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2017年8月

2017年8月19日 (土)

加賀団体による十勝地方への開拓移住者(8)

現在の中札内村
こうして開拓が始まってから40余年の歳月は流れ、その間には相次いで起こった札内川の氾濫で多くの土地を流失し、または、冠水して新たに川をなすなど幾多の変遷を重ねてきたが、戦後は堤防の施設も急速に進み漸くその難も遠ざかり現在では堤防の完成のほか、砂防ダムも要所に設けられて水害も今は昔の物語として止まるに至り、農耕地450ヘクタール余と宅地其の他を含めて完全に確保されるに至った。

また戸数(人口)も開拓当初に急速な増加を見て、大正初期には41戸を数えこともあったが、生活が不安定のため移り変りも激しく終戦後(昭和20年)までの移動は転入132戸、転出も100戸の多きに及んだ。
しかし、戦後の60余年間は社会経済の変動や経営規模の拡大などによる移動が若干見られるものの、大きい変動は概ね安定の兆しが見られ、昭和55年頃戸数は28戸であったが平成16年には25戸である。

2017年8月12日 (土)

加賀団体による十勝地方への開拓移住者(7)

内山忠次郎の功績
内山氏が当区に入植されたのは開拓の始めよりやや後れて大正7年と聞くが、27才の若さで早くも開拓の志を樹てられ明治29年に先に渡道していた叔父孝太郎氏を頼って千葉県匝瑳郡豊栄村(現八日市場市亀岡)から単身で渡道され幸震村(現大正町)に入地されて以来上途別、越前、幸福等数ヶ所に亘って開拓が進められた。
その間明治32年に越前(現昭和町)の小森清太郎氏の次女セツさんと結婚して、いよいよ北海道永住の意思を固められた氏は身辺整理のため一時帰郷して実家の整理をし、父親甚右ヱ門氏(大正12年死去)を伴って再び新開地に戻り開拓に精魂を傾けられ夫婦間に子供が恵まれなかったこともあってか、将に開拓に一路に精進されたのである。

明治44年に中札内(現北1区)に移住したが、そのころから逐次農地を拡張して大正5年には常盤区内に45ヘクタールを取得し、大正7年に入地(西2線268番地)され、以来毎年多くの雇人を使って営農して、その後も多くの土地(150ヘクタール)を取得し、その所々に小作人を入れて営農させるなど将に大地主として活躍された。
一方公職の歴史も長く大正4年に大正村初代(大正4年に村が誕生)の議会議長として選出されたのにはじまり、その後常盤区に居住後も引続いて7期(Ⅰ期2年)当選し昭和4年6月で14年間に亘って村政に参画され、学務委員等も務められなど地域の進展に偉大な貢献をされており、昭和2年の大正村開拓30年記念式で自治功労賞として顕彰されている。

しかし、昭和20年太平洋戦争終結直後の9月に生涯苦楽を共にした妻セツさんに先立たれ、続いて自作農創設特別処置法による農地改革で多くの土地を手放し、加えて年齢も既に75才となったことから、農業を離れ悠々自適の生活に入ったが、その期間も長くは続かず、昭和25年12月17日遂に81年の歴史を残して大往生を遂げられている。ここに氏の生前の労をねぎらうと共にその御功績を永く讃えたい。

2017年8月 5日 (土)

加賀団体による十勝地方への開拓移住者(6)

十勝の開拓
 北海道に開拓は殖民地の選定から始まり区画制を明治24年から行われたが、十勝原野は広大なため1年では区画測量が出来ず、先ず十勝川沿岸からはじまり、年毎に増画され当地域は明治29年に区画をされている。
 これを「殖民地区画」といい、300間(545.4m)毎に縦横に道路予定地をとって区画し、その300間平方の地積30町歩(90,000坪、約30ha)を中画といい、それを6等分して巾100間(181.8m)、長さ150間(272.7m)の5町歩(15,000坪、約5ha)を小画とした。更に900間四方(中画の9倍)の地積を以て大画とした。
一般的には小画を移民1戸当たりの基準とし1戸分と言ったことから今日も尚5町歩を1戸分と言われる所以である。
 この地域は「明治29年殖民地区画札内原野」といい、明治19年に北海道庁が設置された後に調査された「ヌツブコマップ原野」総面積11,640ヘクタール余の殆どが含まれているとされている。(明治35年の地区別開発略史による)が、その区域の北は帯広市昭和町の20号から南は上札内50号迄、東西には基線以西の札内川までの細長い区域で常盤区はこれに含まれていることになる。
 また、道路予定地には縦横に号及び線の名称を付け当地区は南北に基線を求めて基線以東に「東」を、以西には「西」を冠して呼称し、号は帯広市に起点をおいて追番号で表しているが、測量点が各所(数ヶ所)から行われたため区画ごとの境界に格差が生じ、例えば中札内に39号が2ヶ所あったり36号を付してありそれぞれ三角形の地積があるのは、そのことによるものである。

 明治30年4月1日から「北海道国有未開発地処分法」が施行されたが、これは未開発地を無償で貸付し開墾してからこれを付与する制度で、これによって移住者が急速に増し
大正地区には石川、福井、富山、岐阜の各県から団体の入植があってその中には土地の貸下げが受けられず小作を申込んだ者もあったという。
 幸震村の人口が明治30年に165戸(639人)となり、同35年には221戸(894人)となっていることからも、その急増を物語っている。

 4年後の明治34年に愛国の8号から幸震(現大正町)、上札内を経て大樹に通じる「札内原野殖民地道路」が着工され漸く道路開発の見通しが立ち、常盤区内(上札内から39号までの間)は明治39年二施行された。
 また、明治38年に帯広・釧路間の鉄道が開通したことや日露戦争の終結で景気が上昇し、土地の売買も活発になり移民も繁くなってその年に内海又吉・田丸近一・勘原新助・勘原良三郎の4氏が入地して当部落の最初の住民となった。
 この年、明治38年を常盤区の開基とする。しかし、この人達は開拓の傍ら生活を維持するため炭焼や下駄棒(下駄の材料)を作って僅かな現金収入を得たもので、あるとき(明治41年頃)ドロの大木を切断して天狗の怒りにふれて暴風となり恐怖におののいたこともあったというが当時の住戸が拝み小屋で出入口にムシロを下げただけの粗末なものであっただけに如何に怖かったが想像される。

 翌39年には豊岡伍作ほか3氏が入地したが、豊岡氏が広い土地の貸下げを受けたため縁故者や小作人が相次いで入地し、更に先に大正地区に移住した加賀や越前団体の人達が増反や分家などで競って土地を求めたので3年後の明治42年には戸数も26戸となり、その年に小学校(旧札内校)も開校されて漸く安定の兆しが見え、加えて初代校長が先に大正地区に加賀団体長として入植された久保清次氏であったことが一層住民に力強さを感じさせたものである。
 こうして人々の苦労は着実に稔り開墾作業も順調に進んでこの年は農地の払下げを受け得るまでになり、その前年の明治41年に未開地処分法の改正が行われて「無償ヲ売払制度トシテ大地積ハ大企業ノ企業ヲ高メタメ売払イトシ、小地積ハ貸付シテ無償付与ヲシテ移民ノ自作農化ヲ図ル」となったが当地区には影響もなく区内で210ヘクタールの農地が付与を受けた。
しかし、区内居住者で付与を受けたのは僅か4戸(40ヘクタール)で大部分は地主の嶋谷伊三郎氏(140ヘクタール)高下貞平氏(30ヘクタール)で占めており、小作人が多かったことを物語っている。
 翌43年には160ヘクタールの農地が新しく付与を受け、続いて44年、45年と開拓は進んで総面積526ヘクタール余、土地所有者は48名に及んだが、その内32名を村外者で占め、区内居住者は16名に過ぎなかった。
 その間明治43年に嶋谷伊三郎氏の土地は高倉安次郎氏に移り、昭和5年には更に作田太七郎に移譲され、その後徐々に耕作者(小作人)に売渡され、その他の村外者の土地も縁故者や分家等に譲渡されて村外地主はその姿を消し、更に太平洋戦争後の昭和22年の農地改革(自作農創設特別処置法の施行)により買収、売渡しが行われて殆どの農家が自作農となった。
こうして大地主は姿を消したが往時の開拓にはその人々の貢献度は大きく、特に当区では開拓当初の嶋谷、(高倉)農場、豊岡伍作氏、大正時代から昭和初年の内山忠次郎氏があげられるが、その中でも内山氏は永年当部落で営農をされ公私ともに名だたる活躍をされたので特筆して面影を留めることとする。

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