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2016年4月

2016年4月20日 (水)

石川県から京極町への開拓移住者(2)

京極農場開く
京極農場は明治29年空知郡沼貝村茶志内(現美唄市茶志内)に開設した京極第一農場に開設した農場に次ぐ第二農場である。
京極農場240万坪の土地は京極家ゆかりの深い人々の名義で貸付許可の手続きが取られていた。

京極家では明治28年茶志内の貸付許可を得、同年12月にはワッカタサップに第二農場の許可願いを道庁に提出した。
許可と共に児玉忠廣をワッカタサップの第二農場管理人に任命して開拓の指揮を取らせることにした。
まず、土地の実測に当っては向洞爺の三橋政之のもとで開拓に従事していた石原幸吉、白川小太郎、藤村徳治をあてた。

土地の実測について藤村徳治の弟岩吉は次のように言っている。
「兄徳二は明治29年頃、京極農場の測量に来たと言っておりました。測量士は室蘭出身の須藤エイイチという人で、人夫は19人、2人のアイヌ人もいたそうです」
一節には須藤はエイタロウといい、室蘭の屯田兵として来道した人だともいう。
(私が屯田兵名簿を調べた結果、室蘭の屯田兵舎は輪西にあり、明治20年5月に愛媛県から須藤栄吉と須藤鉄三郎という名で入植記録がありました)
Photo                 (土地区画図)

貸付許可が出て、農場開拓にかかるため「5戸27名」の人々を開墾指導者として先発入植させ児玉忠廣指揮のもとに小作人受入れの準備にかかったのは明治30年のことであった。

土地貸下願・起業方法書・設計書
明治28年12月に京極家は三橋政之を代理人として240万坪に及ぶ土地貸下願いを提出した。
Photo_2                      (企業計画書)

この中で京極子爵の名義分を掲載します。

土地貸下願
場所:胆振国虻田村字ワッカタサップ
1.樹林地29万7千坪  畑の見込み
 外に石狩国空知郡沼貝村に於いて明治28年11月日付出願中の分121万9千716坪
を北海道庁に出願している。

起業方法書には樹林地29万7千坪を畑に開墾するための方法が詳しく記載されています。
樹林地には目通り3尺廻り(直径約30cm)の赤タモの木(ニレの木)1,700本、タモの木1,500本、ナラの木500本がありこれらを伐木し畑地に開墾する。
赤タモ、タモ、ナラの木は現在では床の集成材や野球のバットに利用されていますが、当時は薪や炭に利用する以外に利用価値がなく伐木後は燃やされていたようです。
明治29年より明治39年までの10年間で開墾する事業を年次ごとに計画してあり、その中から初年度分の計画を要約しました。
初年(明治29年)は2万2,500坪を畑に開墾する。
普通農具唐鍬山刀、鎌を用い、小作人4戸を移住させて畑に開墾する。
その費用は225円で一反当たり3円の割で開墾費用とするものである。
小作人の住む小屋4棟建築し、その費用は20円(但し小屋造築補助費5円の割)事務所及び倉庫共1棟建築するその費用は300円(建坪30坪、10円の割)
道路308間(560m)開設費、その費用92円40銭(但し間口30銭の割)
管理人1名雇入れ年給144円、創業資金として300円として合計1,081円40銭となっています。

設計書は起業方法書に書かれた項目をより詳しく具体的に書かれたものです。
この項で初めてこの開拓が“農業経営”であると明記してあります。
その個所は「右ハ農業経営ニシテ土地開墾ノ順序ハ小作法ニ依ルモノニテ毎年香川県下ニ於テ相当資産アル者ニ限リ明治29年ヨリ32年迄小作人18戸ヲ移住セシメ明治38年迄10ヶ年間ヲ以テ全域成功ノ目的ニシテ小作人1戸ニ貸与スル土地1万5千坪トシ1ヶ年間開墾シ得ヘキ程度ヲ5千坪ト予定シ3ヶ年間ヲ以テ全ク1戸分ヲ成墾セシムル計画ナリ而シテ小作人ニハ毎戸小屋建設補助金トシテ金5円ヲ与フ開墾費ハ難易平均1反歩ニ付金3円ヲ給ス其他図上朱線道路ヲ開設ス此工費金472円80銭要スル予算ナリ」

小作人1戸で1年間に5千坪、3年間で1万5千坪を開墾させる。
小屋建設補助金として5円を給付するが開墾後の土地は3年後から一反歩当たり1円の小作料を徴収する。
農具は小作人の自弁とすることが書かれています。
これらの事柄が10年間の収支計算書が行われ設計書として書かれており、6年までは欠損が大きいのですが、6年目からは利益が拡大していく計算書になっていました。
農業が経営として明治28年に計画されていたことに驚き、当時の人の計画性は現代の会社経営にも通じる物があると感じました。

2016年4月11日 (月)

石川県から京極町への開拓移住者(1)

京極町の位置
京極町(きょうごくちょう)は北海道後志総合振興局管内、羊蹄山(蝦夷富士)の麓にある町です。
東側に札幌市と接していますが、どちら側にも森林帯があり直接往来はできません。 また南に喜茂別町、西に倶知安町、北には余市郡赤井川村が接しています。
面積は231.49km²の町です。

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明治43年(1910年)に 倶知安村(現在の倶知安町)より分村し東倶知安村となった。
昭和13年(1960年)村の開基者京極高徳子爵所有の京極農場が開放されたのを記念して、昭和15年京極村と改称されました。
昭和37年(1962年)に京極町となり現在に至っています。

京極町の開拓の歴史を京極町史より転載します。
京極町の歴史に関しては他の町の歴史が書かれたものと比較するとその時点のことが克明に記載されておりますので、それだけ記録として残っている物が多いということでしょうか。

開拓者の方の当時の生活も記録として残されており、開拓者の言霊としての現在の我々に伝えることが多い町史であると思っています。

沿革のあらまし
本町の開基は明治30年京極農場に始まる。
旧讃岐丸亀藩主の京極高徳子爵は、北海道開拓のため旧藩士の児玉忠廣に北海道の土地の選定を命じた。

Photo_3


児玉は内務省に勤めていたが官を辞し、渡道すると道庁に勤めながら空知の茶志内と胆振ワッカタサップを調査し、開拓に適地として報告した。
京極家ではこれにより明治28年12月ワッカタサップの地795余町歩の貸付を申請し、翌29年許可になったので、児玉忠廣を管理人として開墾の指揮をとらせることにした。
これより早く明治20年、京極藩の重臣であった三橋政之は香川県人ら22戸76人を率いて向洞爺に入植し、明治22年にはさらに80余戸を入植させ苦心苦闘の末、開拓に成功していた。
児玉は三橋の配慮を得て、29年に京極予定地を測量し、明治30年には向洞爺から開墾経験者の石原幸吉(42歳)、白川小太郎(45歳)、藤村徳治(28歳)ら数戸を招いてワッカタサップに入地させて開拓の第一鍬をうちおろした。

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