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2016年5月

2016年5月17日 (火)

石川県から京極町への開拓移住者(4)

開拓奨励金と小作料
農場では開墾補助金として平均1反歩につき金3円を支給し、居住小屋建設補助金として金5円を与えることになっている。
これについて古老の柴山又吉は「開墾費は初めの3年間は1反歩について3円、4年目からは60銭だった」と言っている。
鍬下3年であったが、農具は自費、日常生活用品、食料、種子などは農場が貸して、開墾費と差引いたのである。
だから小作者は「3円の開墾補助費が欲しくてひたすら開墾に打込んだ」と明治33年石川県河内村出身の岡本又三氏は話した。

小作料は3年目から1反歩について1円徴収する計画になっているが、古老の話によると3年間は無年貢だったというから開墾が予定通り進まなかったので計画を変更したのだろと推測される。

800町歩の開墾成る
北海道移住者は住み慣れた故郷を離れ、新天地に夢を託して渡道したのですが、夢を打ち砕くような現実に直面した移住者は鬱蒼と茂る原始林を一本ずつ切倒して開墾していったのです。
その中で衣食住は生きていくうえで重要なことで、開拓者は毎日の生活に窮することも度々あったという。
これらの生活を維持するためには強固な意志と身体がなければ開拓地に定着できないものであることは自ずと理解できる事象であった。
その中で夢半ばにして帰省を選択する者、点々と各地を渡り歩くものも少なくなかったのである。

「明治40年に至り120戸の小作人を擁し、起業方法の如く成功の域に達した」(旧村史)にあるように、若干の出入りがあったが大正元年8月に京極家は「京極開墾地竣工記念」として初代管理人の児玉忠廣を始め、開拓指導者の藤村徳治、模範小作者の柴山又吉(明治33年吉野谷村より)、中村与作(明治31年鳥越村より)、岡本又三(明治33年河内村より)、沢 乙吉(明治33年河内村より)らに賞状と記念品を授与している。

京極農場の成功は第一に小作人の堅忍不抜の心と京極家並びに管理者の適切な運営があった事に期するのであるが、なんといっても地形地味ともにその立地条件が恵まれていたことも大きな要因である。

京極農場は神社、寺院(広徳寺)の建立、学校(京極小学校)や郵便局の設立などにも力を尽くして民心の安定をはかり、農場の一部を返上して市街地とした。
大正12年には大規模な造田を行うなど本町発展のうえに果たした功績は大きいのである。
大正8年鉄道開通と共に駅名を、更に昭和15年村名を「京極」としたのも開拓以来本町との深い関わりによるものである。
昭和13年小作者120余名に農場を開放して、明治30年以来41年に亘る開拓の歴史を閉じたのであるが「京極」の名は町名として永久に残るのである。

開拓者の生活
ここで入植した開拓者の生活はどのようなものであったのでしょうか
『渡道の動機と経路』
北海道に新天地を求めて渡道した人達は様々な理由があり、団体ごとにも違った移住の動機があったと考えられます。
団体移住者には共通して自然災害による水害や天災によるものが多いのが特筆されます。
京極町に移住した各種団体を調べてみると下記のようになります。
加賀団体…明治30年石川県手取川の大水害 京極農場初期入植団体
庄川農場…明治39年富山県庄川の大水害
山梨団体…明治40年富士川、笛吹川の大水害
第一群馬団体…明治43年利根川支流の大風水害
香川県から渡道した藤村徳治一家や大西源治らは同県観音寺町の津波被害が動機という。
その他、土地が狭少、分家、知人や親類の勧誘なども多い。中には一旗組もあったという。
しかし内地に人の「食い詰め者が渡道した」という言葉は許せないと述べていることが開拓者としての矜持だと思います。

『加賀団体からの移住者の動機』
私の出身は石川県で、大雨が降るとよく川が氾濫する場所であった。白山川と手取川の合流する所で地名も河野村河合である。
私が6歳のときなので明治30年だと思う、川が氾濫し警察が出動し、ロープを張って救助された。私の家も畑もすっかり流されてしまい、これがきっかけで父は「こんな所にいてもしょうがない。聞くところによると北海道は広くて良いところだそうだ。北海道へ行こう」と決心したところへ、ちょうど北海道倶知安村ワッカサップの京極農場から小作人募集があったので、それに応募したのである。」(京極小60年記念誌久保孫三談)


『渡道への経路』
村の始めに入植した人々はどういう道筋をきたのであろうか。
明治37年10月に函館―小樽間の鉄道が開通したが、それ以前はどのようなルートで渡道したかを各団体での体験談をまとめてみました。

“石川県、富山県から京極農場へ入植した人々”
富山県の伏木港から日本海を渡航し、函館に寄港し岩内に上陸、岩内と倶知安にそれぞれ一泊した。
伏木から岩内までの日数は途中の寄港状態でまちまちだが1週間を要したこともある。

Photo


“余市、倶知安方面からの入植者”

京極農場、江川農場などに入植した徳島県人は汽車又は船で青森に着き、ここから小樽へ上陸、いったん余市や倶知安に入地し、後に京極に転住した者が多い。

“室蘭に上陸し洞爺経由の入植者”
京極農場開墾指導員石原幸吉、白川小太郎、藤村徳治らは、それぞれ別個に洞爺に入植しているが、渡道の時は同じように太平洋航路をたどり室蘭に上陸している。京極入地の時は向洞爺から今の留寿郡に至り、留寿郡~留産~目名~京極農場の経路をたどったと思われる。
藤村徳治の弟岩吉の場合は郷里を出て1か月もかかってようやく洞爺村に着いた。

2016年5月 1日 (日)

石川県からの京極町への開拓移住者(3)

入植始まる(最初の人々)
児玉は噴出しの上から尻別川までの道路を開かせ、川を渡って農場事務所を設けた。
翌年の移住者受け入れのための共同小屋を建てた。
その間に石原、白川、藤村たちの土地も定め開墾にも着手させたのである。
明治31年3月、第1回目の小作者を石川県河北郡、能美郡などから入れた。
その募集には児玉忠廣が現地に行って奔走したと思われるが、なぜ石川県から募集することになったかは不明であると書かれていましたが、開拓移住の召募時期は石川県各地で自然災害の発生した時期と重なった偶然と一致したのである。

明治29年8月の豪雨で手取川が氾濫し、下流域の多くの人家や田畑を流失し甚大な被害をもたらしたのである。
このため多くの人達が北海道への開拓の話に夢を託して、墳墓の地を後にして渡道していったのである。
京極町への開拓移住者の名簿 京極町史から石川県と富山県からの入植者名と出身地を記述しておきます。
これらは明治34年までに入植した人々で、古老の記憶と明治34年八幡神社寄付帳及び町役場旧戸籍簿などによりまとめたものである。

なお、記録には出身地石川県○○村とだけ記載されていましたが、明治22年の市制町村施行時の町村名とし、現在の市町村名を合わせて記載しました。
明治31年入植者 明治22年市制町村施行時の地名    現在の地名
金田 伊三郎  石川県羽咋郡河合谷村        石川県河北郡津幡町河合谷
山本 常次郎  石川県羽咋郡河合谷村         石川県河北郡津幡町河合谷
寺田 和三郎  石川県羽咋郡河合谷村        石川県河北郡津幡町河合谷
中塚 三次郎  石川県河北郡八田村          石川県金沢市八田町
川向 伊三郎  石川県河北郡八田村          石川県金沢市八田町
高木 権次郎  石川県河北郡八田村           石川県金沢市八田町
村井 孫七    石川県河北郡八田村          石川県金沢市八田町
奥野 伊三郎  石川県河北郡八田村          石川県金沢市八田町
中村 弥三郎  石川県石川郡鳥越村           石川県白山市鳥越
北口 九平    石川県能美郡河野村          石川県白山市鳥越
宇羅 仁介    石川県河北郡田近村          石川県金沢市花園八幡町
田中 伊右衛門 石川県石川郡鳥越村          石川県白山市鳥越
田中 仁太郎  石川県能美郡西尾村          石川県小松市波佐羅

明治32年入植者
久保 孫次郎  石川県能美郡河野村          石川県白山市鳥越
清水 長松    石川県石川郡鳥越村          石川県白山市鳥越
古村 市太郎  石川県能美郡板津町          石川県小松市
荒木 市次郎  石川県河北郡田近村          石川県金沢市花園八幡町
鴋沢 理吉    富山県西礪波郡石動町         富山県小矢部市石動町
日下 栄次郎  富山県富山市               富山県富山市
島岡 吉次郎  富山県西礪波郡石動町         富山県小矢部市石動町
駒井 宗助    富山県射水郡下関村            富山県高岡市下関町  倶知安から移住

明治33年入植者
芝山 岩松   石川県石川郡吉野谷村          石川県白山市吉野
中川 円七   石川県石川郡吉野谷村         石川県白山市吉野
柴山 徳松   石川県石川郡吉野谷村         石川県白山市吉野
林  磯八   石川県石川郡吉野谷村          石川県白山市吉野
中川 六右衛門 石川県石川郡吉野谷村        石川県白山市吉野
進藤 又八   石川県石川郡吉野谷村          石川県白山市吉野
柴山 与左衛門 石川県石川郡吉野谷村        石川県白山市吉野
沢  乙吉   石川県石川郡河内村           石川県白山市河内
西村 仁次郎 石川県金沢市                石川県金沢市
篠原 次郎助 石川県石川郡鳥越村           石川県白山市鳥越
吉田 与平治 石川県(不明)
林  磯吉   石川県石川郡河内村           石川県白山市河内
岡本 又三   石川県石川郡河内村           石川県白山市河内

明治31年から34年の間の移住者

桑田 平助   石川県石川郡河内村           石川県白山市河内
前多 栄次郎 石川県羽咋郡河合谷村          石川県河北郡津幡町河合谷
木本 八右衛門 石川県能美郡西尾村          石川県小松市波佐羅
大屋 作次郎 石川県河北郡田近村           石川県金沢市花園八幡町
大沢 尚次郎 石川県(不明)
荒木 ニ太郎 石川県河北郡花園村           石川県金沢市花園八幡町
中村 与助   石川県能美郡河野村           石川県白山市鳥越
川口 嘉六   富山県射水郡二上村           富山県高岡市二上
福岡 善六   富山県射水郡片口村            富山県射水市片口
竹内 政次郎  富山県射水郡片口村           富山県射水市片口
藤沢 喜作   富山県上新川郡東岩瀬          富山県富山市東岩瀬
吉野 藤蔵   富山県西砺波郡南谷村          富山県小矢部市石動町
山田 長三郎 富山県西砺波郡南谷村           富山県小矢部市石動町
滝田 七兵衛 富山県西砺波郡南谷村          富山県小矢部市石動町

(注)入植者名簿の中で京極町史では「石川県田辺村」と記入された個所がありましたが、明治22年の市制町村施行時の地名で石川県内の地名を調べたのですが同名の地区は見当たりませんでした。
私の移住者リストの中では河北郡内の同地域から入植されている田近村ではないかと思慮されるので田近村と表記しています。
今後の調査で正確な地名が判明するとよいのですが。

明治32年第2回目の移民は石川、富山両県から入植したが、この時の募集には第2回管理人となった橋本作治が当たっている。
明治34年は不明、翌35年は橋本により徳島県から募集してきたが、その正確な数は分からないと記されています。
この間、京極農場の開始を聞いて倶知安、仁木その他からの入植者もあって次第にその数も増加した。

第1回の入植者数は「開道50年記念北海道」には23戸、第2回目の管理人橋本作治の書簡によると20名となっているが現在分かっているのは16戸くらいである。
第2回目以降は毎年20戸ずつと旧村史に記してあるが正確なところは不明で、故岡本又三氏の談話では3年間で43戸と言っている。

この他に吉野谷村史には吉野谷村吉野から下記の人達が移住していた記録が記載されていました。

中川円七    明治40年10月  円作の父
中川六右衛門 明治42年  4月
戸田又吉    明治44年  1月
中川円作    明治44年12月
柴山いと     大正2年     明治33年入植の柴山岩松の妹

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