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2017年7月15日 (土)

加賀団体による十勝地方への開拓移住者(3)

開拓の歴史
中札内地域の和人の手による開拓は、明治38年以降であり、十勝管内では比較的遅い部類に属する。このことは、薩摩時代から北海道(蝦夷地)に対する施策は、この地域の産物をいかにして本州に移出するか、特に海産物に重点がおかれていたことと、北方(ロシヤ)の脅威に備えての沿岸防備に対応するためであったこと、こうしたことに加えて松前藩の「場所請負制度」は自然沿岸地域一帯の和人の定住、周辺の開拓に結びつき、その地点を拠点として内陸部の良好な原野を求めて和人の進出、入植は進んでいった。その場所として、良好な舟便の可能な湾岸、大河の畔りということになる。
これから遠隔の地であった札内川の川沿い、中でも、日高山麓に近いサツナイ原野一帯は、アイヌの人々にとっては豊かな狩猟の場であっても、和人の入植を容易に受け入れる環境にはなかったと言えるし、また道南の各地に比較して和人の進出要素が遅く、トノサマバッタの被害が生ずるまでは、十勝内陸部の農牧地の適応性が理解されておらず、十勝内陸部入植者がみられなかった、ということもあり、サツナイ原野の入植は、明治30年代に始まっているが、それも漸く市街地形成を成していた帯広周辺であり、サツナイ上流地域にまで及んでいなかった。
明治38年、帯広、落合間の鉄道開通を機会に、道内各地の既入植者からの移住、新しい土地を求めての入植者の増で中札内地域一帯の開拓が始まった、と言える。
従って、この地域では、他の地域で多くみられる様な「団体移住」は極く限られており、また大地主(不在地主)による農場開拓の歴史もみるべきものはない。

各地からの入植者
十勝の和人入植の歴史分類からみると第二次入植者とみるべきかも知れない。
村内には他の地域と異って多くの府県からの入植者があるが、このことが、これからのことを示している。島根、広島、徳島、静岡、福島、青森、岐阜、福井、石川、富山等多くの府県出身者を祖先として持つ村民が多いことは、他にみられない特徴でないだろうか。こうしたことから、本州からの移住者時を詳細に語り継がれる記録も少ない。
村内に入植した人々の中に、石川県からの祖先を持つ人の多くは、現大正町に団体入植した加賀団体であり、福井県のそれは現昭和町入植の越前団体であり、いま、この両団体の移住経過と、一入植者の苦難の歩みを掲載し、その程度の差はあれ、我々の父祖のこうした苦難の足跡に、現在の豊かな故郷が生れたということを理解すべきであると書かれています。

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