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2017年7月

2017年7月29日 (土)

加賀団体による十勝地方への開拓移住者(5)

常盤地区
常盤史(昭和59年7月20日発行)によると常盤への最初の入植者は明治38年内海又吉、田丸近1、勘原新助、勘原良三郎の4人であった。
翌明治39年、豊岡伍作、菅原増太郎、建部仁三郎が入植した。その後、縁故者や小作人が相次いで入植し明治42年には戸数26戸となったと書かれています。
常盤開拓100年記念誌「常盤史」(平成16年12月23日)より石川県より入植された方が掲載されていましたのでこの資料より開拓の歴史を見ていきます。

常盤区の位置
常盤区、北は40号から南は47号、東に基線から西へ札内川右岸までの地域で、南北におよそ3,870m東西1,465mで細長い行政区であって中札内市街と隣接し極めて利便性にも恵まれた区である。

区の名称
開拓当初の名称は定かではないが、地主の名を冠した農場名や単に幸震村上札内と字名を呼称していたようである。
大正4年4月1日に幸震村、売買村、上帯広村の三村の地域を以て大正村が誕生したことに伴い「部落」が定められ当区は第37部となった。
 その後大正13年2月に川西村(現川西、清川町)が分村したことにより部落名も改正されて第23部となったが、大正15年にその番号制を廃して地区名とすることになり、「常盤」と称するようになった。
 「常盤」とは木の葉がいつも緑である、または永久に変わらない状態を意味したもので、この名称は当時当地区選出の大正村議会議長の内山忠次郎氏によって選定されたものと言われる。

沿革
 明治2年8月に蝦夷が北海道と改称されて11国86郡となり、そのうち十勝は7郡51村と記されているが、当時は人家のある場所を単位として村と呼んだのでその数は鮮明ではない。
 明治9年に区制が布設され十勝は第23区第6小区となったが、明治12年には区制を廃して郡町村制が布かれ町村は先に調査された51村を基礎とし、河西郡は12村となった。しかしその先の調査の時に住んでいた人が移転したことにより既に人気のない村もあったという。
 常盤区は幸震村に属しており村の人口は明治14年調べで5戸15人であったとされているが、当部落に人家があったかどうかは定かではない。この地帯の地勢は札内川に沿ってピヨータン沢付近から穏やかな傾斜で下り十勝平野に広がる扇状形の平野地に属し、地域一帯は800年前に樽前山の爆発によって降った火山灰の地域と言われているが、当部落は札内川及びそれに連なる樹林に接しているため地味は回復して火山灰のそれとはやや異なり比較的に肥沃である。
 しかし、その反面水による被害は甚大で、増水の都度、氾濫して川岸に接する多くの土地を流失し、または冠水して表土を流し去るなど、その災いは常に繰り返され、そのため農地を失ってこの地を去った人や心ならずも住居を変えなければならなかった人も多く、これがこの地域の開拓を大きく阻害したことは否めない。
 このような特異性のある川であるため魚介類も目立ったものはなく、「ウグイ、カジカ、ドジョウ」程度の小魚が見られるだけで住民の食生活を潤すには至らなかった。また川幅が広がり原生樹林も多かったので山ブドウやコクワも相当に多かったが、これも水害で再三流されて秋の実りを見るのは僅かで遊ぶ子供達の慰め程度の量にすぎなかった。
 特に原住民はおよそ川を中心にして、そこに居住したいといわれ他の地方では逸話や遺跡などが残されているのを聞くが、当地区はこのような川の状況もあってか、その足跡をうかがい知ることができない。

2017年7月22日 (土)

加賀団体による十勝地方への開拓移住者(4)

加賀団体の入植
中札内村史(平成10年3月31日発行)より加賀団体の移住について書かれている事項を転記します。
明治29年の水害で石川県内各地では大きな被害を受けました。
加賀団体は明治30年石川県能美郡新丸村の住民40名余が団長に久保清次、副団長に山本清次郎を選んで組織された。ただし団体への加入資格は「120円以上の資金を有すること」が条件であった。

同年幸震村の地積60万9000余坪(約203ha)の殖民地貸与を受けた、その地は同29年
7月に久保清次が十勝国に入り移住地に選定した札内川右岸の現在の帯広市大正町であった。岐阜県民貸付地の上流に連接していて一帯が樹林地であった。

実際の移住者は29年1名、30年30名、31年3名の34戸であった。
道庁の殖民地情況報文に『その団体の組織の結束は固く、互いに協力して開拓に従事したので開墾の成績が著しく3年目にして全地(5haから10haまで無償貸与が受けられる、5年以内に成功検査を受け個人の所有となる)を成功したもの1戸、全地の70%~80%を開拓したものが十数戸ある。最も少ないものでも2haを下回るものはいない。樹林の笹地なので開墾が困難にも拘わらずこのように成功するのはその勤勉な仕事振りが思われる。』と紹介された。

2017年7月15日 (土)

加賀団体による十勝地方への開拓移住者(3)

開拓の歴史
中札内地域の和人の手による開拓は、明治38年以降であり、十勝管内では比較的遅い部類に属する。このことは、薩摩時代から北海道(蝦夷地)に対する施策は、この地域の産物をいかにして本州に移出するか、特に海産物に重点がおかれていたことと、北方(ロシヤ)の脅威に備えての沿岸防備に対応するためであったこと、こうしたことに加えて松前藩の「場所請負制度」は自然沿岸地域一帯の和人の定住、周辺の開拓に結びつき、その地点を拠点として内陸部の良好な原野を求めて和人の進出、入植は進んでいった。その場所として、良好な舟便の可能な湾岸、大河の畔りということになる。
これから遠隔の地であった札内川の川沿い、中でも、日高山麓に近いサツナイ原野一帯は、アイヌの人々にとっては豊かな狩猟の場であっても、和人の入植を容易に受け入れる環境にはなかったと言えるし、また道南の各地に比較して和人の進出要素が遅く、トノサマバッタの被害が生ずるまでは、十勝内陸部の農牧地の適応性が理解されておらず、十勝内陸部入植者がみられなかった、ということもあり、サツナイ原野の入植は、明治30年代に始まっているが、それも漸く市街地形成を成していた帯広周辺であり、サツナイ上流地域にまで及んでいなかった。
明治38年、帯広、落合間の鉄道開通を機会に、道内各地の既入植者からの移住、新しい土地を求めての入植者の増で中札内地域一帯の開拓が始まった、と言える。
従って、この地域では、他の地域で多くみられる様な「団体移住」は極く限られており、また大地主(不在地主)による農場開拓の歴史もみるべきものはない。

各地からの入植者
十勝の和人入植の歴史分類からみると第二次入植者とみるべきかも知れない。
村内には他の地域と異って多くの府県からの入植者があるが、このことが、これからのことを示している。島根、広島、徳島、静岡、福島、青森、岐阜、福井、石川、富山等多くの府県出身者を祖先として持つ村民が多いことは、他にみられない特徴でないだろうか。こうしたことから、本州からの移住者時を詳細に語り継がれる記録も少ない。
村内に入植した人々の中に、石川県からの祖先を持つ人の多くは、現大正町に団体入植した加賀団体であり、福井県のそれは現昭和町入植の越前団体であり、いま、この両団体の移住経過と、一入植者の苦難の歩みを掲載し、その程度の差はあれ、我々の父祖のこうした苦難の足跡に、現在の豊かな故郷が生れたということを理解すべきであると書かれています。

2017年7月 8日 (土)

加賀団体による十勝地方への開拓移住者(2)

幸震村
幸震村(さつないむら)は、かつて北海道河西郡にあった村で、現在は十勝総合振興局.
河西郡中札内村となっています。
 中札内村の北側には帯広市が接し、東側には河西郡更別村、南側には広尾郡広尾町と接しており、西側には日高山脈があります。
 現在はタレントの田中義剛氏が牧場長を務める「花畑牧場」で有名な観光牧場のある場所でもあります。
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村の沿革
1902年(明治35年)4月1日 - 北海道二級町村制施行により河西郡幸震村が村制施行し、幸震村が発足した。
1915年(大正4年)4月1日 - 河西郡上帯広村、売買村と合併し大正村を新設して消滅。
1947年(昭和22年)9月1日 - 旧村域である大正村大字幸震村の一部が分割され、新設の中札内村、更別村の一部となった。

幸震村の歴史の項目は札内村史より転記しました。
サツ・ナイ(乾く川)の意があり、「この川は不思議に西南の風(ピカタ風)吹けば、雨降らずして水量増す。
平時ことに夏に至れば、川水減少し、往々床々に乾固の場所を生ずる。ゆえにこの名あるなり」といわれている。
旧大正村幸震は、幸(サチ)・震(ナイ)をあてたものであり、渇水は夏に限らず、冬期間も、中札内市街地より上流約数kmにわたって渇水状態となることからこの名がある。

2017年7月 1日 (土)

加賀団体による十勝地方への開拓移住者(1)

石川県から幸震村への開拓移住者
 
石川県能美郡新丸村から北海道幸震村へ開拓移住した人達の歴史を調べるために幸震村を訪ねてきました。
平成27年7月のある日、日高町から日勝峠を越え帯広に入りました。この日勝峠は2回目なのですが、今回も峠の上の方は霧がかかって峠からの風景は見えませんでした。
中札内村への途中に幸福駅がありました。

明治時代に福井県から幸震村(さつない)へ入植した開拓移住者の地域で、アイヌ語のサツナイという当て字が読みにくいので「(幸震)コウシン」と呼ぶことが多かったそうです。
この地域の人達が何時ごろからか不明だが福井の「福」と幸震の「幸」を合わせて「幸福」という地名にしたそうです。
 この地区に国鉄の広尾線の駅がありましたが昭和62年(1987年)の廃線に伴い廃駅となりましたが、「愛国駅から幸福駅」という触れ込みで今でもこの駅を多くの観光客が訪れています。
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                     (旧国鉄広尾線軌道)

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P7230099                             (幸福駅ホーム)

幸福駅を後にして中札内村を訪れたころは雨模様になりました。
中札内村役場を訪ね、開拓の歴史について尋ねると役場の副村長さんが話を聞き対応してくださいました。
石川県の新丸村から幸震村への開拓移住者の方々の入植について尋ねると、石川県からの開拓の入植者が多く入植しているのは帯広市の大正町の方ではないかとのことでした。
それでも新丸村の開拓移住者の一覧を見て「この壬生(みぶ)という名前の人は当村にいる」と言われ、壬生(いくるみ)さんとお呼びするのですねと尋ねると「そうです」と答えられました。
この方の呼び方は一般的ではないため先代の方は新丸村出身者ではないかと思うようになりました。
副村長さんは別室から一冊の本を持ってこられ、それを開き名前を調べ始めました。
この記念誌の中の王生さんは石川県出身であることがわかりました。
その本は「常盤開拓100年記念誌」でした。その記念誌をお借りすることが出来、関係個所をコピーし返却しました。

この十勝地区には幸震村、高島第二農場があり石川県から多くの人達が入植している地域でもあります。
今回は幸震村を主体に調べた事を書いていきます。

役場で中札内図書館の場所を教えていただき、図書館に向かいました。
雨は一向に止む気配がありませんが目的の図書館がありました。
中札内文化創造センターというホールや会議室などの複合施設の中に図書館がありました。
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                       (中札内文化創造センター)


図書館の中は広く沢山の蔵書の中から中札内村史ほか資料を読み漁り、必要箇所を抽出しコピーして頂き図書館を後にしました。

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