加賀団体による十勝地方への開拓移住者(5)
常盤地区
常盤史(昭和59年7月20日発行)によると常盤への最初の入植者は明治38年内海又吉、田丸近1、勘原新助、勘原良三郎の4人であった。
翌明治39年、豊岡伍作、菅原増太郎、建部仁三郎が入植した。その後、縁故者や小作人が相次いで入植し明治42年には戸数26戸となったと書かれています。
常盤開拓100年記念誌「常盤史」(平成16年12月23日)より石川県より入植された方が掲載されていましたのでこの資料より開拓の歴史を見ていきます。
常盤区の位置
常盤区、北は40号から南は47号、東に基線から西へ札内川右岸までの地域で、南北におよそ3,870m東西1,465mで細長い行政区であって中札内市街と隣接し極めて利便性にも恵まれた区である。
区の名称
開拓当初の名称は定かではないが、地主の名を冠した農場名や単に幸震村上札内と字名を呼称していたようである。
大正4年4月1日に幸震村、売買村、上帯広村の三村の地域を以て大正村が誕生したことに伴い「部落」が定められ当区は第37部となった。
その後大正13年2月に川西村(現川西、清川町)が分村したことにより部落名も改正されて第23部となったが、大正15年にその番号制を廃して地区名とすることになり、「常盤」と称するようになった。
「常盤」とは木の葉がいつも緑である、または永久に変わらない状態を意味したもので、この名称は当時当地区選出の大正村議会議長の内山忠次郎氏によって選定されたものと言われる。
沿革
明治2年8月に蝦夷が北海道と改称されて11国86郡となり、そのうち十勝は7郡51村と記されているが、当時は人家のある場所を単位として村と呼んだのでその数は鮮明ではない。
明治9年に区制が布設され十勝は第23区第6小区となったが、明治12年には区制を廃して郡町村制が布かれ町村は先に調査された51村を基礎とし、河西郡は12村となった。しかしその先の調査の時に住んでいた人が移転したことにより既に人気のない村もあったという。
常盤区は幸震村に属しており村の人口は明治14年調べで5戸15人であったとされているが、当部落に人家があったかどうかは定かではない。この地帯の地勢は札内川に沿ってピヨータン沢付近から穏やかな傾斜で下り十勝平野に広がる扇状形の平野地に属し、地域一帯は800年前に樽前山の爆発によって降った火山灰の地域と言われているが、当部落は札内川及びそれに連なる樹林に接しているため地味は回復して火山灰のそれとはやや異なり比較的に肥沃である。
しかし、その反面水による被害は甚大で、増水の都度、氾濫して川岸に接する多くの土地を流失し、または冠水して表土を流し去るなど、その災いは常に繰り返され、そのため農地を失ってこの地を去った人や心ならずも住居を変えなければならなかった人も多く、これがこの地域の開拓を大きく阻害したことは否めない。
このような特異性のある川であるため魚介類も目立ったものはなく、「ウグイ、カジカ、ドジョウ」程度の小魚が見られるだけで住民の食生活を潤すには至らなかった。また川幅が広がり原生樹林も多かったので山ブドウやコクワも相当に多かったが、これも水害で再三流されて秋の実りを見るのは僅かで遊ぶ子供達の慰め程度の量にすぎなかった。
特に原住民はおよそ川を中心にして、そこに居住したいといわれ他の地方では逸話や遺跡などが残されているのを聞くが、当地区はこのような川の状況もあってか、その足跡をうかがい知ることができない。
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