小松からの開拓移住者

2017年11月 4日 (土)

北桧山区の太櫓地区への布教活動の移住者達(3)

光玄寺の寺院商号は「真宗大谷派 潮騒山光玄寺」となっていました。
 光玄寺の左横には鳥居が建っており、神社がありました。帰ってから調べると言代主神社という神社でした。
 光玄寺様に訪問しましたが、住職さんは不在で詳しいお話を伺うことができなかったのですがこの地を訪れることで内心ほっとしました。太櫓海岸と光玄寺の全景を写真に収めてきました。

Img_1229_3                  (真宗大谷派 潮騒山光玄寺)
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                       (駐車場より寺院を見る)

 太櫓海岸は約200m位の砂浜がある海岸で海水浴場になっていました。
 鰊漁が盛んな頃はこの海岸では網を使って直接漁を行い、活気のある風景だったのでしょうか?そんな思いを後にせたな町の図書館に向かいました。
Img_1231_2Img_1230_2Img_1232_2                  (太櫓海岸海水浴場)

 せたな町の役場は土曜閉庁となっており、せたな町情報センターに向かいました。
 情報センターの図書室の受付で来意を告げせたな町の町史の場所を聞くと親切にその場所まで案内してくれました。
Img_1224                          (せたな町役場)
Img_1225                   (せたな町情報センター)

 太櫓に関して色々な著書を調べてのですが、明治に石川県から太櫓に移住したとは書かれていますが、私の知りたい事柄については記述がありません。
 それでも、参考なればとコピーサービスをお願いすると。コピーは可能ですが、代金の支払いは月曜日に役場の方で支払いとのことだったので、コピーは断念しました。
 結局、図書館での収穫は著書の名前を書き写しただけとなり、図書総合貸借で借用して詳細を調べることにし、太櫓の調査を終了しました。

2017年10月28日 (土)

北桧山区の太櫓地区への布教活動の移住者達(2)

平成29年7月22日 

光玄寺に手紙を
布教の為に住職を派遣した小松市串町の「光玄寺」に下記の要旨のについて教えていただきたく手紙を書きました。
・北海道の江差の北にある「太櫓」地区に布教の為に串の住民が移住した記録が町史に載っていました。
・なぜ江差から遠く離れた辺境の地での布教活動だったのでしょうか。
・串町史を調べ、その中で開拓移住が決まった時に「光玄寺」の境内で親類との別れを惜しんで涙したと記述がありましたが、当時の記録などは残されていないのでしょうか。
・太櫓地区に移住された方の記録はないのでしょうか。
これらのことについて手紙の返事はもらえませんでした。

 当時はニシン漁の最盛時期で多くの漁師が北海道へ行っていましたが、漁期を過ぎると帰郷していたようです。
 開拓移住によって開拓した土地が個人所有になるという夢を抱き多くの人が未開の北海道へと移住したのに比べ、海岸と山に囲まれた偏狭な地に布教の為と何人かの人達が移住したことが分からないまま調査は中断してしまいました。

太櫓の光玄寺に手紙を
北海道旅行が決まり、この地区を訪ねたいとの思いから太櫓地区の光玄寺様宛に調査のお願いをしました。
 「石川県能美郡串村(現在の小松市串町)から後志の倶知安へ開拓移住した方々を調べ、一昨年倶知安町の円融寺様を訪れ住職様の奥様から「加賀団体入墾記念の崇徳碑」に関してお話を伺うことが出来、記念碑を写真に収めてまいりました。

その後、倶知安への開拓移住で串町史を調べておりましたところ、真宗の普及の為に
北海道へ多くの宗教の関係の方が渡道され布教活動をされたことを知りました。
 当時の串村からも太櫓地区に串の住民と共に布教の為に渡道したと町史に記述がありました。
 光玄寺様は小松市串町の光玄寺様と同じ名前でしたので、もしかしてご先祖様は同じかと勝手に解釈してお話をさせていただいておりますが、もし間違いなら申し訳ありません。

この太櫓地区には串村から移住された方はいらっしゃいますでしょうか?
移住した方の移住当時の氏名と移住年が分かる資料等があれば教えて頂ければ幸甚に存じます。」

太櫓地区の光玄寺様から返事が
『北海道の太櫓町の光玄寺で住職を務めている佐竹と申します。
先日は、ご丁寧なお手紙をお送りいただき誠に有難うございました。

さて、お手紙に書かれていた通り、当院は小松市串町の光玄寺から分かれて北海道へ入植した寺院であります。
入植したのは、明治14年10月であり、門徒数十名と共に海を渡ったと聞いております。
しかし残念な事に、資料不足と厳しい時代背景のためか、当院の方で分かっていることはこれだけであります。
幸い、数十年前に小松市の方から歴史に関わる調査として来られたそうなので、市でまとめられた内容はそちらで拝見できるかと思います。

そして、 串村から太櫓に移住された方々の名前等ですが、こちらも残念ながら分かりませんでした。
世代交代の流れと、人口の減少、その中で親から子への伝承が途切れてしまったのかも知れません。
私の祖母の遠い記憶から、串町の子孫だと思われるご家庭が1∼2件上がりましたが、何分不確かな記憶なので苗字の明記は控えさせていただきます。

ご連絡が遅れてしまい、誠に申し訳ありませんでした。
開拓使の調査の成功を念じております。 

合掌  』

2017年10月23日 (月)

せたな町北桧山区太櫓への布教活動での移住者達(1)

平成29年7月22日 太櫓地区を訪ねて

今回訪ねたのは北海道久遠郡せたな町から約10km海側を南下した北檜山区太櫓です。
せたな町の太櫓(ふとろ)地区は明治14年に石川県能美郡串村(現在の小松市串町)から浄土真宗の布教活動の為に串村村民と共にこの地に移住したと記録にありました。
串村から北海道へ開拓移住した歴史を調べている時に太櫓地区への布教活動で村民と共に渡道した。しかも一般の開拓移住の始まる前でもあり興味を惹かれる事象でもあり今回訪ねることにしました。

Photo                      (北海道桧山郡)
Photo_2                    (せたな町太櫓区)
地勢
せたな町は道央道の国縫ICから国道232号線を約42km離れた場所にあります。また、太櫓地区から江差までは海岸線を走り約80km離れた場所でもあります。
岩内から寿都町から弁慶岬を廻り国道229号線をひたすら海岸沿いに南下します。
Img_1214Img_1212                        (弁慶岬)


せたな町の手前で国道から右折し道道740号線を海岸線に沿って車を走らせると太櫓海岸です。岩内から約120kmでした。

太櫓の集落は西側には日本海、東側には丘陵地帯が迫っておりそのわずかな間を道道740号線が通っています。
太櫓地区の人家も僅かながらの平地を見つけて建物が建てられているように感じられるのです。
Img_1227Img_1229Img_1226                           (光玄寺)


 GoogleMapのストレートビューで調べると太櫓海岸の所に「光玄寺」というお寺があることがわかりました。

2015年9月27日 (日)

坂本竹次郎エピローグ

7月の北海道取材旅行から帰ると、一通のメールが届いていました。

「メ-ルにて、大変失礼致します。
坂本竹次郎について、ご掲載いただき、誠に有難うございます。
私は、坂本竹次郎の孫です。私の父、坂本竹男は、竹次郎の長男でございます。
私の両親もすでに他界しており、私自身、祖父のことが知りたくて、ネットで調べていましたら、こちらのブログを拝見しました。
私は、石川県に一度も訪れたことがなく、是非、祖父の生家、丸竹橋や神社にも訪れたいと思っております。」


北海道へは無線LANのFREESPOTに登録し、パソコンを持参していたのですが
ネット環境が悪く接続できませんでした。
もし、旅行中にメールを見ることが出来れば坂本木材の流送地についても少し調べられたのにと思いました。

帰宅後メールの主旨を滝ケ原の下坂様に連絡し、日高町の流送地である沙流川の写真を印刷し下坂様を訪問しました。
以前お聞きした下坂様のご両親は既に他界していましたので、沙流川の写真をお見せすることが出来ず残念に思いました。

私も坂本竹次郎について調べた「坂本竹次郎と流送」という冊子を坂本様の来訪までには製作することができました。

滝ケ原の方々と連絡、調整の結果、9月の某日に来訪頂くことが出来ました。
坂本様と滝ケ原町の方々とで竹次郎氏の寄贈された「丸竹橋」や「生家」、牧八幡神社跡の境内に設置されている坂本竹次郎氏の石像を案内しました。

Photo_2                         丸竹橋
Photo_3                        丸竹橋説明文

滝ケ原町に居住されている90才の故老の方とも面談することが出来、竹次郎氏が滝ケ原を訪ねて来た当時の思いでや、当時の貴重なお話を伺うこともできました。
滝ケ原八幡神社に寄進された石で出来た大鳥居を眺めて改めて祖父の偉大さが分かったと話されていました。

最後に竹次郎氏が旧の那谷小学校に寄進された「奉安殿」。この中には天皇皇后両陛下の写真と教育勅語が納められたそうですが、終戦後にGHQの命令で多くが取り壊されたそうです。
この奉安殿は破壊を免れ那谷寺の横に戦没者慰霊塔として移築されていました。


坂本様は「祖父が皆様と引き合わせてくれたのだと思います。これからは自分の為にではなく、人の為に出来ることをしなさいと教えているようだ」
と話されていたことが印象的でした。

東京都と滝ケ原の為に懸け橋となるような活動をしていただけると、私が調べた甲斐もあると思うのです。

今後は滝ケ原のことで新たなカテゴリーのページが開けるように祈念します。

「坂本竹次郎と流送1/4.pdf」を閲覧ください」

「坂本竹次郎と流送2/4.pdf」を閲覧ください」

「坂本竹次郎と流送3/4.pdf」を閲覧ください」

「坂本竹次郎と流送4/4.pdf」を閲覧ください」

2015年9月19日 (土)

坂本竹次郎の足跡をたどる

平成26年5月5日 北国新聞記事より

小松滝ケ原では鞍掛山を愛する会のウオーキングイベントとして「坂本竹次郎さんの足跡を訪ねて」が行われた。

参加者12人が坂本竹次郎ゆかりの地を巡りながら5キロをあるいた。
ウオーキングの後、食事交流会を開き郷土の偉人に理解を深めた。

20140505

2015年9月16日 (水)

坂本竹次郎の新聞記事より

平成26年1月24日 北国新聞より

『小松・滝ケ原出身 北海道開拓の坂本竹次郎』
小松市滝ケ原に明治4年に生まれた坂本竹次郎が20才で北海道へ渡り、原始林を伐採し河川を利用して事業を成功させ、郷里の滝ケ原に「丸竹橋」と呼ばれる石組のアーチ橋を建設。教育逐語などを安置した「奉安殿」を那谷小学校に寄付するなど郷里に錦を飾ったことから、功績に感謝した地元民が資金を出し合って建立した坂本竹次郎の石像が残っています。

坂本竹次郎の功績を知らない世代が増えたため、「里山自然学校こまつ滝ケ原」の山下豊副塾長は、郷土の偉人の坂本竹次郎を知ってもらうため足跡を訪ねるウオーキングイベントを計画しているという記事です。

20140124       那谷寺に移設された奉安殿(現在は戦没者慰霊塔となっている)

2015年2月11日 (水)

小松市の偉人「坂本竹次郎」の功績

小松市の偉人
滝ケ原町の歴史
明治22年(1889年) 4月1日 市制町村制施行で、当時の那谷村, 菩提村, 滝ヶ原村を合併し江沼郡 那谷村となりました。
昭和30年(1955年)4月1日これまでの 江沼郡 矢田野村, 那谷村, 月津村の一部, 能美郡 中海村を小松市に編入しました。
さらに昭和31年(1956年)9月30日、能美郡 金野村, 西尾村, 新丸村, 大杉谷村, 国府村の一部を小松市に編入し現在の小松市となりました。

滝ケ原町は古くは石切場として栄えていましたが、外国産の需要増に伴い次第に衰退し、現在は数社となっているようです。
滝ヶ原石は凝灰岩で、石塀や土台石などに使用されてきました。
金沢城の外濠の石積にも使われているそうです。

小松市滝ケ原出身の坂本竹次郎氏の功績
この情報を提供して頂いたのは、小松市滝ケ原の下坂さんです。
平成24年7月7日、滝ケ原の下坂さんのお宅を訪問しました。下坂さんの父(88才)と母(83才)が私たちを迎えてくれました。
下坂さんのお母さんの思いは、「明治時代に単身北海道に渡り、坂本木材を興し、後に故郷に多くの徳を積んだ故郷の偉人を忘れないために記録に残してほしい」と話をされました。
 坂本竹次郎さんは明治4年三ツ屋に生まれ20歳の時、単身北海道に渡り日高町の字富岡の沙流川で「流送」という方法で川の途中に堰を設け、切り出した木材を川の流れを利用して集積し、まとめた木材を海まで運搬しました。
後に王子製紙の「山出し請負」を始め坂本木材合名会社社長となり財を築いた人物です。
また、故郷に愛着を持ち那谷小学校奉安殿の寄付をしました。
また昔、滝ケ原の道路が狭く、水害で橋が流されたのを知り、村に多くの寄付をしてくれたので道路を整備し、橋を架けることが出来ました。
村人はその徳を讃え丸竹橋と命名したそうです。
生まれ育った牧村八幡神社の境内を整備し、鳥居の寄付をも行いました。

010                               (丸竹橋)
Photo_2

Photo_4                            (牧村神社)

Photo_3                          (坂本竹次郎像)


下坂さんの祖父(明治17年生まれ)が牧村八幡神社の氏子総代をしていた時に、坂本さんが来村し、村人と交流した時に神社の大幟旗を寄贈してくれたとのことでした。
 

村人は坂本さんの遺徳を後世に伝えるために昭和23年に牧村八幡神社の境内に石像を建立し、現在も境内を守っています。
 坂本さんを頼って何人かの村人が渡道していったとも話されていました。
坂本さんの生家は現在もありますが、現在は住む人もなく、時々管理する方が掃除に来ているだけだということでした。
Photo_6                        (坂本竹次郎の生家)

 牧村八幡神社の社殿は現在なく、坂本さんの寄進した石造りの大鳥居は下八幡神社に移設されています。
Photo_5                        (下八幡神社の鳥居)
 坂本さんの孫にあたる方が下坂さん宅を訪れたときに、「坂本木材100年史」の本を頂いたのですが、誰かに貸して現在は所在不明になっているとのことでした。
坂本木材から運送会社に転じているとの話でもあったようであるが、現在は所在もわからいとのことでした。
以上が聞取りした事柄です

後日談
帰宅後聞取り調査したことを整理し、インターネットで「坂本木材」に関して検索して情報を調べたのですが、坂本木材後の足取りが分かりませんでした。
後日、北海道新聞社のホームページから『石川県小松市出身の坂本竹次郎氏が明治時代に渡道し、沙流川で「流送」事業をして「坂本木材」を興した郷土の偉人ですが、その後のことが分かりません。御社の方で記録等があれば教えていただけないでしょうか。」
と問合せをしました。
翌日、新聞社から電話がありましたが実にそっけないものでした。
「札幌市の100万人の中から山田太郎を探すようなものです。それに坂本某という人は何なの?」
「流送で苫小牧の王子製紙に材木を納めていたそうで、YAHOOで名前を入力すると出て来ますが」
「Googleで検索すると、…英語ばかりだし…」
その後も会話をするのですが話がかみ合わないままで終了しました。
郷土の偉人は北海道のような開拓地では沢山おり、坂本木材から坂本運輸になったそうであるが調べたが結果は出てきませんでした。
調査することの難しさがここでも現実のものとなった感じです。
まだ、YHOOで検索してヒットしたホームページから情報をチョイスした方が良かったかもと思いました。
それでも何時か情報がヒットするかもと期待もあります。

また、「坂本竹次郎さんの足跡を探して」という行事が行われ、小松市の人達にとっては郷土の偉人として広く知ってもらうための活動も盛んに行われています。
「里山自然学校こまつ滝ヶ原」http://www.satoyama-komatsu.com/?category=about
上記団体が滝ケ原地区の景観保全に活動されています。