白山麓から北海道への開拓移住者Ⅰ

2016年12月30日 (金)

大椴地区を訪問して(8)

大椴地区の方と懇談しました
大椴集会場の前で今後のことを思案していると、自販機のジュースを買いに来た人がいました。思い切って「この地区は石川県からの入植した人々がいますか」と尋ねると「私は石川県の吉野谷出身の子孫だ」と話された。
大椴地区の歴史に詳しい人として、岩倉さんに電話連絡して紹介して頂くことが出来ました。
岩倉ご夫婦さんは自宅横の農作業小屋で野菜の選別作業を行っていました。
岩倉さんの祖父岩倉岩次郎氏は明治31年の第二次募集で現在地へ開拓移住してきました。
祖父は石川県能美郡吉野谷村吉野出身で現在の岩倉さんは三代目になります。
「昔は留萌から羽幌まで汽車が走っていた。駅もありそれなりに町としての賑わいがあったが、昭和62年月3月旧国鉄の羽幌線が廃線となり、それに伴い若い者が町へ出てそこで所帯を持つようになり、この近辺も年寄ばかりになり、今では人家が少なくなったと寂しそうに話されていたのが印象に残っています。
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                       (昭和30年頃の大椴集落図)

以前、大学の先生が開拓移住について調査に来たことがあり、他から移住して先住の移住者と入れ替わっている集落が多いのに、この集落は開拓当時の住人が変わらず居住している集落は北海道では珍しいと話していたそうで 、それだけ住民の結束が強かったのだろう」といわれたそうです。

大椴地区の農業は米作が中心で2008年、全国米食味分析コンクールにて「ななつぼし」で金賞を受賞したそうです。
小平町では米作以外に生産されるメロンは、赤肉の小平レッド、青肉のデリシィ、アイボリーメロンの3品種が生産されています。
岩倉さんのビニールハウスでは白い色のアイボリーメロンという品種のメロンを作っています。このメロンは大椴地区の特産品で通常の品種と違うそうです。

大椴地区では入植以来大椴子川の氾濫でたびたび被害に会ってきました。
昭和53年8月に大椴子川が氾濫し水害が発生しました。北海道の災害発生記録を調べると下記の資料を見つけました。
昭和53年8月10日、日本海から道北を通過し北見沖にぬけた低気圧の影響で大雨となり、留萌地方に大きな被害が発生しました。
交通関係・国鉄運休56本。浸水家屋・住家床上51棟、床下292棟。農業・田畑冠水908。
土木関係・道路損壊29、河川決壊4。降水量(日最大1時間降水量)
留萌108(37)、達布111(36)、古丹別133(28)となっていました。
これ以降にダム建設が計画され、昭和61年に大椴防災ダム事業、かんがい排水事業が起工し、平成15年に完成しました。
このダムの完成により洪水調節と夏場の渇水が解消され、農業の計画的な生産が可能となった小平町史で書かれていました。
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                          (大椴開拓100年記念誌)
岩倉さんは吉野谷村の時代に仲間と一緒に先祖の故郷を訪ね、村長ほか村の人達と親交を深めた事があり、後に市町村合併で白山市に変わった時に白山市長を訪問する計画だったが、訪問の直前に白山市長の訃報で中止となった経緯があると話された。
今度は仲間と一緒に吉野谷を訪ねてみたいと話されていました。

また、先祖は北海道らしい広大な土地を開拓していてくれたら良かったのにと話されていたことが印象に残っていますが、この地でも各戸が1万2千坪の所有地があるのです。
北海道の広大な大地を見慣れてきた中で、この地はなぜか郷里の山里と似た風景が広がっている日本の里山といえる場所だと感じました。

岩倉さんの息子さんが帰郷し一緒に生活するそうで、若い人によってこの大椴地区が受け継がれていくのを感じました。
石川県人がこの地で開拓後も生活しているのを見て石川県人として誇りに思いました。
2時間位の短い訪問でしたが、有意義な時間を過ごした大椴地区を後にしました。

2016年12月24日 (土)

大椴地区を訪問して(7)

岩倉さんから『大とどっ子』という大椴開拓100年記念誌を頂きました。
この開拓記念誌の中で「大椴農業百年、大椴の夜明け」の中で入植と開拓について書かれていることは前述の小平町史の「第12節 トドコ(大椴)原野の入植と開拓」から引用したものと同じ内容が書かれていました。

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                 (昭和30年頃の大椴集落・大とどっ子の記念誌より)

桑原権兵衛について
記念誌の中で大正7年8月15日北海道庁の北海道拓殖功労者として表彰された表彰録より「桑原権兵衛」について書かれていましたので紹介しておきます。
嘉永2年1月9日を以て加賀国石川郡吉野谷村に生る農孫市の長男なり、白山川の西側に位置し、畑作を主とし煙草産地として名あり。
風俗質素能く労働に耐え熱心従業するも、地積狭く人多く、男は運搬業女は養蚕製糸を副業とするも生計困難なるをもって、夙(先に)に本道に移住せる者あり、権兵衛は父母歿後此れ等の人々より本道の事情を聞き知して、北海道に移住を志し明治29年3月同志10数戸と郷里を発し石狩国高島農場(空知郡奈井江)尋ねて本願寺農場(雨竜郡北竜村)に於いて開墾耕作に従事したるに、その結果良好なりしかは吉本駒太郎等と同郷者の団体移住を企画し、帰国して親戚及び村内貧困者に移住を勧誘する。
 駒太郎は土地選定の為各地を視察し、30年7月天塩国留萌郡鬼鹿村大字天登雁字大椴子原野に於いて貸下許可を得たり、権兵衛同志25戸と共に31年4月到着入地し後、団体長に推され克く団体を愛護すること終始一貫実に懇倒を極む。
 その移住に当たりては、先ず共同小屋3棟を設けて、直ちに伐木開墾に着手し毎日8反歩ないし1町歩を開きて馬鈴薯、大小豆、麦類を播種し了りて、各自居小屋を造り仮道を開く、しかるに、秋季水害に遭い作物を流出したるものすくなからず、その為に薄資者はたちまち糊口(やっと食べていく)に窮し、離散せんとするもの続出したが、権兵衛は百方これが慰論(なぐさめ、さとす)に奔走し私財を投じ、又は地方の資産家に交渉して米・味噌を借り受け救済激励して事業の進捗を図る。
 翌年数戸の新移住あり、33年2戸ないし3戸の共同をもって耕馬・農具を購入して盛んに馬耕をなしたるに、その成墾著しく秋の収穫多かりければ各自馬匹を購入し、学校を設け道路を開き、34年貸付地の全部106町7反余歩の成功付与を受け後、更に、177,315坪(約59町歩)の未開地を墾成し、従来の農具を洋式に改め馬車を使用して漸次地積を増加する。
 40年寄付を集めて学校を新築し、41年社殿を築いて氏神を祀る等諸般の施設やや備わり、年々移住増加し、44年に於いては戸数55戸・畑200余町歩・牧場590余町歩・馬70頭を有し、農繁期には養蚕を行い、冬期は製糸を副業としていた。
 規約を設け、親睦を主旨とし、険素を重んじ互いに救護励精至らざるなし、そして権兵衛は、百事実践躬行をもって団体に臨み種芸、力作は勿論敬神、尚学、納税の念を厚からしめ納税の如き毎期に他の部落に先立ち納入させ、所轄支庁長より感謝状を贈呈される。
 その他、道路改修の保全、土着心の養成、共同購入・販売の実施、農産物の改良及び検査を励行し、市場における農産物の賞価は毎にその上位を占めることを例とす。
 また、部落有財産の造成に熱中し、既に基本金2,500余円を増殖するという。
 そして、自己一身の為に計ること甚だ薄く、団体員と等しく耕地5町歩有するだけにして私利を謀らず資性寡欲温厚にして、衆を見ること子のごとく、素行端正・家庭円満・郷閭その徳を称され、大正4年7月1日賞勲局より銀杯1個を賜りその功績を表彰される。

2016年12月21日 (水)

大椴地区を訪問して(6)

大椴子原野への開拓移住者の考察
当初、トドコ原野に集団移住する人達は全てが吉野谷村出身者であると思っていたのであるが、団結移住者規約の名簿によると石川県能美郡広瀬村の空橋吉兵衛氏は明治22年の市町村制で能美郡河野村広瀬になっていたのであって、後の鳥越村である。
河内村は独立した村で明治39年(1906年)石川郡当局から吉野谷村と合併案があったが実現しなかった。
 明治31年に移住民人名変更願が提出されているが、その中で能美郡中海村字嵐の地名があるが、現在の小松市中海町である。また、粟津村とあるのは現在の小松市粟津である。
 

「日刊留萌」の新聞記事より
平成9年(1997年)9月13日(土曜日)
― 開拓一世紀の節目を祝う ―
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 石川県吉野谷村などの加賀団体23人が明治31年に入植して以来、農業を中心に集落を形成してきた大椴地区が開拓百年を迎えた。11日、節目を祝う記念碑「豊翠郷」の除幕式や記念式典などが行われ、地域住民、町、来賓ら約120人が一世紀の歴史を振り返った。
 記念碑の除幕式は、午前10時から大椴神社前で行われた。百年記念実行委員会の松本省二委員長、開拓入植者の5代目になる三口かなえちゃん(2才)、橋村邦人ちゃん(3才)、橋村瞳ちゃん(5才)の4人が除幕し、礎(いしずえ)を築いた先人の遺徳をしのび、参列者は感謝の気持ちを込めて玉串をささげた。
このあと、会場を町福祉センターに移して記念式典が行われた。松本実行委員長が「開拓百年を迎え、感慨ひとしおのものがあります。これからも地域住民の団結心を一つに、米づくり地帯としての一翼を担って発展を続け、父祖先人の開拓地を立派に継承することを誓います」と式辞を述べた後、80歳以上の功労者4人、大椴地区の歴代実践会長5人に感謝状を贈った。
 新名秀雄町長、菅野兼次町議会議長、中村勝JA小平町組合長らが、これまでの先人や後継者の努力をたたえ「開拓精神に心から敬意を表します」など祝辞を述べた。
 この日は、父祖の地、吉野谷村から太田政義村長ら5人がお祝いに駆けつけ、同村長は「これを機に末長く友好親善に務めていきたい」とあいさつ。祝賀会では吉野谷村がビデオで紹介され、出席者たちは先人の古里の風景を感慨深げに見ていた。

広報 おびら (1997年10月 №824)
“大椴開拓100年”
9月11日、大椴地区の入植100年を祝う記念式典が大椴神社で行われました。
神社境内には開拓100年を記念して、記念碑「豊翠郷」を建立し、大椴地区にまた新しい歴史が刻み込まれました。
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広報おびらより

[記事内容]
9月11日、石川県吉野谷村から入植して100年を迎えたのを祝う開拓記念式典が行われました。
 大椴地区は、明治31年に吉野谷村から23人が入植したのが始まりで、現在29世帯99人が暮らしています。
 100年を記念して大椴神社境内に記念碑の「豊翠郷」が完成、除幕式が行われました。29家族の代表と母村・吉野谷村の太田政義村長、新名町長ら80人が出席。
 5代目となる三口かなえちゃん、橋本邦人ちゃん、橋村瞳ちゃんと松本省二実行委員長が幕を下ろし、碑を囲んで全員で記念撮影を行いました。
 引き続き福祉センターで約120人が出席して記念式典・祝賀会が行われ、80歳以上の功労者4人と大椴地区の歴代実践会長5人に感謝状を贈りました。出席者は、記念誌「おおとどっ子」を手に、開拓100年の歩みを振り返り、母村との交流を深めていました。
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2016年12月17日 (土)

大椴地区を訪問して(5)

大椴子団体の団結移住者規約

 団結移住者規約

 移住ノ目的
第1条 北海道ノ規定セラレタル団結移住ノ要領ニ準拠シ茲ニ石川県石川郡能美郡ノ住民ニシテ従来農業ニ従事スルモノ35戸ヲ以テ団体ヲ組織シ、北海道ニ移住シテ、専ラ農業ニ従事シ自作農タルヲ以テ目的トス。
移住地ハ北海道天塩国留萌郡留萌村字大トドコ原野ニシテ、即チ貸下出願地積54万坪トス。
移住者ハ皆北海道ニ永住スルノ目的ナルヲ以テ移住ノ際ハ貸付予定地内ニ転籍スルモノトス。

第2条 此移住団体ハ桑原権兵衛以下34名ヨリ成立スルモントス。
但移住者ノ内疾病其他
避クヘカラサル支障ノ為、欠員ヲ生シタルトキハ本人若シクハ親戚ニ於テ適当ノ証明ヲ得テ移住セシムヘシ。

 移住者戸数ノ配当
第3条  明治31年ニ於テ貸付予定地ニ総数35戸移住スルモノトス。
     但シ移住者貸付予定地内ニ移住シタルトキハ、其年内ニ於テ総代人ヨリ地元戸長役場ヲ経テ北海道庁ニ届出ヘシ。

 自作小作ノ区別
第4条  此団体ハ各自同一権義ヲ有スル自作農ニシテ土地貸付期限中ハ、小作ヲ為サシメサルモノトス。

 勤倹貯蓄
第5条  移住者ハ勤倹ヲ旨トシ、決シテ著侈ニ渉ルコトヲ為サス。移住ノ翌年ヨリ協議ノ上応分ノ金品ヲ貯蓄シ、一村基本財産ノ基本トナシ凶荒又ハ公共ノ用ニ供ス。
但し貯蓄ノ金品ハ協議ノ上、最確実ナル方法ヲ設け総代人ヲシテ之ヲ保管セシム。

 習俗習慣
第6条   習慣ノ善良ナルモノハ之ヲ保守シ否サルモノハ之ヲ矯正スルコトニ務ムヘシ。殊ニ左ノ各項ヲ遵守スルモノトス。

一、 常ニ親睦ヲ旨トシ苟モ喧嘩口論スヘカラス。
二、 金銭物品ヲ賭シ博奕ヲ為スヘカラス。
三、 祝祭弔慰ノ外隈リニ集会シテ酒宴ヲ開クヘカラス。
四、 冠婚葬祭ハ其分ニ越ユルヘカラス。
五、 忠君愛国ノ気風ヲ養成スヘシ。

 相互救護
第7条     移住者中疾病ニ罹リ若シクハ不時ノ災害ヲ被リタルトキハ相互ニ救護ヲ   
        為スハ勿論万一ノ為メ開墾ノ進捗ヲ妨ケ起業方法書ノ如ク土地ヲ成功セサルノ慮アルトキハ相協力シテ予期ノ功程ヲ拳ヲシムルモノトス。

 移住旅費支弁方法
第8条     移住旅費ハ各自の負担トス。
        但シ時宣ニ依リ団結同盟者ニ於テ8分ノ1ヲ補助スルコトアルヘシ。

        移住後家作器具糧食等諸費用支弁ノ方法
第9条     移住後家作器具糧食等各自ニ必要ノモノハ各自ノ負担トス。

 移住総代人ニ関スル規定
第10条    便宜上団体中ヨリ、桑原権兵衛、吉田佐吉2人を以テ総代トシ左ノ事項ヲ取扱ハシム。
1. 土地貸付付与、其他ニ関シ官庁ヘ諸願届ニ関スル件。
2. 公達命令等伝達ノ件
3. 開墾上管理ノ件
4. 貯蓄ノ金品保管ノ件
5. 規約違戻者処分執行ノ件

 規約違戻者処分事項
第11条   本規約ニ違背シ若クハ左記ノ1、2ニ該当スル者アルトキハ衆議ノ総代人ヨリ一応説諭ヲ加ヘ尚改メサルトキハ、軽キハ、5円乃至10円ノ違約金ヲ徴シ、重キハ本団体ヨリ除名ス。
1. 故ナク開墾ニ従事セサル者
2. 故ナク他ニ転居スル者
3. 農期間他人ヲ誘導シ出稼ヲ為ス者
4. 相互救護ノ義務ヲ果ササル者
5. 本団体ノ面目ヲ汚スヘキ所為アル者

 雑則
第12条   違約徴収金ハ他ノ貯金ト共ニ保管し団体ノ公共事業ニ費消スルモノトス。
第13条   除名者ノ貯蓄シタル金品ハ之ヲ返付セサルモノトス。
第14条   他日移住者中ニ於テ本規約ノ改正ヲ必要トスル場合アルトキハ団体全戸数三分二以上ノ同意ヲ以テ改正スルコトヲ得。
       此場合ニ於テハ当初本規約ノ証明ヲ得タル県庁及北海道庁ノ承認ヲ得ルニアラザレバ実施セザルモノトス。

       但シ移住後ニ於テ改正スルトキハ北海道庁ノミノ承認ヲ受ケルモノトス。
第15条   団体者各自本規約ヲ是認シ且、之ヲ履行スルコトヲ誓ヒ茲ニ記名押印スルモノナリ。

       明治30年9月14日

石川県石川郡吉野谷村  桑原権兵衛 ㊞
〃    〃    吉田佐吉
〃    〃    山崎佐治右衛門 
〃    〃    山本半右衛門
〃      〃    森田新助
〃    〃    吉田与三兵衛
〃    〃    河端清松
〃    〃    田端弥右衛門
〃    〃    森田新八
〃    〃    吉村亀吉
〃    〃    林 仁太郎
〃    〃    桑原惣左衛門
〃    〃    柴山清作
〃    〃    吉本次郎長
〃    〃    林 七六
〃    〃    小林忠兵衛
〃    〃    中川藤右衛門
〃    〃    清水六次郎
〃    〃    北出彦右衛門
〃    〃    柴山与左衛門
石川県能美郡広瀬村   空橋吉兵衛
〃   河野村   谷口三郎
〃    〃    東 市松
〃    〃    北島市太郎
〃    〃    林 石松
〃    〃    松本惣吉
〃    〃    三口九平
〃    〃    岩上石松
〃    〃    橋 与三郎
〃    〃    村井善次郎
〃   河内村   朝日市松
〃    〃    高桑磯助
〃    〃    山田市太郎
〃    〃    岩下甚作
〃    〃    岩崎権兵衛
石川県能美郡河内村 吉田与市

本文取調候処相違ノ義無之此段証明候也
明治30年10月23日
石川県知事 古 沢  滋
(『小平町史資料』第一編所葺)

大椴子団体の団体移住民人名変更願
団体移住民人名変更願
石川県石川郡吉野谷字吉野
退団者名 山崎佐治右衛門
       山本半右衛門
       森田新八
       岩崎権兵衛
       清水六次郎
       田端孫右衛門
       山田市太郎
       吉村亀吉
       林 七六
       合10名

加入者名
石川県石川郡吉野谷村字吉野    小笹市松
         〃     〃      石田権次郎
         〃     〃      小笹小三郎
         〃     〃      岩倉石次郎
石川県能美郡河野村字三坂     谷口三松
         〃     〃      中出権六
石川県中海村字嵐           谷 善右衛門
石川県粟津村              朝日市松

 右ハ明治30年9月桑原権兵衛外34名北海道天塩国留萌郡天登雁村字トドコ原野ヘ移住ニ付御証明願置候処前記山崎佐治右衛門外10名ノ者家事上ノ都合ニ依リ渡海不能候ニ付、更ニ前顕、小笹市松外7名ノ者団結移住民中ヘ加入致度候最モ該規遵守可仕候間団結移住民人名変更ノ義御証明成下度此段奉願候也

                      明治31年6月23日
                団結総代人  桑原 権兵衛
                秋田県北秋田郡扇田町四百四十番地
                当時北海道天塩国苫前郡羽幌村寄留
                         右代人    小村 乙吉
石川県知事  古沢滋殿
本文取調候処相違之廉無之仍テ証明ス
明治31年7月6日
石川県知事  古沢 滋
(『小平町史資料』第1篇所収)

6月に団体移住者の人名変更願を県庁経由で道庁に提出し、あらたに加入した8戸の入植が完了するまで貸付地予定存置の要件である移住期間を1か月7月末とするよう願いでた。

 移住予定存置地延期願
 天塩国留萌郡天登雁村トドコ原野桑原権兵衛外34名氏名確定移住予定存置ノ件、明治30年11月21日庁天第4354号ヲ以テ御許可相成候処、予定存置期限ハ本年6月30日迄ニ付当日迄移住22戸残リ13戸ニ対シ先般来招迎ノ為メ石川県ニ出張中ニ御座候間、来ル7月30日ヲ限リ移住相成度何卒特別ヲ以テ予定存置地ニ付期日迄御延期御(許)被成下度此段願ヒ候也
 
               石川県石川郡吉野谷村
               当時北海道留萌郡天登雁村トドコ7号線39番地
               移住総代   桑原 権兵衛
明治31年6月30日
  北海道庁長男爵    安場 保和殿
(『小平町史資料』第1篇所収)

北海道庁の大椴子団体移住者臨検調書
第7号  臨検調書
 石川県石川郡吉野谷村
 桑原 権兵衛
 外34名

 明治30年11月21日天塩国留萌郡天登雁村字トドコ原野及同国苫前郡羽幌村字築別原野ニ於テ桑原権兵衛外34名ハ、予定存地シタル未開地54万3028坪ニ対シ明治31年8月15日及同月22日団体総代桑原権兵衛ヲ立会セシメ検査ヲ遂ゲタルニ左ノゴトシ

一、明治30年11月21日北海道庁指令第4354号3項、明治31年6月30日迄ニ移住シ了ルベキ戸数、35戸ナルニ数真は充タズシテ本年4月25日18戸ノミノ移住ナルヲ以テ、該命令ニ違反セリ。

一、移住者ニ要スベキ区域及坪数ハ、天塩国苫前郡羽幌村字築別原野南5線27番、1万5000坪、同国留萌郡天登雁村字トドコ原野基線7番9番19番20番ニ18番30番31番21番12番22番24番26番37番32番45番46番47番48番27番29番6番8番10番43番42番44番25番39番35番北1線44番、坪数ハ21万9308坪ナリ。

一、移住者中、氏名確定以外ノモノニシテ現今開墾着手中ノモノ築別原野ニ於テハ岩上吉次、松井宗衛、小林乙吉、トドコ原野ニ於テハ朝日又三郎、空橋八三郎、三口助佐、吉本駒平」ナリ。

一、移住者予定ノ如ク移住シ能ハザル原因ハ本年諸物価昇騰ニ連レテ移住者生国ニ於テ所有スル動産又ハ不動産ニ変動ヲ生シ、為ニ移住ヲ計画シテ而シテ所有財産整理上ニ影響ヲ来シ結果遂ニ移住スベキ、期限ヲ愆マリタルモノナリ。
一、現今開墾坪数ハ凡、10万坪ナリ。

 前記ノ通リ相違無之ニ付此ノ調書ヲ作リ立会人ニ読聞セシ処相違違ナキ旨申出タルニ付共ニ署名捺印スルモノナリ。
  明治31年8月22日
北海道増毛支庁出張員
属    今井 龍三郎
事業主  清水 正雄
立会人団体総代
     桑原 権兵衛
此書面ハ出張先ニ於テ作リタルモノニ付官署ノ印ヲ押添スルコト能ハス。

2016年12月11日 (日)

大椴地区を訪問して(4)

ここで大椴地区開拓の偉人について記しておきたい。

小林乙吉の功績
殖民地指定の大椴子原野を紹介し、現地視察の案内をした人、それは前記したとおり小林乙吉で、苫前郡羽幌町築別原野に居住営農していた人であるが、この人は親身となって協力を惜しまず、団体結成の時は桑原市太郎らと石川県に同行して、団員勧誘に当たり、現地の模様や将来性、北海道の気候、作物や作付要領、土地の無償付与などにわたって詳細を説明、移住応募者に大きな希望と強固な団結心を与えてくれた。(自らも団体の一員として加わろうとしたが異県人(秋田県人)を理由に不許可となった)団体移住後も我がことのように、生活維持などにも奔走して物資を斡旋するなど、苦難乗り切りに尽力してその世話を惜しまなかった。
同32年大椴子殖民団体組合員は土地拡張を計り、第2次貸付願いの手続き方を小林乙吉に一任した。
乙吉は代人となって同年3月鬼鹿港から汽船福神丸に乗り増毛支庁に向かう途中、留萌沖でシケに会い遭難沈没、ついに生涯を終えている。
明治36年全地成墾して土地は各戸に付与され一同大いに歓喜したが、このとき異口同音に小林乙吉の「恩義を忘れてはならぬ」とし、協議して同38年乙吉の7回忌に当たり、碑を3線15番地に建て永くその徳を偲ぶことになった。(現在は大椴神社境内に移し、その功績を讃え残されている)
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                              (小林乙吉の顕彰碑)

団結と苦闘生活
本団体は、最初石川県石川郡吉野谷村及び同県能美郡河野村(後の鳥越村 )の人々で組織したもので、この郷里は、耕地が狭く人口益々増加し、いよいよ狭隘の感が強まるとき、大椴子原野殖民団体の話が持ち込まれたので、
応募者は意外に早くまとまり、一年前に渡道小作する者も合わせて35名の移住入植の請願手続きとなったのである。
この時「団結移住者規約」が誓約されている。
この団体組織に当たって15か条にわたり誓約がなされ、北辺未知の異郷に骨を埋める覚悟を決めたのである。
わずかながらに所持する動産、不動産など一切を処分し、再び立ち戻ることのないよう決意して渡道したのである。同郷人ということもあろうが、生死を共にする同士35名は組長を中心に和心協力して互いに助け合い、激励し合って農事に務め、併せて共同して道普請に、橋架けに、神社の建立、門衆徒の説教場、学校の建設と苦闘の中でよく新郷土建設を短い期間で成し遂げことは、他に例のない殖民地とし、当時視察した道庁係官の報告文からもよく伺えるのである。
次にその団結移住者規約と殖民地状況調査の一部を掲げ、開拓当時の苦労をうかがうこととする。
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                              (団体入植顕彰碑)

2016年12月 7日 (水)

大椴地区を訪問して(3)

小平町文化交流センターの中にある図書室で小平町史を閲覧していたのですが、大椴の歴史が書かれた書籍は見つかりませんでした。
小平町役場まで足を延ばし役場の方に来意を伝えると大椴の歴史に関しての資料をコピーして頂くことができました。
今回提供を受けた資料を掲載することとしました。

第12節 トドコ(大椴)原野の入植と開拓
区画割りと団体結成
この原野は明治31年の貸付地で、同年4月に石川県人が団体を組織して入植し、わずか3ヶ年間でその殆どを開拓したという。
辺境の小原野ながらよく団結してまとまりある平和郷が作られている。

明治29年3月石川県石川郡及び能美郡から北海道雨竜郡北竜村(沼田町)本願寺農場や空知郡奈井江高島農場等に十数戸が小作農として移住していた。
この年4月、政府は北海道の拓殖政策を一層進めるため、拓殖務省令で、「北海道移住民規則」を定め、各府県知事に団結移住者を証明させ、一方北海道庁はこの受け入れ体制を整え、移住者のため他の個人出願者より優先的に土地を貸付することになり、また事情やむなく団結移住が遅れることがあっても、期限を限って貸付予定地を残して置くという優遇処置も取られるにした。
このことを知ってか翌30年奈井江高島農場の小作者吉本駒太郎、桑原権兵衛など、同じ荒地開墾で苦労するならば、自ら土地の貸付を受け、将来自分の土地とすることが有利と
しながらも団体入植の適地がわからず、雨竜郡本願寺農場にいた森田駒太郎などを道内各地に土地探しに出張させた。
駒太郎はたまたま苫前郡羽幌町築別原野で小林乙吉に会い、未開地トドコ原野を聞き父新助に報告した。新助の長男政吉及び権兵衛の子桑原市太郎は駒太郎と合流、小林乙吉の案内でトドコ川下から小船で同原野を数日間探検し適地であることが確かめられた。直ちに各農場に小作する同郷人に呼びかけ、18名の団体者がまとまった。なお、不足数17名は小林乙吉と市太郎の両人が郷里石川県に行きこれをまとめたので、早速石川県庁を通じて道庁へ手続きし、同年11月土地35戸分の貸付が認可されたのである。

入 植
衆望を受けて桑原権兵衛は移住団体の総代となり、同年2月道内組中9名(桑原市太郎、林仁太郎、東市松、谷口三松、松本宗兵衛、三口助佐、森田新助、吉田与三郎、北島伊三郎)を現地に派遣して着手小屋3棟(間口三×奥行十数間)を作り、入植の準備をした。
翌31年3月下旬、道内組は堅雪を渡って旧住所引払い、4月1日18戸が事現在地に到着した。
一方郷里組は17戸中の7戸も同月中旬に伏木港から小樽港に寄港しながら間もなく到着したとあるが、詳細のことは不明である。
ここに合計25戸が入植したが、同年6月退団者10名の代替に新規加盟者8名の手続きとこの人々の貸付予定地の存置延期願が出されていて構成団結者35名には変わりがなかった。(2名の不足については臨検調書で指摘されている)

土地の配分
当初の土地請願が35戸で大椴原野と築別原野とで54万坪(180町歩)であったが、築別は高台の粘土地で瘠せ地のため、これを返地し大椴原野だけとした。従って1戸平均5町歩(1万5千坪)のところ減少して約4町歩弱(約1万2千坪)となった。しかし郷里の5反百姓に比べて実に広大であり一同了解し全労働力をこの原野に注入することにしたのである。
大椴原野は河川が蛇行しており、土地は凹凸した狭長な原野である。海岸の近くは平坦だが、カヤ、ヨシ、ヨモギなどの草地で地味不良であるのに比べ、奥地方で川の南側地帯は肥沃密林であることから区画配分に当たり、配当地積の半分を下流平地に、半分は上流にと公平を計り、抽選して決められたので誰一人として不平を漏らし者はいなかった。

入植開墾
入植した時はまだ雪深く、更に3棟の共同小屋を建て増して分宿し、数日を 費やしして雪上実測しながら各戸の土地を確認した。
休む暇もなく所有地内の伐木がにわかに開始されたことはもちろんであるが、これと並行して共同で荒路ながら切り開き橋を架けた。( 丸太2本を並べて渡して、ブドウ蔓で数カ所を縛った物)
融雪を待ちかねて開墾し始めた時は4月も半ばを過ぎる頃であった。
郷里は米作地であり、荒地の開墾は全くの未経験者ばかり、2年先輩の空知、雨竜からの人々に要領を聞きながらの開墾には、歯を食いしばっての苦闘だった。
伐木を片付け、丸鍬で表土を削るのももどかしく、遅れがちの蒔付けである。皆自家用食料作物(粟、いなきび、とうもろこし、麦、ひえ、そば)であった。そして蒔付けが終わった6、7月には各戸が自作地内に住居小屋(掘立2間×3間位)を作って移り住んだのである。

災害と協力
この年、3回にわたって大水害があり、川近い低地の人家が何軒も流された。加えて害虫、野ネズミ、兎の被害、早霜と続き、殆ど収穫皆無で、わずかに馬鈴薯が少々獲れた程度の惨状であった。
総代の桑原権兵衛は人々を大いに激励し、今こそ団結協力の時を主張、先達となって節約を履行し、互いに助けあつた。また協議して鬼鹿の商家(住吉安蔵等)から薪炭や収穫物と交換条件で、米、味噌を借入れ、蒔付けの仕込みを仰いだので、飢えをしのぐことができ大いに救われた。
この時が一番苦しかったという。

組合結成と馬耕
入植2年の春を迎え、郷里から7戸の団体者が増えた。
築別入地の予定者であったが、前記の通り返地したのでその全員を吸収し、すくなきものを分け合って開墾に務めたので、この年大いに進展し、その大半を開くことが出来た。
組長(明治32年結成して大椴子植民団体組合と称し、引続き権兵衛組長となる)は2ヶ年の経過から思うところがあり、開墾は人力ばかりでは容易でなく、馬耕を取入れるべきだとして、その資金調達の一策に炭焼きを奨励し、貯金をさせ、翌33年2、3戸組みを作り共同で馬と農具を買い、馬耕したので大いにはかどることができた。
幸いに同年良作であったので殆どの家が馬を買い、3年間で可耕地の全域を成功させることができ、人心ようやく安堵することができた。

部落の形成
入植直後は生抜くための苦闘続きであったため、子弟の教育のことを問題にする余裕はなかったが、3年目の作柄を見てようやく愁眉を開くまでになり、組合員が金二百余円を集めて学校を建てた。
道路も大いに手を加えて人馬が楽に通行出来るほどに手直しをした。
また入植時祠(ほこら)に天照大神を祀る標柱を立てていたが、翌年祠を建て、また同年輪番制の説教場(1年持回り制)も設けられていたので、一応部落の形態が出来たのである。
しかし負債は大きく残っていて人心必ずしも安定せず、2年目(明治32年)8月までに組合の負債額3,200円余りもあり、利息(3分)の支払いに苦しんでいた。
この時団体者といえどもその意見は一致せず、一時騒然としてさすがの団結も危ぶまれたこともあったが、鬼鹿村伊藤富太郎の仲介でまとまり、数年後には債権者の寛大な計らい、五カ年の年賦払いに切替えられ、円満に解決を見たということもあり、しばらくの間は余裕のない貧困生活が続いた。

道 路
明治36年、1線から8線までと、北2線までの殖民地道の開削工事が組合全戸の共同奉仕によって行われた。
これまでの3尺(約90cm)道路から9尺(2.7m)道路に拡幅され、馬車(2寸幅車輪)も通行可能となった。
しかし、まだまだ粗悪なもので雨後は馬車はおろか、人の歩くのにも困難する状態であった。
大正3年に砂利を敷いてからはこの難路も一変して良くなった。

2016年12月 3日 (土)

大椴地区を訪問して(2)

大椴集会場の横の道の奥に大椴神社があります。
P7160111                           (大椴地区集会場)
P7160112                (集会場の横の道を奥に進むと大椴神社がありました)
P7160113                       
                         (大椴神社と開拓百年記念碑「豊翠郷」)

P7160114                        (開拓百年記念碑「豊翠郷」)
P7160115                               (記念碑の碑文)

豊翠郷の書かれている碑文です。

今、私たちが深い緑の山々に包まれ、母なる川の
せせらぎを聞きながら、恵まれた生活の中で近代
的農業経営のできるこの幸せと喜びは、先人達が
希望と情熱に燃え明治32年、往古欝蒼たる大
森林に初めて開拓の鍬を入れて以来。過酷苛烈な
る自然に血と汗と涙を強いられ、泥にまみえながら
も遥かな未来の美田を夢見て、常に霜露を踏んで
煙霞を溌き、文化に教育あるいは産業にと開拓魂
を打ち込み、郷土の建設に終生を捧げられた尊い
努力の賜物であります。
 厳寒の生活に耐え、辛苦の農耕を続けて星霜を
重ねること百年。
この偉大なる先人たちの遺徳を偲び深く感謝の誠
を捧げると共に、併せていつまでも変わらないみど
り豊かな故郷として、愛され続ける大椴の限りな
い発展と地域住民の益々の幸せを願いここに本記
念碑を建立するものである。

大椴開拓百年記念碑 建立者
松本省二  桑原健治  森田政利
松本 勲  橋村松造  山本哲雄
岩倉 晃  森田秀三  川崎和夫
桑原伸之  東藤 久  有路洋子
林  良  橋村 勝  川崎巳敏
空橋寿美  空橋富士夫 小笹錠一
出村 昇  佐藤俊則  桑原力雄
橋村 勉  村居直義  桑原清志
森田秀昭  河端利夫  戸草内末松
東藤 偉  三口佐一  佐藤サト
村井キヨ  橋村 博
題字 小平町長 新名秀雄 謹書

2016年11月28日 (月)

大椴地区を訪問して(1)

小平町大椴(オオトド)地区を訪ねて
大椴の地名を読める人は少ないと思う。
大椴の地名はWikipediaでは、アイヌ語で「山の端」をトゥトゥクといい、この付近には大小の「トゥトゥク」が連なっていた。
そのうちの大きなものに「大椴子」と当て字され、語尾の「子」が略され「大椴」の地名になった。

平成27年7月 旧吉野谷村史で大椴地区に移住した人々を知り、一度は訪れたいと思っていた地を訪ねることが出来ました。
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               (地図上で①の位置が大椴の位置です)

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(国道232号線と道道958号線の交差より東方向に進むと大椴集落があります)

留萌から国道232号線を海岸沿いに約10㎞北上すると小平町です。
小平町は白亜紀の化石が見つかる場所でもあり、小平町で発見されたハドロサウルス(カモノハシリュウ)恐竜化石のレプリカ(複製文化交流センターに展示されている、)
小平町からさらに7km北上すると大椴方面は右折と道路標識板が現れました。
P7160127
大椴川を渡り右折すると道道958号線となります。この道路は大椴集落を過ぎると行き止まりとなっています。
P7170129

国道232号線と並行して国鉄の羽幌線(留萌―羽幌)がありました。大椴駅もありましたが昭和62年に廃線になりその軌道後には草が生い茂っていました。


道を東に進むと北海道の広大な風景とは違い、内地の田舎でよくみられる両側に小高い山が続き、道沿いには川が流れその周囲に田畑が広がる風景があります。
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きっと当時入植した人々は郷里の吉野谷村の風景と重ね合わせて見ていたのではないかと思える場所です。
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舗装された道を進み大椴子川を何度か渡ると目指す集落に着きました。
集会場横の道を左折し進むと大椴神社があり、開拓百年を記念して建立された「豊翠郷」の記念碑があり、神社の横にはこの地で眠る住民の墓地があります。

2015年5月21日 (木)

7.白山麓5村からの北海道移住者のまとめ

村史を調査した結果、多くの村人が墳墓の地を離れ新天地である北海道へと移住した記録がありました。
これらの多くは白山麓で共通しているのは、大雨による手取川の氾濫で川沿いの生活道路、田畑の流失や崩壊、そして家の流失等が重なり生活基盤が無くなったため、やむなく慣れ親しんだ生地を捨て、新天地を求めた記録でもあったのです。
 ここで白峰村、尾口村、鳥越村、吉野谷村、河内村からの北海道移住者数をまとめてみました。

 白峰村からは61戸が北海道へ移住した。
・明治29年の大水害で明治32年には半分の30戸が北海道へ移住した。
・昭和9年の大風水害で耕地を失った多くの農民が北海道その他へ離村していった。
・福井、石川県以外で圧倒的に多いのが北海道の61戸、大阪26戸、京都府18戸、滋賀県17戸、岐阜県10戸、愛知県8戸、東京8戸といった数になるのである。
・市之瀬・赤谷・三ッ谷は明治の初めの大火で書類関係が焼失しており、明治29年の風水害で耕地が喪失したがその記録は残っていない。
 全戸数は約170戸であった。

尾口村からは30~40戸が北海道へ移住した
女  原から明治22年頃に10戸位が北海道へ集団移住
東二口から明治29年頃に水害により戸数は不明であるが北海道へ移住
釜  谷から明治31年の大火で5~6戸が北海道へ移住
鴇ケ谷から明治末期10戸位が北海道へ集団移住
東荒谷から明治末期数戸が北海道へ集団移住
資料により集計すると、明治22年から明治末期まで約30~40戸となる。
明治中期~末期までの戸数は約800戸であった。

 鳥越村からは明治23年から明治末期までに106戸が北海道へ移住した
北海道への移住先表(鳥越村の項を参照)により、明治23年~大正13年までの移住者数は121戸となっている。
 明治23年の釧路の太田屯田兵村に2戸が入植したのを始めに27年~37年にかけて江別乙屯田兵村に19戸が入植している。これは屯田兵制度が終了したので入植者を頼っての移住と考えられる。

 明治30年には石狩郡新篠津村に20戸、雨竜郡雨竜村に12戸が集団で移住している。
明治22年の全戸数は1197戸であった。

 明治29年に(1896年)に篠津村から分村、新篠津村となった。鳥越村史では明治30年に20戸が入植したとなっていることから、新篠津村役場に入植者氏名について問合せました。

「平成8年に発行しました「新篠津村百年史」を調べたところ、明治30年頃、平安農場という地域の開拓に石川県の方々に協力をいただいたような記述がありました。
しかし、鳥越村とは書かれておらず、また、当時入植したかたのお名前も書かれておりませんでした」との返答でした。そして「新篠津村百年史」の抜粋のコピーも頂いた。
 「平安農場では明治28年(1895年)に小作人の小屋を57棟作り、翌年春に石川県に人を派遣して、小作人32戸を募集して移住させた。その次の年には、さらに24戸を移住させている。

小作人には渡航費用のほかに米や味噌、農具、種子料などを貸し与えて、定着を図った。
しかし、明治31年(1898年)に大水害が起きたため、緊急の手当を出してしのいだが、翌年には小作人34戸が相次いで農場から去った。」(年表では明治30年に石川県から24戸が平安農場に到着となっている。そして、翌年の水害被害で明治32年には移住者の大半の34戸が他に移住して行き、消息が不明となっている)

 明治30年の鳥越村から渡道したのは20戸で、平安農場に入植したのは24戸とすれば同時期の渡道であり、鳥越村からは平安農場に入植したのではないかと推考される。とすれば残り4戸については近隣の村からの渡道であったのであろうか?
 今後の調査で判明することを期待したい。

 吉野谷村からは120戸が北海道へ移住している。
北海道への移住の動向について資料を検証していくと、吉野地区からは58戸で最も多く、全体の49%である。

奈井江町の高島第一農場が16戸、池田町の高島第二農場が12戸で半分が高島農場の小作人として入植している。

市原、木滑地区からは各々17戸が移住し、中宮地区からは16戸、佐良地区6戸、瀬波地区4戸、木滑新2戸となっている。合計120戸である。
明治17年の戸数は683戸である。

 河内村からは4戸が北海道へ移住した。
 河内村史の中からは北海道移住の資料は見いだせなかったが、吉野谷村史の中で「大椴子団体の団体移住民人名変更願」の中で4家族が天塩国留萌郡天登雁村トドコ原野に集団移住した。
 明治17年の全戸数は683戸である。

白山麓5村から明治時代に北海道へ移住した戸数は合わせて約330戸であり、
白山麓5村の全戸数は約3,500戸なので約1割近くの家族が北海道へ移住したこととなる。

あとがき
 私が北海道への開拓移住者の調査を始めて記録として残すことになったきっかけは、平成24年3月に旧加賀藩士が士族授産事業として北海道開拓移住し、前田村を作ったたことを調査し「北の農士たち」を記録としてまとめたことからでした。

その後、北国新聞で取上げられ読者の方から「自分の地元からも北海道へ移住して行った」と何人かの方から連絡をいただきました。

知人からの紹介で、尾口の公民館長さんを訪ねたところ、白山麓から沢山の村人が北海道へ移住したこと、尾口村から空知郡奈井江に渡道した方々と現在も交流があると話されていた。

また、白峰の民族資料館の館長さんからは「白山部落開拓60周年記念誌」、白山開拓100周年記念誌「我らが郷土 白山」の記念誌を貸して頂き、その記念誌の中から貴重な証言や記録を摘録することが出来ました。

 図書館で各村の村史を調べ、各村の立地条件と北海道への移住の関係を出来る限り村史から摘録することで、住み慣れた住環境を捨ててまで北海道へ移住した人数を把握したかったのですが、100年以上前の役場資料として廃棄されている可能性もあり、また当時のことを知る人もいないのが現状であったので、移住者名と移住先を追跡することの難しさを実感しています。

 吉野谷村史では村史編纂委員の方が、道庁図書館資料の調査や奈井江町での調査を含め精力的に活動したした結果が記録として後世に残る貴重な資料となるでしょう。
北海道移住者調査を始めたばかりですが、北海道開拓者の転出という事態が歴史の狭間に埋もれてしまっているのを、掘起すような長い道のりにさえ思えるのですが、渡道した人々が今の北海道の礎を作ったのは間違えのない事実でもあります。

 今後も各市町村史から北海道への移住者調査を行って行きたいと思っています。
 この調査にご協力いただいた多くの方々に感謝申し上げます。

参考文献として下記の資料を参考にしました。
白峰村史、尾口村史、鳥越村史、吉野谷村史、河内村史、金沢市史
「白山部落開拓60周年記念誌」、白山開拓100周年記念誌「我らが郷土 白山」
白峰村民俗資料館パンフレット、奈井江町ホームページ
WEB:Wikipedia、WEB:十勝の記憶デジタルアーカイブ
北国新聞昭和6年9月22日、

2015年3月27日 (金)

5.吉野谷村からの北海道開拓移住者について

 吉野谷村からは120戸が北海道へ移住しています。
北海道への移住の動向について資料を検証していくと、吉野地区からは58戸で最も多く、全体の49%となります。

奈井江町の高島第一農場が16戸、池田町の高島第二農場が12戸で半分が高島農場の小作人として入植しているようです。

市原、木滑地区からは各々17戸が移住し、中宮地区からは16戸、佐良地区6戸、瀬波地区4戸、木滑新2戸となっている。合計120戸が開拓移住していることになります。
明治17年の戸数は683戸である。

「吉野谷村からの開拓移住」をPDFで閲覧ください