加賀団体による十勝地方への開拓移住者(8)
現在の中札内村
こうして開拓が始まってから40余年の歳月は流れ、その間には相次いで起こった札内川の氾濫で多くの土地を流失し、または、冠水して新たに川をなすなど幾多の変遷を重ねてきたが、戦後は堤防の施設も急速に進み漸くその難も遠ざかり現在では堤防の完成のほか、砂防ダムも要所に設けられて水害も今は昔の物語として止まるに至り、農耕地450ヘクタール余と宅地其の他を含めて完全に確保されるに至った。
また戸数(人口)も開拓当初に急速な増加を見て、大正初期には41戸を数えこともあったが、生活が不安定のため移り変りも激しく終戦後(昭和20年)までの移動は転入132戸、転出も100戸の多きに及んだ。
しかし、戦後の60余年間は社会経済の変動や経営規模の拡大などによる移動が若干見られるものの、大きい変動は概ね安定の兆しが見られ、昭和55年頃戸数は28戸であったが平成16年には25戸である。
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