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2017年3月11日 (土)

石川県から石狩町花畔村への開拓移住者(8)

加賀団体の故郷(江沼郡東谷奥村)
花畔と樽川地区には石川県各地から入植している入植者名簿がありましたが、今回は加賀地区の江沼郡東奥谷村と能美郡新丸村について簡単に書いてみました。
詳細については現地を調査して別項目で書き綴っていきたいと思っています。

江沼郡大土村の変遷
明治22年(1889年)4月1日 町村制施行により、荒谷(あらたに)村、市谷(いちのたに)村、今立(いまだち)村、大土(おおづち)村、上新保(かみにんぼ)村、西住(さいじゅう)村、四十九院(じじゅくいん)村、杉水(すぎのみず)村、菅生谷(すごうだに)村、滝(たき)村、中津原(なかつはら)村の11か村が合併し、江沼郡東谷奥村が成立しました。
昭和30年(1955年)4月1日山中町、東谷奥村、河南村、西谷村の1町3村が合併し、山中町が成立した。

平成17年年(2005)10月1日平成の大合併で加賀市、江沼郡山中町が合併し加賀市山中町となる。

現在は加賀市山中温泉大土町で、以前の東谷奥村は動橋川(いぶりばし川)の谷を江沼郡の中では「東の谷」として、その奥(上流部)に位置するという意味の村名である。
なお、東谷奥村の北隣、動橋川の谷の入口に当たる方には東谷口村があり、加賀市の東に聳える山々の最奥部に位置する市谷、西住、杉水、上新保は明治以降、戦後すぐまでは東谷奥村といったが、今は過疎化が進み、殆ど人が住んでいない限界集落となっています。

上新保村は明治29年の大洪水の被害を受け、全村が北海道に移住して行き、無住の村となった。
上新保村の住人は福井県の平泉寺の近くに住んでいたようで、一向一揆で平泉寺が焼打ちに遭ったので難を逃れるため、現在の石川県小松市新保町の奥に移り住みました。しかし元住民との軋轢から、江沼郡の上新保村に移り住むことになったといわれていました。
現在の上新保村があった場所には「石川県 県民の森」となり県民の憩いの場となっています。

この県民の森には、明治29年にこの土地で暮らした人々が北海道へ移住することになった時に、落民が祖先の苦労を偲び当地を去る思い出をこの石に刻んで去ったと伝えられている屏風岩があります。
西住も昭和29年には全住民が転出し無住地となりました。
杉水、市谷にはいまも何名か住人が残っているようですが、いわゆる限界集落で、村として機能しなくなっているようです

Goomap                                                                       (GooMap)

交通手段
当時は村々から加賀平野に出るためには、北に聳える400~600m級の山々を越えて加賀平野に出るしかなかった。いわゆる整備されていない峠道で、唯一の生活道として重要な役割を担っていたのである。
現在は山中温泉の方から県道153号線が出来ており、県民の森へのアクセス道路となっています。

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