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2017年2月11日 (土)

石川県から石狩町花畔村への開拓移住者(4)

石川県移住百年記念事業記念史より

 「石川県移住百年記念事業記念史」(平成6年10月31日発行)の『風雪に耐えて』より摘録しました。
 この石川県移住記念史発刊にあたって記念事業協賛会の南出重晴会長が巻頭言で開拓移住してこられた方に対してこのように述べています。
 「私は困難を乗り越えるために石川県人としての不屈の魂を燃やしたという祖父母たちの話を小さなころから聞かされて育ちました。
 どんなに厳しいご苦労を重ねられたことでしょうか。しかし、その甲斐あって入植後6年を経て区画の開墾を成し遂げた事により、北海道庁より開拓者の模範として、その刻苦精励の功労が官報に掲載され今日に残されている所であります。
 その後石川県各地より個人或は数家族で花畔、樽川地域に入植者が相次いだと聞いています」と述べています。
 また「百年の節目を迎え、偉大な先駆者の労苦を偲び、その遺徳を後世に伝えたい」との思いから記念誌を発刊する理由として述べています。
Photo                            (石川県移住百年記念誌)

北海道移住者送出主要府県(北海道開拓記念館の記録より)
順位  明治27~31年    明治38~42年    大正4~8年
 1位  石川県  8,695戸  富山県 9,126戸   青森県 11,079戸
 2位  富山県  7,351    新潟県  8,419    宮城県 11,056
 3位  新潟県  6,756    宮城県  7,705    秋田県 10,268
 4位  青森県  5,988    石川県  6,846    新潟県    9,223
 5位  福井県  5,629    青森県  6,692    岩手県    7,473
 6位  秋田県  4,804    秋田県  6,433    山形県   6,959
 7位  岩手県  3,229    岩手県  5,157    福島県   6,686
 8位  香川県  3,023    山形県  5,003     富山県   6,370
 9位  山形県  2,630    福島県  5,002    石川県   5,473
10位   徳島県  2,448    福井県  4,121    東京都   3,332
11位   宮城県  1,947    岐阜県  3,377    岐阜県   2,830
12位   愛知県  1,824    徳島県  3,103    福井県    2,752
  合 計     54,324戸   合 計  68,984戸 合 計   83,401戸
  全国計    72,994戸         94,758戸        113,602戸
 北陸三県計の比率 29.7% 21.2% 12.8%
 

加賀団体の入植と花畔村
 石狩町に石川県人が本格的に入植したのは明治27年に入植した「加賀団体」が最初であると考えられる。
 加賀団体について資料を基に当時の花畔の歴史も交え検証してみることにしました。まず、河野常吉による「北海道殖民地状況報文石狩国」から当時の花畔村石川県人による   石狩町開拓の先駆けとなった「加賀団体」について考察することにしました。

 北海道殖民地状況報文石狩国 花畔村
 「明治22年以降漸次農民の往来する者ありて、戸口稍や増加するに至れり。
同26年、原野区画を測設し翌27年貸付を許可するや、出願して移住する者多し、同年また石川県団体移住民等36戸、予定存置を出願し許可を得て先ず25戸移住す」とあります。
これが花畔村への初めての入植となりました。
 農業の項目では、「当村は」北西海に頻し東南は石狩川に臨み、狭長なる原野をなし、其の土壌は概ね砂土なるを以て地味良好ならず。
 東南の一隅は前田農場に属し其の他10万坪内外の土地を有する者数名あるのみにして、比較的土地配分宜しきを得る村なり」と土地が平坦で分割がしやすい土地であることがわかるのである。
 入植に関しては次のように書かれています。
 「明治4年に移住したる岩手県民と27年移住の石川県団体との外は総で単独小屋とす。故にその土地の貸付或は所有の地積は大抵15,000坪至35,000坪の間とす」
 次に団体移住の概要が書かれていましたので紹介しておきます。

 加賀団体の移住の計画
 「石川県団体移民、団体主唱坂下岩次郎、水上藤次郎、前田惣与門は石川県江沼郡の人にして、本道に移住の志を立て明治26年石狩国に於て諸々を探検跋渉し、遂に当原野を相して移住地と定め藤次郎以外36名の団体に対し地積52万7千坪の予定存置を出願し、3ヶ年継続移住の義を許可せられたり。
 初年25戸、2年目5戸、3年目7戸の移住とす。27年25戸移住す。此移民の郷里は山間の僻地に位し、総て小作農民にして絶えて資産ある者なく、何れ貧弱の生活を為せし者なれば各出発に際し、其家産を売却して得し所多き者いえども僅か110円を出ず。普通30~40円位なりしお以て大抵旅費として之を使消し、残る所幾何もなく一同甚だ困難せり」と書かれています。

 移住するに当たり旅費と当面の生活費を工面するのに殆どの開拓移住者の方は苦労したようで、小作農をしていた人の農地は地主のもので、住んでいる家と僅かばかりの家財道具を売りそれらに当てたようですが、移住後の生活するに充当するだけのお金はなかったようです。
 それらが工面できなかった移住者は生活の為にしたことが次章に書かれています。
小作農での生活
 「直ちに開墾に着手することあたわず、皆札幌付近の既墾地を借りて小作をなし、又其壮丁は多く農作の雇いをなし、傍ら貸付地に至りて開墾に着手せり。
事情斯の如く甚だ困難の境遇に陥るりしが、各自奮励、冬期は伐木に従事し薪材と為して之を漁場に販売し、翌年開墾の準備と為せり。」

 原野の開墾
 元来当原野は湿潤に過ぎ排水の後に非ざれば開墾の事業甚だ困難なるを以て、27年団体貸付地の中央を貫徹して6号道路の排水溝開鑿せられ、同時に9線、11線と排水溝を開き、なお28年茨戸銭函間の運河開鑿せられたれば、たちまち乾燥するに至れり。ここに於いて団体民は益々奮って開墾に力を尽くしたりしかば僅かに1ヶ年間にして大抵1町歩の土地を開き少なきも5~6反歩を下りし者なく大いに耕種に勉励せり。此年5戸来住す。
翌29年団体民7戸来住して全部移了せり、爾来団体民は互いに協力し、互いに競争して開墾に従事したりしが、明治31年に至り、全地を墾成したる者5戸、其の他も32年に至り付与を受け、残るは僅か3戸のみ、しかも此の3戸の農民も最早大抵墾祖の業成りたれば、遠からずして付与せらるるに至るべし。
 全地砂土にして耕作、除草共に容易なるが上、毎戸大抵馬を飼いて馬耕を為すを以て、5町歩の耕地にては充分に農業を営むに足らざるより何れも附近農家所有者より既墾或は未開墾地を5反歩以上1~2町歩を借りて耕作せり。
馬は団体中3戸の外悉く毎戸1頭宛を有し、土台付の木造家屋を構造せし者25戸の多きに及び其大きさの如きも協議の上之を一定して毎戸間口7間奥行き3.5間となし、草葺の納屋は各戸之を築造し、又板庫を造りたる者数戸に及べり。

 農作物の生産
 農作物の収穫は1反歩に付大小豆各1石2斗、裸麦1石、大麦(ゴールデン、メロン)1石5斗、小麦1石2斗、燕麦3石、なたね1石等にして廐肥は丁寧に保存蓄積して皆之を圃場に敷き込めり。其耕作に熱心なること他に多く其比類を見ざるなり。之を要するに当団体民の郷里たるや石川県中最も僻在せる山間にして、日常の食料の如きも只、栗、黍、稗を主食となせる程にて、其生活程度は意外に低かりしが如し、然るに本道に移住するや各自5町歩の貸付を許され、自己の勉力に依りて一定の期間内に之を開くときは、直ちに其所有を許さるることなれば、団体民は非常の忍耐と非常の勉強とを以て戮力協和開墾耕種努めたる結果、今や大抵付与を受け相当の資産を有するに至り、まお進んで他人既懇未墾地等1戸分乃至2戸分位の買入れをなし、専ら耕墾に従事せるものありて、其生活程度の如きも、之を郷里に在りし日に比するに、大いに進歩し目下皆付近農民の規範とせらるるに至れり。明治32年移住記念碑を建立す。
 けだし多数の団体移民中其成績顕著なるものの一つなり。

 単独小屋
 単独小屋は全村に散在し大抵1戸分乃至2戸分の土地を得て熱心に開墾耕種に尽力せり。其耕作せる所は大麦、大小豆、裸麦、燕麦等にして、大麦は札幌麦酒株式会社と特約して作付をなせる者あり、品質も善良1石大抵6円以上に販売せらる。
又林檎園を設け、杞柳(枸杞のこと)の試植を試み、養蚕の飼育等を為すものあり、林檎の栽培は旧移民(南部団体など)は1反、2反歩より5~6反歩のものありて相応の収穫をなせり。大抵之を石狩市街に販売す。作付反別の多きは、作付反別の多きものは、7~8町歩に至る。
 普通既墾地の小作は1反歩50銭より1円となす。又小作開墾をなさししむるものは鍬下2ヶ年を与え1反歩の開墾料、樹林地は2円50銭、草生地は1円50銭となす。
一般に砂土なるを以て、何種の農作物も其の品質乾燥共にすこぶる上等なりという。

 漁業
 明治33年石狩川に於ける鮭曳網就業23ケ統、収穫802石、価格17,716円鱒曳網収穫21石価格450円、瀕海一帯の漁場なし。
川曳網の打廻しは150間乃至は200間とす。
 漁場の所有者11人にして皆他町村人とす。就中石狩市街の人最も多し、又其漁場の半数は自営に属するれども其他は多く歩分け法行はる。歩分法は漁場主漁業権を貸し、漁具と漁船とは漁場主之を出し、食料其他は借方の支弁となし。収穫の内6分を貸主4分は 営業者の有となす。営業者は漁夫相共同して之を行うが故に、損得は直接各自の頭上に影響するを以て皆よく労働に服す。漁獲多き時は、1漁期にて1人の純所得15、6円乃至20円に至るという。

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