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2016年1月

2016年1月30日 (土)

加賀団体による倶知安町開拓(4)

開拓地を訪ねて
明治29年加賀団体が入植し、その翌年の明治30年に比羅夫に真宗大谷派の説教所を開所し、円融寺と名付けました。
長万部から小樽に抜ける函館本線とほぼ並走して羊蹄国道の国道5号線が通っています。
倶知安町の約2km手前に目指す円融寺がありました。北海道の寺院は私達が見慣れている寺の形状と異なり、一見普通の家屋のようで気を付けて探さないと見落としてしまう恐れがあります。
P7150043                     (円融寺正面 )


P7150034                      (円融寺本堂)

円融寺に到着し、住職の奥様と思われる方にお話を伺うと「以前は檀家の方々が崇徳碑の前で供物を供え、沢山の方がお参りしたものだが近年お世話をする方々も高齢となりそのような行事もしなくなった」と寂しげに話されました。加賀団体が入植したソスケ地区の場所を教えていただきました。
P7150035                  (加賀団体入墾記念[崇徳碑])



P7150037_2                 (加賀団体入墾記念[崇徳碑])
P7150036
                    (崇徳碑碑文)

崇徳碑の前面には碑文が書かれています。
碑文
{此地文余ノ熊笹欝蒼タル大森林ニ蔽ハレ入墾両年ニシテ始メテ羊蹄ノ山容を看ル

明治二十九年石川県能美郡長野村寺井野村一帯は手取川の水禍で荒廃した八反田角太郎を総代とする加賀団体村民三十余人は流氓の宿命に甘んぜず翌三十年二月未知の辺境たる此の地すなわち羊蹄山麓下ソスケに入植した白雪皚々朔風破膚のこの処女地に当初仮小屋三戸のみ食糧をはじめ困苦は表現を絶した翌年古里に在った二十二戸も参加した字義通り風雪に挑んだ開拓の序章は冒頭に録した簡明勁烈な三行が最もよく伝える開拓者精神は米国だけでなく各国にある日本人もまた明治期以来北海道開拓に鮮烈にその精神を発揮した 米国の草の根民主主義は西部開拓の過程で確立された八反田角太郎先導下のこの一団は自助と互助による規律協和と円融を恵む宗教により日本の根生い民主主義を育てたこの一団に対する宮辺の援助は後代に比して実に僅少入植第一年の収穫は麦豆反当たり四斗に過ぎなかった 児孫のために美田を買わず先人は美田を創作し豊沃を後代に遺した元来祥語で文化とは耕やすことを言うすなわち先人は文化を創造したのであるこの偉業はまさに平和な民族発展の道標である開道百年に際し建立したのが父祖明治人の留魂の碑である

昭和四十三年八月十五日
北海道知事 町村金五書 」

2016年1月23日 (土)

加賀団体による倶知安町開拓(3)

開墾1年目
一行は岩内に上陸すると、20日ほど準備に費やし、下ソスケの予定地に入った。
入植時期が真冬でこの年は特別雪が多かった。当時尻別川以南の地は数戸の農家があるだけで、南4線から南はナラ、ニレ、ハンノキ、エンジュなどの樹木に覆われた原野であった。
その原野での伐木、小屋掛けは困難を極めた。わずか3戸の小屋を作り、30余人の移住者が同居して、伐木に励んだ。各自の居小屋は融雪を待って建てられた。
当時開拓に要する費用は、旅費を除くと1戸当たり103円10銭5厘とされていた。その費用が準備できない人たちはやむなく小作人になった。小作人には必需品1年分が貸与された。
加賀団体は全員自費による入植を選んだ。
移住者たちは北海道の農業に経験がなかった。種まきと収穫の時期を失して、穀物と豆は1反部(約992㎡)から平均4斗から5斗位の収穫しかなかった。(1斗は約18ℓ強である)
生活はたちまち食料不足になった。

開墾の成功
翌31年3月、残りの22戸が入植した。小屋掛けは先に移住していた人たちが協力した。
この年の移住者には、資金の少ない人が多かった。旅費と小屋掛けの費用を支払うとほとんどの資金がなくなった。しかも物価は前年に比べて2割以上高騰していた。
移住者たちは、野草を取って食物の補いとした。
八反田は諸方に手をつくすとともに、岩内で商売を営む縁者から米噌を借り入れて、団体全戸に配布、開墾が継続できる手立てを講じた。
幸いこの年は、前年の経験を生かして耕作したので、生育も順調に進み、豊作の秋をむかえることができた。
しかも、穀物や米類は高価で売れ、菜種などは1石9円50銭という高値がついた。
そのため、米噌の借金を返し終えても、なおいくらかの残金ができた。それに力を得て翌32年には貸下地の半ば以上を開墾し、生活にゆとりが生ずるようになった。
第一陣の入植した明治30年3月、岐阜の人で服部大融が下ソスケ第2基線東1号3番地に説教所を設けた。服部はこの説教所を開放して、子供たちの教育にあたった。
32年になると、各戸で応分の拠金をし、真宗大谷派本山からも150円の補助を受けて説教所を新築した。
明治34年、全地の開墾が成功して、各戸5町歩ずつの土地の付与をうけた。入地後3年ないし4年という早さであった。

『移住者成績調査』に載った美風
北海道庁第五部殖民課では、明治39年9月10日に「移住者成績調査 第一編」を出版した。
その中で加賀団体が取り揚げられ、特に美風と認められるものとして次の事項をのせた。
一、 団体員は互選にて組長1名を置き、之に使庁を1名を附し、団体全般の用務を担任せしむるが故に、団体内のことは常に能く整理せり。
組長の任期は2ケ年にして、組長には1ケ年20円、使庁には1ケ年10円の報酬を なす。
一、 団体員中火災に罹りしものあるときは、団体にて小屋掛けをなし、また米1俵、麦1俵を見舞いとして贈る。既に3回之を実行したり。
また死亡者あるときは、各戸米1升、金10銭を香典として贈り、一同会葬す。
一、 日露戦争中は出征者家族の耕作を補助したり。
一、 団体員は天災予備、公共の事業等の為、1ケ年1戸60銭ないし2円40銭の共同貯蓄をなすことと定め、現に430円の貯蓄あり。
一、 明治32年各自応分の拠金をなし、大谷派本山より150円の補助を受け、450円を投じて説教所(註 現円融寺)を建立し、毎月2回ないし3回説教を聞くを例とせり。
一、 団体員は又子弟を教育するに熱心にして、34年各自主唱し、拠金して500円を集め、之に村費補助150円を加え、広瀬農場、山田組と共同して、倶知安第4尋常小学校(註 後の比羅夫小学校)を建設したり。
一、 共同積立金より、150円を拠出して、新式の洋犂(ようり)、馬用除草器3台及びその他除草器、移植器等を購入して共同使用し、器械力応用の普及を図れり。
一、 団体員は公課に対する義務を怠りたるものなく、納期前に組長に委託して納るを常とす。
一、 毎年神武天皇祭(註 4月3日)及び秋季皇霊祭(註 現秋分の日)の2回業を休みて祭事を行い、一同集まりて種々協議をなす。
一、 団体員と附近住民との間柄は円満にして、何等の紛紜(ふううん)を生じたることなし。
一、 宗教心に厚く、風紀善良にして、生計の度略(ほ)ぼ一定し、貧困なるものなし。
一、 道路の修築其の他公共事業の寄附賦役には、率先之に応じ一致共同従事することを常とする。

明治39年の状況
同書には「現況」と題して、現住の戸数32戸、住宅を改築したもの36年に16戸、37年12戸、38年4戸で、旧小屋は馬小屋とし、各戸1頭ないし2~3頭の耕馬を飼育しているとある。
明治36年は開墾に成功して貸下げ地の付与を受けた2年後である。そのころから営農の基礎が確立し、生活にゆとりが生じはじめたのであろう。
ついで、養鶏、養蚕を副業としているものがあること、急傾斜地で全く農耕に不適の地には植樹して、38年から団体の共有地にしていること、所有地10町歩以上のものは、2戸ないし3戸の小作人を入れて耕作させていること、各戸の自作反別はほぼ5町歩以上、10町歩であることなどをのべ、
と結んで、八反田角太郎(長野村字牛島生)、江川与三松(串村生)、太田作右衛門(串村生)、山下定吉(串村生)、江村岩松(串村生)を紹介している。
まさに称賛にふさわしい成功といえた。わずかな移住資金しか持ち合わせていなかった同郷人を団結させ、1戸の脱落者もなく、短時日に開墾を成功させたのは、総代であった八反田の力に負うところが多かった。
当時、八反田は100町歩の畑地を持ち、この地で雑貨店を営んでいた。
学務委員、品評会審査員、村会議員とその公職も多かった。
しかし、この団体でさえ当時の主食は馬鈴薯とイナ黍で、米を食べることなど考えられないことであった。

羊蹄山7町村の歴史の中の倶知安
原野はやがて豊穣な畑作地帯へと変貌を遂げていきました。1904(明治37)年10月には村民待望の北海道鉄道(現在のJR函館本線)が開通。
 倶知安発展の牽引力となりました。1910(明治43)年3月には後志支庁が開庁。倶知安村は交通・文化・経済に加え、
 行政面でも後志の中核として位置づけられるようになりました。その後、1915(大正4)年4月に一級町村制を、翌1916(大正5)年4月には
 町制を施行して「倶知安町」となり、現在に至っています。倶知安は、「クッチャン」にあてた漢字である。(HP:ニセコサンライズの羊蹄山麓7町村の歴史より引用させていただきました)

2016年1月19日 (火)

加賀団体による倶知安町開拓(2)

加賀団体の入植
手取川の水害
明治29年8月1日、午前6時から石川県下に降り出した雨は夜になると暴雨風となり、
2日には烈風も加わり手取川が氾濫した。
この水害により手取川沿岸では死者14人、家屋の損害9500余軒、土地2200町歩が泥の下になった。
ついで、8月31日に暴風雨があり、9月6日、7日の両日にも風水害があった(吉野井町史)。
この水害によって石川県能美郡串村(現小松市串町)と寺井野村(明治40年湯野村、長野村、寺井村が合併、昭和31年からは寺井町となる)とは、特に大きな被害を受けた。
もともと串村と長野村は手取川と梯川(かけはしがわ)に挟まれた狭長な扇状地で、串村は畑作、長野村は水田を主作としていた。
地味は肥沃であったが、一戸の作付反別が少なかったので、女子は機織りと養蚕、男子は運輸、薪の伐採、炭焼などの副業に従事していた。
そんな状況の中での手取川の氾濫で収穫はわずか4分作で肥料代と小作料を支払うとたちまち生活に窮する状態であった。

北海道移住の計画
長野村字牛島に八反田角太郎がいた。代々農業に従事していて生計は豊かな方であったが、このままでは村の復興が難しいと判断し、串村の友人の中島一郎と北海道移住の計画を進めたのである。
移住を希望する戸数は32戸あった。30戸以上で入植する場合は、団結移住の対象となり、予定存置の優遇をうけることができた。
移住後は開拓を3か年に完了すればよかったことから、加賀団体を組織し、総代に中島一郎、総代補佐に八反田角太郎がなった。
入植地は倶知安村ソスケ(現比羅夫)と決まった。
明治29年秋、中島と八反田は渡道し、初年度10戸を移住させることで予定存置の許可を受けた。ついで現地に入り、小屋掛けの準備をするといったん帰国した。
ところが総代として入植することになっていた中島に差支えが出来て移住することが出来なくなった。そこで八反田が総代となり、それぞれが財産を売却して資金を準備して、翌30年1月17日に加賀を経った。八反田31歳の時で、1000円の資金を持っての入植であった。

2016年1月13日 (水)

加賀団体による倶知安町開拓(1)

平成27年7月14日 かねてより気になっていた石川県人が明治期に開拓移住した地域巡りが始まった。

新潟からフェリーで苫小牧東港に到着したのは7月13日のことです。
今回目的としていたのは羊蹄国道を北上し、円融寺と倶知安町の図書館を訪ねることです。
加賀団体の倶知安開拓を何度かに分けて書いていきます。

加賀団体倶知安の開拓

倶知安百年史(上巻) 倶知安町(平成5年3月30日)発刊より
地名の由来
倶知安の地名はアイヌ語の「クッシャニ」から名付けられた。クッシャニは尻別川支流の倶登山(くとさん)川の旧名である。
クッシャニはクッ・シャン・イで「くだ(のような)を・流れ出る・ところ」の意もあるから、本来ところの意で場所をさすようになったのであろう。
このクッシャンイがクッシャニになり、さらにクドサニとかわって、川名の倶登山(川)となる。
一方同じクッシャニがクッチャン(倶知安)となって地名になったと倶知安百年史に記載されています。
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江戸時代の末ころ、ソウツケ(尻別川の支流・現在のソウスケ川)はサケ・マスの宝庫であった。ところが、尻別川の川口である磯谷から上がるには急流があり、虻田から陸路をとり、キモベツを経て下るには、途中に難所があって共にたどりつくことが難しかった。
いきおい、岩内から倶知安峠を越え倶登山川をくだるしかない。その岩内と倶登山川とを結ぶ目印がこのくだのような流れの地点であった。それが川名となり、川名が地名となった。

倶知安の位置
倶知安町は北海道の中央西部で後志支庁のほぼ中央部に位置している。
南に蝦夷富士と呼ばれる羊蹄山(1898m)がそびえ、西にはニセコアンヌブリ(1308.5m)、イワオヌブリ(1118m)、ワイスホルン(1045.8m)などのニセコ連峰が連なっている。
京極町を隔てたはるか東には無意根山(1460.5m)中岳(1387.8m)、喜茂別岳(1176.9m)、小喜茂別岳(964m)がならんでいる。
倶知安町は尻別川中流域に広がる海抜176mの盆地に位置し、北は余市郡仁木町、北東は同郡赤井川村、北西は岩内郡共和町、東は虻田郡京極町、南東並びに南は羊蹄山頂を境に同郡喜茂別と真狩村、南西はニセコ町、西にはニセコアンヌブリを隔てて磯谷郡蘭越町に接している。

倶知安の気候
倶知安地方の年間平均気温は6.5℃で、最高気温は20.4℃、最低気温はマイナス6.3℃である。
平均気温が10度を超える月は5月~9月の5ヶ月で、マイナスの月は12月~3月の4ヶ月である。これまでの最高気温は昭和51年8月6日の33.6℃で、最低気温は昭和20年1月27日のマイナス35.7℃であった。
9月の下旬から初霜がおり、初雪は早い年で10月20日すぎ、平年は10月末から11月初めである。11月中旬から12月初めにかけて根雪となる。
最深積雪の平均は2m、最深の記録は昭和45年3月25日の3m12cmで、最も少なかった年は平成元年の1m26㎝である。札幌市の平均積雪量は1mであるから2倍の積雪量がある多雪地帯である。

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