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2016年12月 7日 (水)

大椴地区を訪問して(3)

小平町文化交流センターの中にある図書室で小平町史を閲覧していたのですが、大椴の歴史が書かれた書籍は見つかりませんでした。
小平町役場まで足を延ばし役場の方に来意を伝えると大椴の歴史に関しての資料をコピーして頂くことができました。
今回提供を受けた資料を掲載することとしました。

第12節 トドコ(大椴)原野の入植と開拓
区画割りと団体結成
この原野は明治31年の貸付地で、同年4月に石川県人が団体を組織して入植し、わずか3ヶ年間でその殆どを開拓したという。
辺境の小原野ながらよく団結してまとまりある平和郷が作られている。

明治29年3月石川県石川郡及び能美郡から北海道雨竜郡北竜村(沼田町)本願寺農場や空知郡奈井江高島農場等に十数戸が小作農として移住していた。
この年4月、政府は北海道の拓殖政策を一層進めるため、拓殖務省令で、「北海道移住民規則」を定め、各府県知事に団結移住者を証明させ、一方北海道庁はこの受け入れ体制を整え、移住者のため他の個人出願者より優先的に土地を貸付することになり、また事情やむなく団結移住が遅れることがあっても、期限を限って貸付予定地を残して置くという優遇処置も取られるにした。
このことを知ってか翌30年奈井江高島農場の小作者吉本駒太郎、桑原権兵衛など、同じ荒地開墾で苦労するならば、自ら土地の貸付を受け、将来自分の土地とすることが有利と
しながらも団体入植の適地がわからず、雨竜郡本願寺農場にいた森田駒太郎などを道内各地に土地探しに出張させた。
駒太郎はたまたま苫前郡羽幌町築別原野で小林乙吉に会い、未開地トドコ原野を聞き父新助に報告した。新助の長男政吉及び権兵衛の子桑原市太郎は駒太郎と合流、小林乙吉の案内でトドコ川下から小船で同原野を数日間探検し適地であることが確かめられた。直ちに各農場に小作する同郷人に呼びかけ、18名の団体者がまとまった。なお、不足数17名は小林乙吉と市太郎の両人が郷里石川県に行きこれをまとめたので、早速石川県庁を通じて道庁へ手続きし、同年11月土地35戸分の貸付が認可されたのである。

入 植
衆望を受けて桑原権兵衛は移住団体の総代となり、同年2月道内組中9名(桑原市太郎、林仁太郎、東市松、谷口三松、松本宗兵衛、三口助佐、森田新助、吉田与三郎、北島伊三郎)を現地に派遣して着手小屋3棟(間口三×奥行十数間)を作り、入植の準備をした。
翌31年3月下旬、道内組は堅雪を渡って旧住所引払い、4月1日18戸が事現在地に到着した。
一方郷里組は17戸中の7戸も同月中旬に伏木港から小樽港に寄港しながら間もなく到着したとあるが、詳細のことは不明である。
ここに合計25戸が入植したが、同年6月退団者10名の代替に新規加盟者8名の手続きとこの人々の貸付予定地の存置延期願が出されていて構成団結者35名には変わりがなかった。(2名の不足については臨検調書で指摘されている)

土地の配分
当初の土地請願が35戸で大椴原野と築別原野とで54万坪(180町歩)であったが、築別は高台の粘土地で瘠せ地のため、これを返地し大椴原野だけとした。従って1戸平均5町歩(1万5千坪)のところ減少して約4町歩弱(約1万2千坪)となった。しかし郷里の5反百姓に比べて実に広大であり一同了解し全労働力をこの原野に注入することにしたのである。
大椴原野は河川が蛇行しており、土地は凹凸した狭長な原野である。海岸の近くは平坦だが、カヤ、ヨシ、ヨモギなどの草地で地味不良であるのに比べ、奥地方で川の南側地帯は肥沃密林であることから区画配分に当たり、配当地積の半分を下流平地に、半分は上流にと公平を計り、抽選して決められたので誰一人として不平を漏らし者はいなかった。

入植開墾
入植した時はまだ雪深く、更に3棟の共同小屋を建て増して分宿し、数日を 費やしして雪上実測しながら各戸の土地を確認した。
休む暇もなく所有地内の伐木がにわかに開始されたことはもちろんであるが、これと並行して共同で荒路ながら切り開き橋を架けた。( 丸太2本を並べて渡して、ブドウ蔓で数カ所を縛った物)
融雪を待ちかねて開墾し始めた時は4月も半ばを過ぎる頃であった。
郷里は米作地であり、荒地の開墾は全くの未経験者ばかり、2年先輩の空知、雨竜からの人々に要領を聞きながらの開墾には、歯を食いしばっての苦闘だった。
伐木を片付け、丸鍬で表土を削るのももどかしく、遅れがちの蒔付けである。皆自家用食料作物(粟、いなきび、とうもろこし、麦、ひえ、そば)であった。そして蒔付けが終わった6、7月には各戸が自作地内に住居小屋(掘立2間×3間位)を作って移り住んだのである。

災害と協力
この年、3回にわたって大水害があり、川近い低地の人家が何軒も流された。加えて害虫、野ネズミ、兎の被害、早霜と続き、殆ど収穫皆無で、わずかに馬鈴薯が少々獲れた程度の惨状であった。
総代の桑原権兵衛は人々を大いに激励し、今こそ団結協力の時を主張、先達となって節約を履行し、互いに助けあつた。また協議して鬼鹿の商家(住吉安蔵等)から薪炭や収穫物と交換条件で、米、味噌を借入れ、蒔付けの仕込みを仰いだので、飢えをしのぐことができ大いに救われた。
この時が一番苦しかったという。

組合結成と馬耕
入植2年の春を迎え、郷里から7戸の団体者が増えた。
築別入地の予定者であったが、前記の通り返地したのでその全員を吸収し、すくなきものを分け合って開墾に務めたので、この年大いに進展し、その大半を開くことが出来た。
組長(明治32年結成して大椴子植民団体組合と称し、引続き権兵衛組長となる)は2ヶ年の経過から思うところがあり、開墾は人力ばかりでは容易でなく、馬耕を取入れるべきだとして、その資金調達の一策に炭焼きを奨励し、貯金をさせ、翌33年2、3戸組みを作り共同で馬と農具を買い、馬耕したので大いにはかどることができた。
幸いに同年良作であったので殆どの家が馬を買い、3年間で可耕地の全域を成功させることができ、人心ようやく安堵することができた。

部落の形成
入植直後は生抜くための苦闘続きであったため、子弟の教育のことを問題にする余裕はなかったが、3年目の作柄を見てようやく愁眉を開くまでになり、組合員が金二百余円を集めて学校を建てた。
道路も大いに手を加えて人馬が楽に通行出来るほどに手直しをした。
また入植時祠(ほこら)に天照大神を祀る標柱を立てていたが、翌年祠を建て、また同年輪番制の説教場(1年持回り制)も設けられていたので、一応部落の形態が出来たのである。
しかし負債は大きく残っていて人心必ずしも安定せず、2年目(明治32年)8月までに組合の負債額3,200円余りもあり、利息(3分)の支払いに苦しんでいた。
この時団体者といえどもその意見は一致せず、一時騒然としてさすがの団結も危ぶまれたこともあったが、鬼鹿村伊藤富太郎の仲介でまとまり、数年後には債権者の寛大な計らい、五カ年の年賦払いに切替えられ、円満に解決を見たということもあり、しばらくの間は余裕のない貧困生活が続いた。

道 路
明治36年、1線から8線までと、北2線までの殖民地道の開削工事が組合全戸の共同奉仕によって行われた。
これまでの3尺(約90cm)道路から9尺(2.7m)道路に拡幅され、馬車(2寸幅車輪)も通行可能となった。
しかし、まだまだ粗悪なもので雨後は馬車はおろか、人の歩くのにも困難する状態であった。
大正3年に砂利を敷いてからはこの難路も一変して良くなった。

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