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2017年3月

2017年3月25日 (土)

石川県から石狩町花畔村への開拓移住者(10)

入植時の石川県の出身地名
石狩地区への入植時の出身地は石川県下の16町村に渡っていました。
その当時の出身地と現在の市町名を揚げておきますので参考して頂けたらと思います。
出身当時の町名          現在の市町名
江沼郡東谷奥村荒谷      加賀市山中温泉荒谷町
江沼郡東谷奥村今立、西袋  加賀市山中温泉今立町
江沼郡東谷奥村大土      加賀市山中温泉大土町
江沼郡東谷奥村新保      加賀市山中温泉上新保町
 ※記念誌では東谷奥村新保となっていますが、上新保と思われます。
江沼郡上河原崎村       加賀市河原町
 ※記念誌では上河原崎となっていますが、河原と思われます。
江沼郡庄村            加賀市庄町
能美郡串村             小松市串町
能美郡新丸村新保         小松市新保町
能美郡長野村字牛島       能美市牛島町
石川郡白峰村字白峰       白山市白峰
河北郡倶利伽羅村竹橋     河北郡津幡町竹橋
羽咋郡東増穂村里本江     羽咋郡志賀町里本江
羽咋郡椑造村             羽咋郡志賀町今田
羽咋郡子浦               羽咋郡宝達志水町子浦
鹿島郡滝尾村             中能登町小竹
鳳至郡南志見町字西山志   輪島市西山町

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新天地を求め上川郡江丹別への再移住
 花畔での開拓を完成させ予定存置を確定させた加賀団体であったが、花畔開拓が完了してから石狩国上川郡のエタンベツ原野の未開地90万8688坪の貸付を受け、この地に小作人を入れて開墾したと記録されています。

 道立文書館の資料では江丹別の開墾は明治34年とある。江丹別原野開墾、そして江丹別への再移住を決意した動機には明治30年の「北海道土地払下規則によって開墾成功後土地払下げが従来は千坪1円であったが無償となった事や花畔の土地の開墾成功によって土地を担保に入れることが可能となり、土地請願の資金調達がしやすい条件が整ったことによるものと推定されます。

石川県人の気質
 記念史の中で明治44年の北海道庁調査の「北海道と各道府県の関係」には石川県移住者の気質について「一般質素にして着実勤倹、よく業務に励むといえども、やや偏執(頑固)の評あるを免れず、いずれも仏教の信仰厚し。然れども酒を飲み賭博をなすもの少なからず、商業中にはすこぶる有為の人物あり」とやや辛口の評価がなされていると書かれています。
 花畔の開墾やその後の江丹別原野への再挑戦という、他の開拓者にはまねのできない行為には同郷の者として改めて敬意を表するものです。

 このようにして開拓された花畔村でしたが、明治35年には樽川村と花畔村が合併することになり、お互いから1字 ずつとって花川村となった経緯がありました。
 明治40年に石狩郡石狩町と石狩郡花川村が合併し、石狩郡石狩町となりました。
平成8年には市制をひき、石狩市となっています。石狩市役所も近くにあり、札幌市のベットタウンとして発展している町です。
平成24年(2012年)8月27日輪島市と友好都市提携を行っています。
 

2017年3月18日 (土)

石川県から石狩町花畔村への開拓移住者(9)

加賀団体の故郷(能美郡新丸村)について
・地理
新丸村は能美郡の最南端に位置している。東方は石川郡の白峰村、尾口村、鳥越村に、南方は福井県大野郡の北谷村、野向村、荒土村(現在勝山市)に接している。
西方は江沼郡の東谷奥村(現在山中町)、西谷村(現在山中町)、能美郡大杉谷村(現在小松市)に、北方は能美郡の西尾村(現在小松市)及び石川郡の鳥越村に接している。
新丸村(しんまるむら)は、石川県能美郡に存在した村である。

 東西の最長距離は4.3㎞、南北の最長距離は16.6㎞でその面積は83.75㎢である。
  明治22年(1889年)の市制町村制施行により新保村、瀬納谷村、丸山村、小原村、杖村が合併し新丸村となった。合併した村のうち、新保・丸山の両村の名前より新丸とした。
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自然災害
 この村も山に囲まれた場所で河川の氾濫や山崩れ等で様々な災害に見舞われた歴史があります。その中でも村民が北海道へ移住することになった大災害がありました。
明治29年8月1日の大豪雨のため、河川が氾濫し、県下全体に大きな被害をもたらしたのですが、村内を流れる大日川も大増水し滝の尻川沿いに土砂崩れがおこり、村内に大きな被害が出ました。

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  特に丸山、新保では被害が甚だしかったが、その惨状の悲惨さに中には復興を断念し、新天地に希望を託して北海道に渡る者41戸、231名に達している。
 新丸村の資料では明治23年に新保地区から春木氏ほか5家族が北海道石狩国石狩郡花畔村(ばんなぐろむら) へ開拓移住が始まったと記載されていましたが、花畔開拓資料では明治27年となっていました。

生活様式
 新丸村の村民はどのような生活をしていたかが記録されていましたので、生活様式が記載されたものを転記します。
 昭和初期までの生活状態の一端を述べると、夜の寝具では村内を通じ敷布、布団を敷いて寝るような家は一部落で2、3軒位です。
大抵は藁を敷き夜具の一枚も着て寝るという家は上の部であり、多くはその時その時の着のみ着のままで眠り、その尽ですぐに労役に服したものであります。
また調味料の如きものは村内の余程の裕福な家でなければ味噌を用いなく多くは塩のみでありましたと記載されていました。
 新丸村からの移住者は多く、石川県内、福井県、その他で特に多かったのが北海道への移住者です。
 北海道も各所に開拓移住していますので、別項目で「新丸村」からの開拓移住者を取り上げていきたいと思っています。

 

2017年3月11日 (土)

石川県から石狩町花畔村への開拓移住者(8)

加賀団体の故郷(江沼郡東谷奥村)
花畔と樽川地区には石川県各地から入植している入植者名簿がありましたが、今回は加賀地区の江沼郡東奥谷村と能美郡新丸村について簡単に書いてみました。
詳細については現地を調査して別項目で書き綴っていきたいと思っています。

江沼郡大土村の変遷
明治22年(1889年)4月1日 町村制施行により、荒谷(あらたに)村、市谷(いちのたに)村、今立(いまだち)村、大土(おおづち)村、上新保(かみにんぼ)村、西住(さいじゅう)村、四十九院(じじゅくいん)村、杉水(すぎのみず)村、菅生谷(すごうだに)村、滝(たき)村、中津原(なかつはら)村の11か村が合併し、江沼郡東谷奥村が成立しました。
昭和30年(1955年)4月1日山中町、東谷奥村、河南村、西谷村の1町3村が合併し、山中町が成立した。

平成17年年(2005)10月1日平成の大合併で加賀市、江沼郡山中町が合併し加賀市山中町となる。

現在は加賀市山中温泉大土町で、以前の東谷奥村は動橋川(いぶりばし川)の谷を江沼郡の中では「東の谷」として、その奥(上流部)に位置するという意味の村名である。
なお、東谷奥村の北隣、動橋川の谷の入口に当たる方には東谷口村があり、加賀市の東に聳える山々の最奥部に位置する市谷、西住、杉水、上新保は明治以降、戦後すぐまでは東谷奥村といったが、今は過疎化が進み、殆ど人が住んでいない限界集落となっています。

上新保村は明治29年の大洪水の被害を受け、全村が北海道に移住して行き、無住の村となった。
上新保村の住人は福井県の平泉寺の近くに住んでいたようで、一向一揆で平泉寺が焼打ちに遭ったので難を逃れるため、現在の石川県小松市新保町の奥に移り住みました。しかし元住民との軋轢から、江沼郡の上新保村に移り住むことになったといわれていました。
現在の上新保村があった場所には「石川県 県民の森」となり県民の憩いの場となっています。

この県民の森には、明治29年にこの土地で暮らした人々が北海道へ移住することになった時に、落民が祖先の苦労を偲び当地を去る思い出をこの石に刻んで去ったと伝えられている屏風岩があります。
西住も昭和29年には全住民が転出し無住地となりました。
杉水、市谷にはいまも何名か住人が残っているようですが、いわゆる限界集落で、村として機能しなくなっているようです

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交通手段
当時は村々から加賀平野に出るためには、北に聳える400~600m級の山々を越えて加賀平野に出るしかなかった。いわゆる整備されていない峠道で、唯一の生活道として重要な役割を担っていたのである。
現在は山中温泉の方から県道153号線が出来ており、県民の森へのアクセス道路となっています。

2017年3月 4日 (土)

石川県から石狩町花畔村への開拓移住者(7)

加賀団体の出身地と構成員
先の資料は「情報報文」であったがほぼ同じ内容であるがさらに詳しく書かれた資料もありますので掲載しておきます。
この記録では「江沼郡東谷奥村」の住民の外に、「能美郡大杉村、新丸村」等の住民も加賀団体として開拓移民していることが書かれています。
 能美郡の大杉村は明治40年 瀬谷村と大杉村が合併して大杉谷村が発足したが昭和31年に小松市に編入となり大杉町となり、現在は小松市大杉町となっている。大杉村は小松市内から約20km南へ行った四方を山に囲まれた山村です。
能美郡新丸村は明治22年 町村制施行により、小原村、丸山村、須納谷(すのだに)村、新保村、杖(つえ)村の5村が合併し新丸村が発足したが、昭和31年に小松市に編入となり大字須納谷は花立町、大字杖は津江町と改称し小原町、新保町、丸山町となり、新丸村は現在、小松市丸山町となっている。
 これらの村は江沼郡大土村から北東~東に隣接し大日川の上流部にあり、東谷奥村よりさらに辺鄙な場所である。
 この地区の住民の生業については平地が少ないため多くは炭焼に従事し、それを大聖寺町や山代温泉に販売していた。
 女子は耕作養蚕に従事し、粟、稗など雑穀に米を3分ほど混ぜて食べていたと書かれている。

 移住した村人の資産についてであるが甚だ薄資で1戸に付100円もあれば良い方で、10円~40円が普通であったと書かれています。
 小樽に上陸したときは無一文に近いものが数名あったと記載されていたがこれらの人々が団体移住者として開拓事業が出来たかを考察してみました。
開拓移住するには最低でも100円以上の資金が必要で、これは移住して1年間は耕作して収穫がないために生活するために必要な資金と考えられています。
坂下岩次郎氏が団体の移住前に札幌村近郊で生活して、近隣住民との付合いもあり、団体民が移住後に小作農として日雇いで日銭稼ぎが出来る口利きが出来たせいではないかと考えられます。

このため薄資の移住者も小作農で糊口を賄うことが出来のではないでしょうか。
花畔原野は石狩当別や屯田兵の琴似兵村にも近くこれらの地区はこの時期には開墾も終わり農地として確立し農作業でも人出が不足していたと考えられます。
他所の開拓移住を調べていると、開墾場所が都市から離れている個所での開拓移住者は入植して伐木、焼畑し播種、そして幾何かの収穫の繰り返しで持金が底を付きというケースが多いのですが、この花畔の開拓移住者に関しては周りが開拓後の発展で小作農としての出稼ぎや、伐木を利用しての薪も比較的近場で販売出来、そこそこの現金収入になったのでしょう。

入植者を年代ごとに記録してみると入植者全てが残っているわけではなく、志半ばで離村して行った家族もあった事も分かりますが、年々入植者が増えていることも分かります。
これらのことから花畔への加賀団体の開拓移住による貸付存置が予定通り完成したのではないかと推察しました。
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この表より、明治28年の入植は25戸となっていましたが、開拓区分では27戸となっています。春木さんと久保さんの家族が別々に開墾したものと推量されると記念誌では書かれていますが、その理由については記念誌では詳しく書かれていません。

明治29年では4戸が新しく入植しまし、翌30年には6戸が新規に入植したのですが内3戸は移住時に堀、南出、宮下方に寄留しているようです。この年には1戸の方が離村しているようです。

下表は明治33年1月の貸付存置の開墾により自己所有となった土地の坪数です。この表により36戸の入植者が8千坪~1万5千坪近くの開墾を成し遂げたことが確認できます。
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開拓当時の行方不明事件
 「金子文書の中で当時の開拓地で起こった子供の行方不明事件について紹介されています。
明治29年6月5日午前10時頃より2線近くの住民の子供、8歳と5歳の男子、2歳の女子が外出し行方不明となった。近隣の住民が探したが見つからなかったが、翌日の昼頃11線の家に来たのを無事保護したというものであった。
この捜索には40名ほどが参加したそうで、6月の始めといえども夜は寒い時期で、林の中に迷い込んだのかも知れない。
開拓地では時にはこんな事件も起こったと記録されていました。

石川県内からの開拓移住者
入植者を記念誌の「我家の歴史」から紹介されている方を記載しました。
加賀団体での入植者
入植者名   入植年      出身地       
田  音二郎  明治37年10月 江沼郡東谷奥村字大土 
田中 石太郎  明治28年12月 江沼郡東谷奥村字大土 
堀   仁平    明治27年5月  江沼郡東谷奥村字大土 
南出 亥之吉  明治27年6月  江沼郡東谷奥村字大土 
山岸 竹次郎  明治27年6月  江沼郡東谷奥村字荒谷 
中村 藤次郎  明治27年6月  江沼郡東谷奥村字大土 
西谷 金七    明治27年6月  江沼郡東谷奥村字大土 
東出 伊平    明治28年頃   江沼郡東谷奥村字大土 
春木 スエ     明治27年6月  能美郡新丸村字新保  
春木 紋吉     明治27年頃   能美郡新丸村字新保  
久保 勘興門   明治27年4月  能美郡字新丸村新保  
織田 三蔵     明治27年6月  石川郡白峰村字白峰  

個人での入植者
小西 与三吉   明治29年4月  江沼郡東谷奥村字荒谷 
杉中 喜三郎   明治29年9月  江沼郡上川崎村    
田   兵作     大正7年10月  江沼郡東谷奥村字大土 
大屋 己之太郎 明治35年4月 江沼郡東谷奥村字大土 
下屋 久次郎   明治35年頃   江沼郡東谷奥村字大土 
千歩 亀松     明治32年12月 能美郡今江村     

入植経緯不明(他所からの転入者を含む)
阿知良 源三郎 明治30年頃    江沼郡東谷奥村字新保 
下野 善吉      明治34年頃     江沼郡東谷奥村字大土 
茎津 重蔵      明治28年7月  江沼郡東谷奥村字大土 
澤谷 小間吉    明治25年5月  江沼郡庄村      
二枚田 清四郎  明治27年頃    江沼郡東谷奥村字大土 
志田 吉松      明治35年10月  江沼郡東谷奥村字大土 
東  安次郎     明治35年8月  江沼郡東谷奥村字大土 
織田 久四郎     明治33年12月  石川郡白峰村字白峰  
織田 ハツ      明治30年頃    石川郡白峰村字白峰  
藪  與惣       明治30年頃   石川郡白峰村字白峰  
岡田 定松      明治35年6月   能美郡長野村字牛島  倶知安より転入
春木 いよ       明治28年8月   能美郡新丸村字新保  
宮野 長七         不明       能美郡串村      
山本 みつ       明治38年        能美郡中の峠     

能登地区からの開拓移住者(個人・他所からの転入者を含む)
池端 岩松       明治41年3月  羽咋郡富来町字里本江  
越野 リト         明治31年2月  河北郡倶利伽羅村竹橋  
原  定次郎      明治35年2月  河北郡倶利伽羅村竹橋  
一坪 勇之助     明治29年11月  鳳至郡南志見村字西山土  岩内郡 前田村字老古美へ                         転出
福田 松次郎     明治30年頃   羽咋郡碑造村大字大西  
村田 安太郎         不明      鹿島郡滝尾村      

能美郡新丸村字新保地区から花畔村への開拓移住者は「新丸村の歴史」書の中では以下のようになって記載されていました。
移住者    人数   転出年月日
春木 利作    5人   明治27年6月20日
久保 仁太郎  5人     明治27年6月20日
春木 九兵衛   6人     明治27年6月20日
久保 権兵衛   8人     明治27年6月20日
春木 紋三郎   3人     明治27年6月20日
春木 美之助   3人     明治28年8月5日
久保 吉三郎   6人     明治29年4月27日
道下 さく        1人     明治30年10月6日
道下 孫助      8人     明治43年4月30日

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