたため、緊急の手当を出してしのいだが、翌年には小作人34戸が相次いで農場から去った。」(年表では明治30年に石川県から24戸が平安農場に到着となっている。そして、翌年の水害被害で明治32年には移住者の大半の34戸が他に移住して行き、消息が不明となっている)

 明治30年の鳥越村から渡道したのは20戸で、平安農場に入植したのは24戸とすれば同時期の渡道であり、鳥越村からは平安農場に入植したのではないかと推考される。とすれば残り4戸については近隣の村からの渡道であったのであろうか?
 今後の調査で判明することを期待したい。

 吉野谷村からは120戸が北海道へ移住している。
北海道への移住の動向について資料を検証していくと、吉野地区からは58戸で最も多く、全体の49%である。

奈井江町の高島第一農場が16戸、池田町の高島第二農場が12戸で半分が高島農場の小作人として入植している。

市原、木滑地区からは各々17戸が移住し、中宮地区からは16戸、佐良地区6戸、瀬波地区4戸、木滑新2戸となっている。合計120戸である。
明治17年の戸数は683戸である。

 河内村からは4戸が北海道へ移住した。
 河内村史の中からは北海道移住の資料は見いだせなかったが、吉野谷村史の中で「大椴子団体の団体移住民人名変更願」の中で4家族が天塩国留萌郡天登雁村トドコ原野に集団移住した。
 明治17年の全戸数は683戸である。

白山麓5村から明治時代に北海道へ移住した戸数は合わせて約330戸であり、
白山麓5村の全戸数は約3,500戸なので約1割近くの家族が北海道へ移住したこととなる。

あとがき
 私が北海道への開拓移住者の調査を始めて記録として残すことになったきっかけは、平成24年3月に旧加賀藩士が士族授産事業として北海道開拓移住し、前田村を作ったたことを調査し「北の農士たち」を記録としてまとめたことからでした。

その後、北国新聞で取上げられ読者の方から「自分の地元からも北海道へ移住して行った」と何人かの方から連絡をいただきました。

知人からの紹介で、尾口の公民館長さんを訪ねたところ、白山麓から沢山の村人が北海道へ移住したこと、尾口村から空知郡奈井江に渡道した方々と現在も交流があると話されていた。

また、白峰の民族資料館の館長さんからは「白山部落開拓60周年記念誌」、白山開拓100周年記念誌「我らが郷土 白山」の記念誌を貸して頂き、その記念誌の中から貴重な証言や記録を摘録することが出来ました。

 図書館で各村の村史を調べ、各村の立地条件と北海道への移住の関係を出来る限り村史から摘録することで、住み慣れた住環境を捨ててまで北海道へ移住した人数を把握したかったのですが、100年以上前の役場資料として廃棄されている可能性もあり、また当時のことを知る人もいないのが現状であったので、移住者名と移住先を追跡することの難しさを実感しています。

 吉野谷村史では村史編纂委員の方が、道庁図書館資料の調査や奈井江町での調査を含め精力的に活動したした結果が記録として後世に残る貴重な資料となるでしょう。
北海道移住者調査を始めたばかりですが、北海道開拓者の転出という事態が歴史の狭間に埋もれてしまっているのを、掘起すような長い道のりにさえ思えるのですが、渡道した人々が今の北海道の礎を作ったのは間違えのない事実でもあります。

 今後も各市町村史から北海道への移住者調査を行って行きたいと思っています。
 この調査にご協力いただいた多くの方々に感謝申し上げます。

参考文献として下記の資料を参考にしました。
白峰村史、尾口村史、鳥越村史、吉野谷村史、河内村史、金沢市史
「白山部落開拓60周年記念誌」、白山開拓100周年記念誌「我らが郷土 白山」
白峰村民俗資料館パンフレット、奈井江町ホームページ
WEB:Wikipedia、WEB:十勝の記憶デジタルアーカイブ
北国新聞昭和6年9月22日、

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