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2016年2月20日 (土)

加賀団体による倶知安町開拓(6)

倶知安町の加賀団体の故郷を訪ねて
倶知安町史の中では串村の中島一郎と長野村八反田角太郎は「手取川と梯川に挟まれた狭長な扇状地である」と書かれていますが、長野村は表記の通りですが、串村の位置は梯川の南側で遠く離れた場所です。
この辺を含め両氏の出身地を調べてみました。
 
Photo
                   (石川県加賀地方の地図)
 
八反田角太郎の郷里
加賀団体を統率した八反田角太郎は石川県能美郡長野村出身です。
明治22年(1889年)市制町村制施行で長野村となった村で、牛島村、末信村、大長野村、小杉村、小長野村が合併して出来た村です。
明治40年(1907年)には湯野村、長野村、寺井村が合併し、寺井野村となり、その後大正15年(1926年)町制が施行され能美郡寺井野町となりました。
昭和31年(1956年)能美郡内の寺井野町、粟生村、吉田村の一部、久常村の一部が合併し能美郡寺井町となりました。
その後平成17年(2005年)の平成大合併で能美郡根上町、寺井町、辰口町が合併し能美市となり現在に至っています。

寺井野町史から角太郎の生誕の地を調べてみました。

角太郎が渡道した時代は能美郡長野村字牛島で地形的には北側には手取川と南側に梯川の二つの川に挟まれた地域です。
これらの河川は共に農耕水利には役に立つのであるが、反面水害による氾濫でたびたび被害を及ぼすことがありました。
八反田角太郎が生まれた村は牛島村で、徳二3年(1308年)の「金沢越後守貞顕下知状」という文章に現れているという。鎌倉時代の中頃に京都の南禅寺の荘園として発達してきた集落であったといわれています。
牛島の地名については次の伝説があります。
「八丁川と鍋谷川とを南北に挟んで、広い島があり、丁度その形は牛が座って首を曲げているようであった。島一面は雑木で蔽われていたが、大水ともなるとこの島も東北の一部を残して、水浸しとなった。
年が経るにつれ、島の中央に小川も流れるようになった。この島の西方に南北に走る街道があり、その街道に沿って村々が点在していたが、これらの村人たちは島の開発を考えていたものの、誰一人としてこれを実行に移すものがなかった。
ある日、一人の老人が牛をひいて現れて、村人たちに島を耕地に開発すれば、子孫も繁栄するし、農業に役立つ牛を大切にすることを説き聞かせ、何処となく立ち去ってしまった。
この老人の言葉を神のお告げとして、一心に協力して開拓したのが村の起こりであった。
牛の形をした島、牛のいる島と呼んでいたのが何時の間にか牛島となった」と語り伝えられてきた。
この伝説を裏付けるように、始め大長野の東南に当る「宮の島」(めんのしま)に村があったが、低地であり水害も度々あったので、宮の島より東北にある現在の高地に移住し、村の周囲に竹を植えて水難を防いだと言われている。
故に今も牛島を「籔(やぶ)村」とも呼ぶのはそうした竹藪をめぐらした村であったからである。
Nomi_map21                  (能美市地図:能美市HPより)
生業の移り変り
牛島地区の生業と人口動態を寺井町史から調べてみました。
牛島区は全域平坦な水田地帯であり、人々は農業が主とした生活であった。
村創建以来大地と共に生きてきた純農村で、昔は米穀以外にも鍋谷川や八丁川などの船便輸送も盛んで多様な農産物や生活必需品の生産と流通が盛んであった。
農村特有の自給自足の生活圏らしく燈明用の菜種油、衣料の綿や苧麻、農機具や家庭用具を生産加工する、鍛冶屋、まげ物屋、大工職など、さらには茶椀陶器、古着、小物などの売買交換に当る商人等、様々な仕事が農業の傍ら行われていました。
それらは時代が移っても平安、鎌倉、室町、藩政期と受け継がれた変わらぬ農村の姿であった。
そのことを天明5年と明治初期の資料を基に比較してみると
・村の戸数と人口は殆ど変わらず、明治に入って僅かに漸増している。
・耕地は殆ど変わらず、米生産量も変わらず明治以降も同様である。
・農産物の雑穀類は平安、鎌倉以来殆ど変わらず麦、菜種、麻稈、大豆、そば、綿などを作りその後、大根、生糸、繭、鶏卵などが加わっている。
・明治に入って人口の増加に伴い、限定された耕地の農業だけではせいかつが困窮となったため明治初年には兼業で農業のほか、養蚕、提灯製作、醤油製造など多様化していった。女子にも機織り、糸曳き業など生業が複雑化してきた。
・明治10年頃の牛島の家数は91戸であったが明治21年の諸税割賦帳には105戸となっている。

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