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2017年2月18日 (土)

石川県から石狩町花畔村への開拓移住者(5)

木材・薪炭
明治30年頃迄は殖民地貸付地より立木を伐採して盛んに薪材を出し、1ヶ年2万敷は之を石狩市街に供給せしが、近年樹木漸次欠乏し来り、目下村内に売買相場は1敷1円20銭。
(1敷とは薪2尺5寸の長さのものを高さ5尺、幅6尺に積んだ量をいう)

地価
既墾地の売買は地勢とに依りて、一定せざれども、1等地1反歩の時価はおよそ7円にして下等地同3円50銭とす。

風俗
人情、単独小農民多きが故に永住の決心堅く、受付の念比較的熾んにして、柾屋を建て果樹を植栽する者少なからず、殊に当村は海辺に位し汐風常に吹き荒み、農作物を害するの恐れ多きを以て村民は風防林の必要を感ずること甚だ痛切にして、明治26年村民一統協議の上規約を設けて互いに之を励行遵守することとなせり。次に其規約の要を摘記して参考に資せんとす。
村 民 契 約 證
第1条 本村は海浜に接近し海風常に荒きを以て農作物に及ぼす害甚だし、故に禁伐木の設けあり。禁伐木は村民相互に之を監守すへし。若し盗伐等の違反者を見受けたるときは速やかに其筋へ届出るべし。
但し違反者を看過ごするときは同犯者と見做すこと。
第2条 村内に住居する者は其当時最寄の村総代に届出て記名調印をなすべきこと。
第3条 村民の一致協和は一村の発展上最も必要欠くべからざることなれば村中厚誼を厚くみ、相互に親密に交際し不道徳の行為あるべからざること。
第4条 小学学舎の児童あらば其期を愆(あやま)らず就学せしむること。
第5条 非常の災害疾病等に遭遇せるものあるときは近接の者は勿論、村民相互に救助すべきこと。
葬送の節は組合を定め組合外は、親族知己の者にあらざれば関係なきものとす。
第6条 村内道路修繕等之ある時は洩れなく出役すべきこと。
但し小児女子等は止むを得ざる事故あるにあらざれば出さざるものとす。
第7条 村総代は村内一切の事務を管理し及び共有財産を整理する者とする。
但し総代は本村に5ヶ年以上居住したる者に非らざれば選挙せざること。
以上の規約を設けて各自を遵守することとなし、若し違反するものあるときは其制裁として村民一統違反者に対して絶対的に交際為さざることを規定せり。次いで32年に至り、益々風防林保護の必要を感じ、其8月村民又協議して風防林監守を置き風防林の監督を為さしむることとせり。(後略)

創田の碑
 この報告文では、加賀団体が石川県江沼郡の坂下、水上、前田の3名によって主唱され、明治26年調査し花畔原野を選定し、52万7千坪の土地を予定存置し明治27年から3年に分けて入植したとある。
明治27年には25戸、翌28年5戸、翌々年の29年には7戸移住し、32年の時点で大半が開墾に成功している。この年には開拓移住記念碑を建立した。
この碑は元花畔北10線6号角の田口 貞さんの土地にあったが石狩湾新港開拓後背地の用地となったため昭和47年に農民住宅団地内公園に創田之碑と共に建っていが、現在では花畔神社境内に移設されています。

Photo                                (開拓記念碑)
Photo_2                            (開拓記念碑 碑文) 
Photo_3                     (開拓記念碑 碑文の追記)

碑文
 明治二十七年四月六
日 石川県江沼郡大土
村住民 前田惣与門 
水上藤次郎 坂下岩次
郎 発起ニテ二十七戸
團体組織シ此ノ地ニ移
住セル者也

明治三十二年九月八日建立
昭和四十二年七月五日
此ノ地ニ移ス
石狩町長 鈴木与三郎 書


この碑にある石川県江沼郡大土村とは現在の江沼郡山中町字大土町のことである。碑文では「大土村」と記されているがこの村名は江戸時代から明治22年まであったが、明治22年以降~昭和30年までは江沼郡東谷奥村大字大土であった。この市町村の変遷については別項で詳しく述べることにします。
殖民広報より
この広報は明治34年(1901年)3月から大正10年(1921年)12月迄の北海道庁が編集し、北海道協会が発行した北海道開拓に関する雑誌で法令、産業、交通など開拓事業に関する情報が網羅されたもので、拓殖事業の広報、指導書として重要な役割を果たした雑誌である。

「殖民広報」第15号 (明治36年7月)
石狩国花畔原野石川県民団体

郷里に於ける状態
此の団体は石川県加賀国江沼郡東谷奥村の民を主とし之に能美郡大杉村新丸村等の民を合わせ37戸を以て組織せるものとす。
東谷奥村は大聖寺町を距ること南東凡そ5里の山間にあり、山高く谷深くして殆ど平地なく男子は多く炭焼きに従事し又其炭を大聖寺町及山代温泉場に販売し、女子は耕作養蚕に従事す、作物は栗、稗、大豆にして之を自家の食料に供し尚、食料の足らざる所は炭を売って得たる所を以て米を購いて之を補い米3分雑穀7分の割合を以て常食となせり風俗素朴にして改進の気象に乏し大杉村新丸村に至りては其僻陬なること東谷奥村よりも甚だし、要するに此の団体民の郷里は誠に山間の僻地にして其人民は十分の職業を得ること能わず。概ね究乏にして粗衣粗食以て生活をなしたるものなり。而して移住せる団体民の多くは其中に就いて亦最も窮乏せるものとなす。

移住の顛末
東谷奥村の坂下岩次郎なるもの明治23年故ありて郷里を出て遂に北海道に渡り、石狩国札幌郡札幌村に寓し地を借り小作をなすこと2、3年にして北海道のはるかに郷里に勝るを知り、手紙を以て屡々其実況を郷里に報告せり、因て同村水上藤次郎なるもの明治26年6月渡道し岩次郎と相談して札幌付近より上川地方まで踏査して8月札幌村に帰り北海道移住の利なる事並びに総代を遣わし実地視察すべきことを郷里に報せり。
是に於いて前田惣与門は、其年10月郷里を発して渡航し藤次郎等と共に札幌付近の生振、花畔、軽川等の原野を視察し相談して曰く、上川地方は将来最も望みありるも薄資なる我等には事実甚だ困難なり、寧ろ地味稍や劣るも便利なる花畔原野」を撰ぶに若すと乃ち道庁に出頭して該原野貸付の手続き、団結移住等を聞糾し惣与門は国に帰り視察する所を報告し且つ曰く北海道に移住せば、当初は困難なるべきも数年の後は郷里に優る生計を営み得へきに付我は家族を伴い断然移住する決心なり強いて勧誘するにあらざれども志ある人々は賛同せらるべしと是に於いて直ちに賛成の意を表すものもあり、熟考の後賛成するものあり又聞伝えて加入を申込む者あり終に37戸の団体を組織するに至れり。
此年12月団体規約書を作り貸付の予定存置を出願し団体者を分けて3回に移住することとなす。
而して初年の移住者27戸は明治27年2月より3月にかけて各自に家屋家具等を売買し3月25日郷里を発し30日塩谷港より汽船に乗船し4月5日小樽港に到着せり、当時花畔原野貸付地未だ確定せず且つ団体民は甚だ薄資にして其携帯する所1戸4に付多きも100円を超えず。
普通10円乃至40円にして中には郷里出発前身代限りの処分(国語辞典によると:江戸時代、借金を返済できなくなった債務者に対し、官が全財産を没収して債権者に与え、借金の弁償に充てさせたこと。破産者のこと)を受けた者もありて、小樽に上陸するや嚢中に1銭を余さざる者数名あり因て小樽より汽車にて札幌に赴き坂下岩次郎等の寓居せる札幌村に至りて差向き此処にに仮居し村民に依頼して日雇い稼ぎをなし傍ら少し許の畑を借りて耕作をなせり。幸い此団体民は誠実に労働せるを以て評判甚だ宜しく男は1日30銭、女は1日25銭にて村民喜びて之を雇たるにより糊口に究するものなかりき、而して団体総代は花畔原野に召喚せられ実地立会いの上区画地52万7千9百坪の引渡しを受け5月2日貸付予定存置の指令を得たるも其地卑湿にして居住する能ざるを以て此年僅かに小屋掛けをなし開墾に着手せるのみ其生計は全く札幌村に於いて労働して之を営みたり。
冬期雪積るに及び壮丁に従事し明治28年春は復た札幌村に戻りて労働し傍ら花畔に至り稍や高き処を撰びて開墾をなせしに5月ころより茨戸銭函間の運河排水溝開鑿の工事ありしに付、壮丁は之に従事し1日40銭づつの賃銭を得たり。
而して此運河は団体民貸下地の傍らを通過するのを以て其竣工するや貸下地内に停滞する水は減退して開墾耕作をなすを得るに至れり。依りて冬期までに団体民は家族を挙げて札幌村より花畔に移り爾後此地に於いて開墾耕作に従事せり。
此年新たに郷里より移住するもの4戸明治29年又新たに移住するもの6戸、先の移住者を合わせて37戸となりて予定の移住を完了せり。

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