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2016年7月13日 (水)

石川県から京極町の開拓移住者(6)

伐木に励む
5月になりました。加賀地方では麦の穂も出て苗代にかかるころなのに、この京極農場ではまだ雪が残っています。あの大森林の中だから雪解けは遅かったのでしょう。
その雪もどうにか消え去ったものの、今度は背よりも高い熊笹がびっしり地面にはえているのに驚きました。
使ったこともない長柄の大鎌を借りて笹狩りに取り組みましたが、慣れないため思うような成果は挙がりませんでした。また冬の間に倒した大木を焼くため6~7尺に切り、これを転がして数か所に集めるのが大苦労でした。
畑と言う字は火へんに田で、原野の草木を焼き払って耕地を作る意味だと聞いていました。一口に焼くと言っても、それはやさしい仕事ではなかったのです。切っても尽きることのない樹木、まったく樹木が敵でした。疲れ果てて傍らの大木のこずえを見上げていると、名も知らぬ小鳥たちが鳴きながら飛び立ち、人間の非力を憐れんでいるかのようでした。
私達の開墾地は、大森林の中にできた小さな穴のようなものです。
その穴が隣の開墾地の穴とつながって広く大空が見えるようになって「羊蹄山は、こんな方角にあったのかと気が付いた」という話をよく聞きました。
空が開かれて、周りの森のこずえを越して他の開墾地の火入れの煙が見えました。
「ああ、あっちにも開墾者がいる。負けるもんか」そう思ってひたすら伐木、笹狩り、火入れに励んだものです。
働いても働いても開墾は進まず、第1年目の作物は早霜にやられ、ほとんど何も取れませんでした。
国を出る前に移民募集に来た橋本さんから「北海道で働けば、馬の草刈しても1日に1円や2円は取れる」と聞いていました。「北海道へ行けば濡れ手に粟のように金が入る。2~3年も稼いで成功して内地へ帰ろう」みんなそう思って移住してきたのではないでしょうか。

ブドウづるの緒
農場小作人は鍬下3年で、その後は米麦、みそ、農具、種子、日用品など一切を農場から貸してもらいました。したがって個人入植者のように日常生活物資でひどく困ることはありませんでした。
ただ、配給品を受取るためにほんの5~6町離れた事務所まで行き来するのにほねがおれました。
今の三条通りは、農場の道路としてワッカタサップ橋のあたりまで、木を切り倒し、笹を刈ってありました。笹は刈ったとはいうものの根元が1尺以上も残っており、危なくて暗くなればとても歩けませんでした。この笹の切株の中を歩くために、シコロの木を切って割り、手製の下駄をつくりました。緒はブドウづるの皮です。
今の三条通り□(ひとがしらの下にトの屋号)守さんのあたりはひどい谷地で、うっかりぬかると大変だから太い木を何本も倒して丸木橋のようにしてその上を渡って歩いたものです。
農場からの食料は1日どれくらいあったか忘れましたが、米が3、麦が7の割合でした。故郷の加賀は米作地ですから、こんな麦飯を食べたことはありませんでした。香川県から移住してきた田尾牛松さんに麦飯の炊き方を教えてもらったが、つい麦を残して米だけ先に食べてしまいました。そこで事務所の人に見つからないように倶知安まで往復7里の道もいとわず、こっそりと米を買いに行ったものです。
しかし、それは多少現金が手元にあるうちのことで、やがて米などぜいたく品となり、開拓者に共通の粗食の苦しみをなめなければなりませんでした。自分の土地から多少収穫があるようになると、ソバ、イナキビ、トウキビなどが常食となりました。
小作人の中には種子用の馬鈴薯を食ってしまう者もあり、私もルサンまで出かけて、ようやく分けてもらったことがありました。
「娘時代の私には開墾の苦労より、食べ物の不自由がいちばんつらく、一生忘れられません(トク談)」
開墾地からの収入がなかった時代、現金を得るには事務所の出面(でめん)に使ってもらいましたが、それだけでは不足なので尻別川の向こうの江川農場へ働きに行ったのですが、事務所の人に見つからないようにこっそり隠れていきました。
そうやって得た少しばかりの日銭もみな食料を買うのに使い、衣料など新しいものを買う余裕もなかったが、また欲しいとも思いませんでした。

あかり・ふろ・わらじ
灯下は“小とぼし”というものを使いました。小さなカンヅメくらいの大きさのブリキ缶に石油を入れ、木綿ひもの芯をつけて点火するのですが、ローソクくらいの明るさです。
石油は4合ビンに1本ずつ事務所から配給されました。無くなってもらいに行くと、「使いすぎる」と叱られました。叱られるのが嫌だから」、なるべく石油を使わず、いろりのたき火で我慢しました。
フロは大木の切株で、中心がうつろになっているのを見つけて輪切りにし、中をくりぬき、片方に石油缶のブリキを広げて張りつけて底にしました。手ごろな石をならべ、その上にこのフロをのせ、下から火を焚く野天フロでした。
お茶などはぜいたく品でした。たいてい柳の新芽を摘んでそれを干して茶の代用としましたが、もちろんおいしいはずがありません。
わらじも初めはブドウの皮で作りましたが、ゴワゴワして堅く、はき心地が悪いので、米のあき俵を払下げしてもらい、そのワラで作りました。米のあき俵は夏のワラジ、冬のツマゴ作りに貴重な材料でした。

望郷の心も
こういう生活を続けながら1年がかりで開墾した土地は2~3反もあったでしょうか。働き手の多い家でも4~5反が精一杯だったと思います。いやまだまだ開墾できたかもしれませんが、皆の心の底にはやがて国へ帰ろうという気持ちが潜んでいるのだから良い成績があがらないのです。
どんなに苦しんで働いても土地は自分のものにならず、出発前に故郷と想像したのと、現実はあまりにもかけ離れていたからであります。
「何の為に北海道へ来たのか」・・・と、そぞろに故郷が懐かしくなり、帰郷したくて矢も楯もとまらないという気持ちになるのでした。
それでも小作者たちは1坪、2坪と土地にしがみつくように開墾したのは、1反につき3円の開墾手当が欲しかったからです。今更故郷にも戻れず、そうして大地にむかうより地に生きてゆく方法がなかったのであります。

2年目は
開墾第2年目(明治34年)は10月半ばに早くも初雪を迎えました。みぞれが降り続き冬が近くなると、またしても故郷を思い自分たちの生末を考えると不安で一杯でした。しかし努めて故郷の話をしないようになりました。
これも2年目の冬のことでしたが、木は処分に困るほど有り余っているのに、冬のたきぎの準備を忘れてしまいました。倒しては焼き、焼いては開くことに夢中になって、冬の燃料のことなど念頭に無かったのです。
その辺の林に行って10日分くらい切ってきます。雪の中で生木を運んで来るのですから良く燃えません。枯れ木なら燃えるだろうと思いましたが、枯れ木でも雪の中で濡れたものはよく燃えません。
ガンビならよかろうと探したが、あいにく私の土地にガンビはほとんど生えていなかったのです。
苦労しているうちに、生木を上手く燃やす方法があることを知りました。
万事こんな調子で、今思うとつまらない事、ささいな事を一つ一つ体験していきました。

曙光を見出す
開墾は中々はかどりませんでしたが、何時の間にか2年、3年と過ぎて故郷へ帰ろうという気持ちも薄れ、1反2反と開墾を進めるために働き続けました。
5年目かと思いますが、馬鈴薯が大豊作しました。笹の根を掘ってそのあとの穴の中に捲くという粗末な方法でしたが、取入れになってその穴を掘ると面白いほどたくさん出て来ました。「5升芋というが、本当に一株に5升もつくものだな。」と思いました。
あまり取れ過ぎて、道路の砂利の代わりに敷いてみようか・・・などと言ったほどでした。
作物が取れ過ぎると買い手がなくて困るのですが、やはり方策は大きな喜びでした。(註:小作人が収穫した作物は決められただけ農場へ納め、残余は販売してもらったという)
開墾した土地が広くなるにつれ、食料の他に余分が出ると、それを売ってもらって現金収入が得られるようになりました。そうなると農場へ納める小作料に一苦労でしたが、小作生活も落ち着いてきました。
明治何年だったか、私は京極農場小作者では一番早く馬を買いました。1頭20円くらいだったと記憶しています。
「岡本の家では馬で畑を耕すそうだ」と評判になり、見物に来る人もありました。けれども始めは馬も人も馴れていないので、ブラウを使うのに苦労しました。
そのうえ、新墾地ですから木の株や笹の根が残っていて難儀しました。“一本うねきり”も使いましたが、そのころとしては珍しいものでした。馬を買った時の喜びと誇らしさは今も忘れることができません。
肥料を始めて使ったのは明治の末だと思いますが、「過リン酸というこやしを使ったら、うんと作物が取れるそうだ」と聞いて、小作人仲間が共同で試用してみることになったのです。10貫入り1俵が1円50銭くらいだったでしょうか。
過リン酸は灰のようで使い方も良くわからなかったが、「じょうごのような筒を使って、うねの中へまくそうだ」と聞き、板で筒を作り、肥料は箱に入れて肩から吊り下げ、どうやら恰好がつきました。
あとになってわかったのですが、始めてまいた肥料の分量は問題にならない薄まきだったのです。薬でも使うように、ほんの少しまき、ためしに無肥料の畝と比較してみることにしました。さて、作物が成長しはじめると肥料を入れた所と無肥料の所とでは格段の違いが現れてきました。
もちろん収量にも大きな差が出て、私達は肥料の効果にびっくりしたものです。
翌年から、みな競って過リン酸を使用しましたが、今思うと過リン酸の単一使用で、後年に地力が減退することになり、農民生活を苦しめる原因にもなったと思います。
原始農業だ略奪農業だといわれますが、当時の私達には知識もなかったのです。
肥料を使い、馬を使うようになって、農家らしい収穫も上がるようになったわけです。
当時イナキビを17~18俵、麦を15~16俵くらい売ったように記憶しています。しかし、作物を売れる農家になったのは大福豆や白丸ウズラ豆などの手竹のものを作るようになってからでしょう。もうそのころは雑穀仲買商へ個人個人で売るようになっていました。

野ねずみの大害
たしか明治37年のことだと思います。
トウキビの取入れをする秋のころでした。ある夜、家の外でザワザワ、ザワザワと気味の悪いもの音がひっきりなしに聞こえるのです。始めは風の音かと思いましたが、風にしては切れ間が無いのです。
次第にざわめきは強くなってまるで津波でも押し寄せてくるような感じでした。寝るにも寝られず、こわごわ小屋の戸を開いて外に出て、やみを透かしてみると、畑のトウキビの茎や葉が動いていたのです。「ねずみだ」と直感しました。しかも30匹や50匹ではない。数えきれないほどの大群だと気付くと何か背筋がぞっとするような不気味さを感じました。
今にもこの家のなかへ襲ってくるのではないかという不安な気持ちで眠れぬ一夜を送りました。
夜があけるのももどかしく、畑に出てみてその被害の激しさに驚きました。トウキビ畑は大風の去った後より、もっともっとひどく惨憺たるものでした。
こうして次の夜も、またその次の夜も、夜通しネズミがやってきました。このままでは畑が全滅してしまうので、事務所では急いで毒薬を取りよせ、全小作者にネズミ取りを命じました。
私どもは教えられた通り、シコロノキの板切れの真ん中にくぼみを作り、そこへ毒餌を入れて、畑のあちこちに置きました。また「板落とし」といって」、バネでネズミをはさむようにした道具もこしらえました。夜になると畑のあちこちでパチン、パチンと板落としのはねる音がしました。
事務所ではネズミ1匹5厘で買いました。尻尾だけ集めたのを塚に葬りました。
ネズミは多少なり毎年害をしましたが、どうしてあの年だけ大発生したのか不思議です。その当時は「去年、笹の実が大豊作だったから」といわれておりました。
とにかく畑の切株などおこしてみると必ず数匹のネズミが潜んでいました。ある家では「いずこ」の中へ寝かせて置いたあか子の鼻をかじられ、また小屋で寝る時は頭や足に「かます」をかぶらなければならなかったものです。
そんな有様で、この年はトウキビや大豆の収穫はほとんどだめでした。
開拓の頃には全くおもいがけない苦労がありました。

以上が岡本又三氏の回顧録を転記しました。

 完

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