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2017年1月

2017年1月28日 (土)

石川県から石狩町花畔村への開拓移住者(2)

第三節 北海道庁時代の移民
北海道庁時代に入って、従来よりさらに内地からの移民を増す計画がもたれ、北海道各地で殖民地が選定された。
明治26年の石狩付近の区画実施状況が下表となる。

                                                                       
 

区割測設年次

 
 

原 野 名

 
 

15,000

 

以上

 
 

10,00

 

15,000坪   

 
 

6,000

 

10,000坪 

 
 

6,000坪未満

 
 

明治26

 
 

軽川原野

 
 

197

 
 

138

 
 

221

 
 

24

 
 

 
 

花畔原野

 
 

221

 
 

108

 
 

16

 
 

11

 
 

 
 

生振原野

 
 

479

 
 

76

 
 

34

 
 

27

 
 

 
 

篠津原野

 
 

297

 
 

67

 
 

35

 
 

17

 
 

 
 

當別原野

 
 

1,240

 
 

304

 
 

106

 
 

52

 

[ 区割の方法 ]
『新撰北海道史』第四巻で、「石狩國各原野等に於ける區割の方法は、大體同一で直角法によって方九百間の大割を作り、これを九等分して中割とし、(方三百間)さらにこの中に間口百間、奥行き百五十間、一万五千坪を區割し、一戸の標準耕作面積として、6戸を入れるのを原則とした。
然しその土地の状況によって中割、大割に止め、小割の測設迄は行わざる土地もあり、中割、小割に止まったところもあった。即ち土地不良にして急に入地不良の個所、牧畜敵地等は大、中割に止め、又土地狭少にして大割に要せざる所は、中、小割に止めたのである。
斯る方法を原則とはしてゐるが、土地の状況によって必ずしも直角法によらず、ためにその區割も15,000坪以下の區割が測設されたのであった」と説明されている。
そして殖民地に選定された生振原野(西生振)に、明治27年4月15日(旧暦)、愛知県下16カ町村から56戸320余人が入地し84万坪に亘って開墾に従事することになった。
さらに翌28年39戸が、翌々年(29年)には41戸が加わった。

なお、この団体の移住前の状況と移住後の様子、功労者などが北海道庁第五殖民課による
「移住者成績調査第一篇」(1906年刊)に紹介されているが、摘録してみた。

愛知團體
郷里:愛知縣東春日井西春日井二部、 現在:石狩國石狩郡生振字生振原野
・郷里に於ける状態
  省略
・移住の動機及ひ移住の顛末
  省略
・移住當初の景況
 この團體民か郷里出發の際所有せる資金は各戸甚た不同にして約千圓を有するもの1戸、四五百圓を有するもの3戸、其の他は平均百圓内外にして旅費(1人に付凡そ7圓)を支拂ひて残る所僅少なり。又旅費の外一銭も持たさるもの数戸あり。携帯品は衣類家具及び少許の農具等にして、外に各戸平均二三俵の米麥を携帯せり。
移住地は石狩國石狩郡に属し、石狩川其の東部を流れ札幌市街を距る凡そ4里、石狩町を距る凡そ2里。
當時原野には測量の際刈分けたる細徑あるのみにして交通不便、加ふるに樹木繁茂し熊笹叢生したれは、開拓の業容易ならす。相励まして伐木開墾に従事し資本なきものは資本あるものの開墾を手伝ひ、傍ら自己の土地を開きしも其の業に熟練せす。
且つ移住の時期稍々後れたる為め明治27年は1戸平均5反歩の作付をなしたるのみにして収穫少なく郷里より携帯せし米麥は食ひし盡し大いに困難を極めたりと云ふ。
以下の項略
同団体は入植に当たりその成功を期して「愛知縣團結移住者規約」を設け開墾に励んだとありました。

さらに三縣時代及び北海道庁時代初期に花畔および生振へ入地した個人4名の移住の前後を記載されていますが、本稿では割愛します。

2017年1月21日 (土)

石川県から石狩町花畔村への開拓移住者(1)

石川県から北海道石狩町花畔村への開拓移住者

石川県から北海道へ開拓移住している人々を調査している中で、石狩市の花畔(ばんなぐろ)に加賀団体で移住していることを知りました。
この石狩市には前田家が牧場を営んでいた手稲前田や札幌で最初に屯田兵が入植した琴似地区があります。
明治27年6月に「能美郡新丸村」から春木利作氏ほか4家族、計27名の方が花畔に入植したとあります。
明治27年にも石川県人69名が入植したとの記録もありました。

石狩町花畔の歴史を「石狩町誌 中巻一」(昭和60年発行)から調べてみました。
石狩町は平成17年(2005年)10月1日、厚田村・浜益村の両村を編入合併し石狩市となりましたが、明治時代を調査する関係上、石狩町の時代に遡っていきます。

[ 石狩町の位置 ]
石狩町の西側は石狩湾に面し、北(北東)は厚田郡厚田村、東は石狩郡当別町に接しています。また、南西側は小樽市、南側に札幌市北区、手稲区とも接しています。
石狩市の中心あたりを石狩川と茨戸川が流れています。
石狩の語源は諸説があるようですが、アイヌ語の「イシカラ・ペツ」(曲がりくねった川)から来ているという説があるようです。
花畔(バンナグロ)の語源はアイヌ語で「パナ・ウン・クル・ヤソッケ(川下人の漁場)」からきているそうです。

Photo_4                         (石狩市位置図)
Photo_5                      (花畔位置図)


 第三章 内地人の移住より
第一節 開拓使時代の移民
明治4年3月岩手県下より召募された80戸が札幌およびその付近に移住することになり、移民たちは同月19日宮古から船出して、4日後の23日小樽に着き願乗寺で一泊し、各々の目的地へ向かったが、この際20戸が当地方に落ち着いた。
さらに岩手県からは明治5年農民39戸129人の入地が予定され実施された。
なお、これらによって花畔村が開村された。
明治4年5月には宮城県宮城郡」の高木、松島、磯崎、山形県米沢藩士玉木琢蔵(引率者)ら29戸134人も石狩へ入地しており、これによって生振(おやふる)村が開村された。
明治12年には南緑地区に四国より14人が入地している。

第二節 札幌縣時代の移民
明治15年にはオタルナイから樽川村として開村された後3年を経て、18年1月にはこの村に山口県から43戸の官費渡航による保護移民が移住した。
しかし、これらの43戸中23戸が地券を渡されておらず、地券を渡されたのは20戸のみについてであり、共に移住したうちの半数以上は同地に馴染めなかったということになる。
また、同じく山口県から18年同村に川本荘七に率いられた12戸が入地している。
そして、これら山口県からの入地者の生活状況が「北海道縣第四回勧業年報」(明治18年版)に記載されています。
「本年4月以来、廣島・山口両県民ノ札幌郡山口・手稲両村及ヒ石狩郡樽川村等ニ移住セシ者資力極メテ韮薄ニシテ、壮者ハ過半他ニ出稼シ開墾ニ従事スルヲ得ス。
出稼スル者モ亦只僅ニ一身ノ糊口ニ過キス。是ニ於テ其非ヲ悟リ、一家壮者二人アレハ一人ハ他ニ労役シ、一人ハ、留リテ開墾シ其得ル所ヲ以テ互ニ相救済シ、以テ業ニ就クニ至レリ。」
と記されている。
その後、樽川村では秩父事件で追われた秩父自由困民党幹部の井上伝蔵が、東京府平民伊藤房次郎という変名を用いて分部越に入地し、25年8月4日親船町北17番地に寄留して畑48,000坪の貸下を受け、26年1月より33年12月までの8カ年をかけて開墾している。
明治15年手稲町星置に山口県から14戸の団体が入地した。
明治18年山口県(周防国玖可郡中津村)より14戸(または12戸)の保護移民が高岡に入地した。この移民は20戸(または19戸)で生振村に入り同年6月1日、そこに6戸を残して高岡へ移ったものであり、通称6戸といわれる地区はこの残留した6戸による地所である。
また、高岡に転住した移民たちは当初シララトカリ川沿いの地味の肥沃な場所を選んで落ち着いたが、その年水害に見舞われ、19年に高台に移転した。
また、高岡にはこの後、明治28年5月山口県から37戸160人ほどが入地している。





 

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