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2016年1月23日 (土)

加賀団体による倶知安町開拓(3)

開墾1年目
一行は岩内に上陸すると、20日ほど準備に費やし、下ソスケの予定地に入った。
入植時期が真冬でこの年は特別雪が多かった。当時尻別川以南の地は数戸の農家があるだけで、南4線から南はナラ、ニレ、ハンノキ、エンジュなどの樹木に覆われた原野であった。
その原野での伐木、小屋掛けは困難を極めた。わずか3戸の小屋を作り、30余人の移住者が同居して、伐木に励んだ。各自の居小屋は融雪を待って建てられた。
当時開拓に要する費用は、旅費を除くと1戸当たり103円10銭5厘とされていた。その費用が準備できない人たちはやむなく小作人になった。小作人には必需品1年分が貸与された。
加賀団体は全員自費による入植を選んだ。
移住者たちは北海道の農業に経験がなかった。種まきと収穫の時期を失して、穀物と豆は1反部(約992㎡)から平均4斗から5斗位の収穫しかなかった。(1斗は約18ℓ強である)
生活はたちまち食料不足になった。

開墾の成功
翌31年3月、残りの22戸が入植した。小屋掛けは先に移住していた人たちが協力した。
この年の移住者には、資金の少ない人が多かった。旅費と小屋掛けの費用を支払うとほとんどの資金がなくなった。しかも物価は前年に比べて2割以上高騰していた。
移住者たちは、野草を取って食物の補いとした。
八反田は諸方に手をつくすとともに、岩内で商売を営む縁者から米噌を借り入れて、団体全戸に配布、開墾が継続できる手立てを講じた。
幸いこの年は、前年の経験を生かして耕作したので、生育も順調に進み、豊作の秋をむかえることができた。
しかも、穀物や米類は高価で売れ、菜種などは1石9円50銭という高値がついた。
そのため、米噌の借金を返し終えても、なおいくらかの残金ができた。それに力を得て翌32年には貸下地の半ば以上を開墾し、生活にゆとりが生ずるようになった。
第一陣の入植した明治30年3月、岐阜の人で服部大融が下ソスケ第2基線東1号3番地に説教所を設けた。服部はこの説教所を開放して、子供たちの教育にあたった。
32年になると、各戸で応分の拠金をし、真宗大谷派本山からも150円の補助を受けて説教所を新築した。
明治34年、全地の開墾が成功して、各戸5町歩ずつの土地の付与をうけた。入地後3年ないし4年という早さであった。

『移住者成績調査』に載った美風
北海道庁第五部殖民課では、明治39年9月10日に「移住者成績調査 第一編」を出版した。
その中で加賀団体が取り揚げられ、特に美風と認められるものとして次の事項をのせた。
一、 団体員は互選にて組長1名を置き、之に使庁を1名を附し、団体全般の用務を担任せしむるが故に、団体内のことは常に能く整理せり。
組長の任期は2ケ年にして、組長には1ケ年20円、使庁には1ケ年10円の報酬を なす。
一、 団体員中火災に罹りしものあるときは、団体にて小屋掛けをなし、また米1俵、麦1俵を見舞いとして贈る。既に3回之を実行したり。
また死亡者あるときは、各戸米1升、金10銭を香典として贈り、一同会葬す。
一、 日露戦争中は出征者家族の耕作を補助したり。
一、 団体員は天災予備、公共の事業等の為、1ケ年1戸60銭ないし2円40銭の共同貯蓄をなすことと定め、現に430円の貯蓄あり。
一、 明治32年各自応分の拠金をなし、大谷派本山より150円の補助を受け、450円を投じて説教所(註 現円融寺)を建立し、毎月2回ないし3回説教を聞くを例とせり。
一、 団体員は又子弟を教育するに熱心にして、34年各自主唱し、拠金して500円を集め、之に村費補助150円を加え、広瀬農場、山田組と共同して、倶知安第4尋常小学校(註 後の比羅夫小学校)を建設したり。
一、 共同積立金より、150円を拠出して、新式の洋犂(ようり)、馬用除草器3台及びその他除草器、移植器等を購入して共同使用し、器械力応用の普及を図れり。
一、 団体員は公課に対する義務を怠りたるものなく、納期前に組長に委託して納るを常とす。
一、 毎年神武天皇祭(註 4月3日)及び秋季皇霊祭(註 現秋分の日)の2回業を休みて祭事を行い、一同集まりて種々協議をなす。
一、 団体員と附近住民との間柄は円満にして、何等の紛紜(ふううん)を生じたることなし。
一、 宗教心に厚く、風紀善良にして、生計の度略(ほ)ぼ一定し、貧困なるものなし。
一、 道路の修築其の他公共事業の寄附賦役には、率先之に応じ一致共同従事することを常とする。

明治39年の状況
同書には「現況」と題して、現住の戸数32戸、住宅を改築したもの36年に16戸、37年12戸、38年4戸で、旧小屋は馬小屋とし、各戸1頭ないし2~3頭の耕馬を飼育しているとある。
明治36年は開墾に成功して貸下げ地の付与を受けた2年後である。そのころから営農の基礎が確立し、生活にゆとりが生じはじめたのであろう。
ついで、養鶏、養蚕を副業としているものがあること、急傾斜地で全く農耕に不適の地には植樹して、38年から団体の共有地にしていること、所有地10町歩以上のものは、2戸ないし3戸の小作人を入れて耕作させていること、各戸の自作反別はほぼ5町歩以上、10町歩であることなどをのべ、
と結んで、八反田角太郎(長野村字牛島生)、江川与三松(串村生)、太田作右衛門(串村生)、山下定吉(串村生)、江村岩松(串村生)を紹介している。
まさに称賛にふさわしい成功といえた。わずかな移住資金しか持ち合わせていなかった同郷人を団結させ、1戸の脱落者もなく、短時日に開墾を成功させたのは、総代であった八反田の力に負うところが多かった。
当時、八反田は100町歩の畑地を持ち、この地で雑貨店を営んでいた。
学務委員、品評会審査員、村会議員とその公職も多かった。
しかし、この団体でさえ当時の主食は馬鈴薯とイナ黍で、米を食べることなど考えられないことであった。

羊蹄山7町村の歴史の中の倶知安
原野はやがて豊穣な畑作地帯へと変貌を遂げていきました。1904(明治37)年10月には村民待望の北海道鉄道(現在のJR函館本線)が開通。
 倶知安発展の牽引力となりました。1910(明治43)年3月には後志支庁が開庁。倶知安村は交通・文化・経済に加え、
 行政面でも後志の中核として位置づけられるようになりました。その後、1915(大正4)年4月に一級町村制を、翌1916(大正5)年4月には
 町制を施行して「倶知安町」となり、現在に至っています。倶知安は、「クッチャン」にあてた漢字である。(HP:ニセコサンライズの羊蹄山麓7町村の歴史より引用させていただきました)

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