旧加賀藩士が作った前田村

2015年2月 8日 (日)

前田村の岩崎部落

岩崎部落について(共和町史より)

明治19年、秋田県湯沢市岩崎町の斎藤直治氏は能登・加賀の単独移民者68戸をもって札幌県後志国岩内郡梨野舞納村の前田地区の隣接地に団体移住し、この地を岩崎部落としている。これらの農業移住集団を岩崎団体といわれている。
前田地区には明治16年より加賀士族入植のための小屋掛け、種蒔き用の開墾がおこなわれ、翌17年~20年にかけて加賀士族が入植している。明治18年には岩内郡梨野舞納村を割き前田村とするよう札幌県令に義情願が出され、翌19年1月18日には許可されている。従って岩崎団体が入植した時には前田村となっていたのである。
入植時の記録を「共和町史」から読み解くと
入植時の条件は開墾地は地主2分、小作8分に配分することになっていた。
早く入地したのは宮崎佐平治氏で、新たに入植した人は宮崎氏宅をワラジ脱ぎ場としたので、部落の長老として尊敬された。後から入植した辻野太郎氏は文筆に優れていたので、
両氏が部落の重鎮となってその発展に寄与した。
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次に明治28年に地主の斎藤直治氏と岩崎組合総代との間に結ばれた約定証券を下記に示す。

岩崎組合,約定証券
後志国岩内郡字岩崎学田ニ於テ拙者貸付許可並出願中ニ地面ノ岩崎組合総人数ハ是迄世話役ヨリ切渡シ置キタル地処ニ対シ左ノ条約相定メ候事
第1条 各名々ガ切渡シヲ得タル惣面積ノ内其8分ハ各小作人ノ所有トシ払下ゲノ節ハ直チニ各人ノ所有権ヲ有シ、登記引値スベキ事、但各義引値ニ付官庁ニ対スル裂地許可ヲ望ノ方法ハ其節別ニ協議ヲ逐クヘタ其費用並地代金登記料等一切ハ各人ノ負担タル事。
其1部ハ岩崎組合共有地トスル事、但其名前主ハ其節組合長名義トスベキ事。
其1部ハ拙者ノ所有タル事、但吾拙者分ノ1部及ビ所有地1部ニ付テハ切渡シヲ望ム各人ニ於テ小作ヲ為シ各其小作料ハ別ニ定ムル割合ニ依ルベシ。
第2条 現在小作人ニシテ他地方ヘ移動セントスルトキハ其小作地ヲ引受ケル約定アル小作料を収ムベキ代リ者ヲ定メタル上ニ出立スベキ事
第3条 各所有地ヲ他人ヘ売却セントスル時ハ岩崎組合惣役員ノ審議ヲ受クベキ事。
第4条 共有財産管理方ハ別ニ定ムル所ニ依ルヘシ。
第5条 公益及ビ組合必要ノ為メ道路堤防其他ニ使用セントスル時ハ何人モ異議ナタ承諾シテ其ノ所有権ヲ棄捨スベキ事。
第6条 猶約束スベキ事柄ノ本文ニ洩レ居ル所アル時ハ他日協議ノ上相定ムベキ事
    右之条約証券如件
    後志国岩内郡前田村字岩崎
              斎 藤 直 治 ○印
明治28年12月27日
 岩崎組合総代人 殿
   付記  登記書類其他1件書類ハ岩崎事務取扱者、宮崎佐平治
          昭和43年(孫宮崎與市所蔵)

斎藤直治
 秋田県岩崎町の住人、斎藤直治氏は石川県の能登・加賀から単独移民者68戸を以って岩崎組合を組織して、明治19年先導開拓に従事せり。
 開墾地は地主2分、小作8分に配分する約束にしていたが約定証券を示すまで約10年もかかったのである。

宮崎佐平治
 天保16年6月8日生
 明治19年斎藤直治の能登・加賀移民募集に協力し、自各戸募集の任に当たり、68戸となり、現地に移住せり。
 入地後は岩崎組合の世話役、総代人となり事務一切を担当す。
毎年移住者の出入り激しく分割割合等にても充分なる方法に至らず、明治28年春に至り、小作人に対して斎藤直治約定書を示すことになり、初めて永住者も大部分決定せり。
その際斎藤直治は岩内町の宮大工辻野井平に神社建設を依頼された。
宮崎佐平治にその監督を依頼した。この神社建築で今までの種々事項も和解の方向に向かい同年12月27日に斎藤直治氏の岩崎組合約定証券により事済となる。
大正9年10月の風害の為神社が損壊し、天照大神を前田神社に合祀してもらい現在に至っている。

起業社・岩崎部落の配置図 (共和町史より)
起業社関係のかたがたの記憶に基づいて、明治20年頃の住居の配置図をまとめたのが
下図である。
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岩崎組合事務所名簿  (宮崎与市氏蔵)

2015年2月 5日 (木)

移住後の回想録より

南 様より提供を受けた資料です。

回想録の中で入植当時の貴重な資料となる個所を抜粋して転載させていただきます。

先祖は石川県江沼郡田尻村にて誕生しました。5人の幼い子供を連れて明治25年、前途に希望を抱き見知らぬ寒い国、北海道へ移住しました。
 母は家族の着物や着替え、そして最小限の身の回り品しか持って行けなかったことと、少しの貯えのお金は船賃や食費や生活費に必要であった。
四六時中賑やかな子供たちに反して母は複雑な気持ちで親類縁者に別れを告げ、気の休まる間もなく船に乗ったことだろう。
 当時の移住民は金石港より汽船で2昼夜かかって岩内港に上陸し、今の前田に向かったのですが、当時の岩内はまだ徴々たる1漁村で周りは湿地草原でした。
 いわんや前田村の地は鬱蒼としたジャングル地帯で熊やその他の野獣が出没していたのです。なかには意気消沈して働く気力も起こらなかった者もあったと墾鑿の譜という本に記してありますが、これは現実の話で色々と聞かされておりました。先に入植した人達は後からの人達を助け、道路作りと学問に力をいれたそうです。

祖父母の両親の会話には橋立の話ばかり出て、金石港の話題は出なかった。また、家族も一緒に行ったと思われる。その他の事情を想像すると、わたしたちの先祖は橋立から乗船したように思われます。
 祖父母の定住の地は暫らく無かったが、やがて岩内町の清住に住居を定めて小商店を営む(4~5年この場所に住むが)明治26年2月2日に私の叔父が岩内で生まれた。後に南権次郎家へ養子に行き南与惣松となる。

 当時、お米一俵が2円66銭の時代で祖父母の大変なときでした。
 家族をばらばらにしてはいけないと思い、郷土の出身者とも相談して当時の前田村岩崎へ先にきていた辻野伊太郎さん(大変文筆のたつ方で、後年小樽税務署管内土地査定委員を務める)のお世話で定住して開拓農業をすることにした。

 前田村岩崎での生活
 夏はいいのだが、蚊やブヨ、ハエが多く非衛生的で悩まされていた。木陰に行くと早速やぶ蚊やアブに刺された。冬は日本海からの季節風が強いので、住む小屋のような家は風の弱い谷間の低い所で小川の近い場所に5~6軒かたまって住んでいました。小川は炊事、洗濯の生活用水でもありました。
 祖父母が仮小屋をたてて春、夏大急ぎで薯(いも)やソバ、大根、その他を蒔く、鶏(にわとり)も飼い大切な栄養源となった。
 開拓といえば聞こえがよいが、毎日が土方の連続で大変な仕事である。今ならブルトーザーやショベルカーがあり、勿論新聞やラジオもない原始の生活、電気もなければランプを買うお金もない、馬も持っていない。あるのは人力だけでした。道具といえばツルハシ、鍬(くわ)、スコップ、鎌(かま)、モッコ、鋸(のこぎり)、マサカリと手作りの一輪車でした。

子供の時に聞いた父母の話
 暗い家の中は見えないだろうにと父母に聞くと、笑顔で仏壇に使う灯心を小皿に入れ、シラシミか菜種油を入れてローソクの代わりに使っていたよと答え、「へえー!」と子ども心に驚いた記憶があります。
その頃、唯一の現金収入が手間賃稼ぎで、道路工事や農家の手間仕事であった。また、家の回りは雑木が沢山あるので切って寄せて置き、炭焼き用や家の薪として使った。炭は売って現金収入になったが、木を切った跡は木の根を掘り、笹の根を掘り、石ころ堀りの毎日だったそうだ。
「聞こえるのは風に吹かれる木々の音、岩内に行けば故郷の橋立の海を想い、山を眺めれば故郷の白山を想う。今の季節、故郷の人達は何をしているのかなー!顔が見たい!話がしたい!そのうち頑張って行くようにしようしようと。何百回と心の中で会話し、月日を重ねてきた」と望郷の念を話された。
 故郷から便りがあると家族みんなで回し読みし、手紙を中心に語りあった。同郷人に会うと手紙の話を又聞いてくる。最後には鴨居の状差しに入れてしまうとまるで神社のお札のようになったとのことだった。このことは昔、父や母から聞いたことでした。

 私の小さいころの思い出
 私等の小さい頃は言葉の違いが大きかった記憶があります。お年寄りの生まれた地方の方言なまりの違いに驚いたものです。能登弁、加賀弁、広島弁、仙台、秋田、青森、富山、それに漁師の言葉。狭い土地に方言の多いこと、聞きなれた加賀弁はなぜか親しみがあって知らない人でもすぐに馴染んだが、聞きなれない方言で話をしているのを聞いてどんな所から来られた人だろう、親たちは普通に話
をしていると思って聞いておりました。
 でも、子供たちは学校で標準語を習うので皆同じでした。この方言も地方によって多少違いがあるが2代3代と世代が変わって北海道独特の親しみやすい言葉になってきました。

生活の記憶
家と申しましても小屋か物置のような家もあった。すべて自給自足で有るものは人の手間と助け合いの心だけの世相でした。
3~3.5間に8~8.5間の小屋、大きいように見えるが。(24坪~30坪)
小さい部屋が1つか2つあり、もう一つ炉端の部屋があり、炊事場は土間でする。後の半分は納屋兼倉庫と物置にまだるい便所と馬小屋がある。家の柱は5寸程の丸太造りで土台は無く、適当な石の上に置くだけの簡単な構造で、屋根は小麦を収穫した後の麦わらで屋根を葺き、部屋の天井だけは細い木を渡してスダレを敷いてある。
壁は湿地に自生している葦で下地を編んで粗壁を塗っただけの粗末な建物であった。外壁は雨や雪に濡れると落ちるので、葦か麦わらで養生していた。便所は炊事場から離れた土間に穴を掘り、土が崩れぬように細工して上に丈夫な板を2枚渡し、ムシロを下げただけという簡単なものだった。
生活用水は川の水を使い、井戸を掘れたら掘るという状況でした。燃料は豊富なので炭や薪や木の根を使い、手間をかけるといくらでも手に入った。
移動手段はどこへ行くにも歩く、歩く、歩くだけでした。勿論食事のバランスも悪いため、この時代の方々は小柄で平均寿命が短く50代にはお爺さんでした。
このような時に資力のある方たちは立派な家を建てていました。近くでは室岡さん、福井さん、戸田さん、沢山の部屋数と内部の造りが落ち着きのある色彩であった。家の前には大きな仙栽に北海道を模った石垣の池があり鯉が泳いでいたのを覚えている。また、色々の木や花を植えてありその北側には蔵があったのも覚えている。よく遊びに行ったものです。
今はもう、その家も仙栽も蔵も納屋も無く、道路用地になっていました。戸田さんへ行くたびにあの立派な家を思い出し、寂しい思いになりました。

お婆ちゃんは感じの良い方で、田植えに行くと昼食の時にお婆ちゃんは「食べられよ」、「食べられよ」と沢山よそわれて、食べ過ぎて苦しい思いをしたことは忘れられない思い出です。


これらの回想録は、入植当時の生活を知るうえで大変貴重な資料となりますので、南様の了解をいただき掲載させていただきました。

2015年2月 1日 (日)

私の父は北海道の前田村出身です

新聞社より記事を見て話を聞いて欲しいとの連絡がありました。
その後、白山市内の方から電話を頂きました。小生のまとめた冊子「北の農士たち」について新聞で取り上げられてから、何人かの方からも電話がありました。

 拙宅に来ていただき話を聞いたことをまとめてみました。
白山市の南 光明様の先祖が明治25年に渡道していることや、祖父方は吉野姓であるが南権次郎氏方へ養子となり南姓となったことを家系図にて説明をしていただき、吉野吉五郎氏の5男の一己氏が一族の覚えとして書かれた文章や、入植当時の親の苦労等がまとめられている資料と吉野家、南家の家系図の提供を受けることができました。

 今回、前田村の中で岩崎部落について、前田神社総代の石動利明様からも資料提供(共和町史)もありましたので、石川県から北海道へ農業移住した方々が前田村の岩崎部落を開いた歴史を取り上げてみました。
 能登・加賀からの単独移住で68戸の殆んどの名前、出身地が分かりません。これが機会となり判明する手がかりとなればと節に願います。

2014年12月 9日 (火)

「北の農士たち」が北国新聞で紹介された

平成24年6月のある日北国新聞の記者の方から「旧加賀藩士が北海道へ開拓移住した」件での取材を受けた。

今まで凧作りで何度か新聞で取り揚げられたことはあったのですが、「北の農士たち」の冊子に関しての取り上げに関しては自分ながら驚きでした。
6月30日付けの北国新聞の記事です。
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新聞の発信力はすごいものです。
多くの知人から「みたぞ!」と電話がありました。
中には「本をください」という方もいました。

新聞社を通じて読者の方から電話を頂きました。
「私は北海道の前田に住んでいましたが今は白山市にいます」という方でした。
新聞を通じて初めて情報を頂いた方でした。

また、小松市の方からは「私の住む滝ケ原地区から」北海道に渡り成功した方がいるのでその方についてお話をしたいと言って頂く方もいました。

その方々の貴重なお話も記録として残していきたいと思っています。

2014年12月 8日 (月)

北の農士たち

 明治政府は版籍奉還後に廃藩置県を行い、武士たちは家禄を失うこととなりました。
武士という身分も士族となり、徴兵制の施行により常職を失うことになったのです。
士族には家禄に応じて金禄公債証書が渡されたものの、すぐには換金できず多くは生活の基盤を失い没落する士族が多発しました。

士族の生活基盤を安定させることが社会不安を防ぐために必要であったので、明治政府は士族授産事業として北海道屯田兵制度で士族募集を行ったのです。

屯田兵制度は北海道開拓となっていますが、実際は当時のロシアが江戸末期より日本をたびたび脅かしていたことで国防を兼ねるための処置でもありました。
そのため当初は海岸寄りに屯田兵村を配置しましたが、徐々に内陸部にも作られるようになりました。

石川県は全国でも最多の492人が入植したと記録に残っています。
金沢では明治12年に士族による士族授産事業を企て、旧金沢藩主前田家からその事業資金を拠出してもらうべき事業計画を立案し提案したのです。
明治16年には起業社が前田本家から供与される10万円に士族などから株式募集する15万円を合わせて資金として、北海道後志国岩内郡犂野舞納村(りゃむないむら)に移住開墾すると共に、択捉島などにサケ、マスの漁場を開拓する計画でした。
犂野舞納村とは現在の岩内郡共和町前田です。

明治16年犂野舞納に開墾地を決め、宿舎を建設し、翌17年から士族が入植しました。   士族が北海道へ開拓移住し、刀剣類を鍬に持ち替えて開墾する姿は農士そのものだと思います。

共和町前田地区の方とは当地で懇談したご縁で交流しています。
平成27年が前田神社創立130年の節目となるので、記念誌の編纂に励んでいます。
金沢市史、共和町史をもとに「北の農士たち」を執筆し、金沢市の図書館や共和町の関係者の方々に送りました。
この資料をPDFに変換しましたので下記の「kitanonousitati」をダウンロードをクリックして閲覧ください。

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