« 加賀団体による倶知安町開拓(1) | トップページ | 加賀団体による倶知安町開拓(3) »

2016年1月19日 (火)

加賀団体による倶知安町開拓(2)

加賀団体の入植
手取川の水害
明治29年8月1日、午前6時から石川県下に降り出した雨は夜になると暴雨風となり、
2日には烈風も加わり手取川が氾濫した。
この水害により手取川沿岸では死者14人、家屋の損害9500余軒、土地2200町歩が泥の下になった。
ついで、8月31日に暴風雨があり、9月6日、7日の両日にも風水害があった(吉野井町史)。
この水害によって石川県能美郡串村(現小松市串町)と寺井野村(明治40年湯野村、長野村、寺井村が合併、昭和31年からは寺井町となる)とは、特に大きな被害を受けた。
もともと串村と長野村は手取川と梯川(かけはしがわ)に挟まれた狭長な扇状地で、串村は畑作、長野村は水田を主作としていた。
地味は肥沃であったが、一戸の作付反別が少なかったので、女子は機織りと養蚕、男子は運輸、薪の伐採、炭焼などの副業に従事していた。
そんな状況の中での手取川の氾濫で収穫はわずか4分作で肥料代と小作料を支払うとたちまち生活に窮する状態であった。

北海道移住の計画
長野村字牛島に八反田角太郎がいた。代々農業に従事していて生計は豊かな方であったが、このままでは村の復興が難しいと判断し、串村の友人の中島一郎と北海道移住の計画を進めたのである。
移住を希望する戸数は32戸あった。30戸以上で入植する場合は、団結移住の対象となり、予定存置の優遇をうけることができた。
移住後は開拓を3か年に完了すればよかったことから、加賀団体を組織し、総代に中島一郎、総代補佐に八反田角太郎がなった。
入植地は倶知安村ソスケ(現比羅夫)と決まった。
明治29年秋、中島と八反田は渡道し、初年度10戸を移住させることで予定存置の許可を受けた。ついで現地に入り、小屋掛けの準備をするといったん帰国した。
ところが総代として入植することになっていた中島に差支えが出来て移住することが出来なくなった。そこで八反田が総代となり、それぞれが財産を売却して資金を準備して、翌30年1月17日に加賀を経った。八反田31歳の時で、1000円の資金を持っての入植であった。

« 加賀団体による倶知安町開拓(1) | トップページ | 加賀団体による倶知安町開拓(3) »

加賀団体による倶知安町開拓」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/2084752/63535093

この記事へのトラックバック一覧です: 加賀団体による倶知安町開拓(2):

« 加賀団体による倶知安町開拓(1) | トップページ | 加賀団体による倶知安町開拓(3) »