石川県からの京極町開拓

2016年7月13日 (水)

石川県から京極町の開拓移住者(6)

伐木に励む
5月になりました。加賀地方では麦の穂も出て苗代にかかるころなのに、この京極農場ではまだ雪が残っています。あの大森林の中だから雪解けは遅かったのでしょう。
その雪もどうにか消え去ったものの、今度は背よりも高い熊笹がびっしり地面にはえているのに驚きました。
使ったこともない長柄の大鎌を借りて笹狩りに取り組みましたが、慣れないため思うような成果は挙がりませんでした。また冬の間に倒した大木を焼くため6~7尺に切り、これを転がして数か所に集めるのが大苦労でした。
畑と言う字は火へんに田で、原野の草木を焼き払って耕地を作る意味だと聞いていました。一口に焼くと言っても、それはやさしい仕事ではなかったのです。切っても尽きることのない樹木、まったく樹木が敵でした。疲れ果てて傍らの大木のこずえを見上げていると、名も知らぬ小鳥たちが鳴きながら飛び立ち、人間の非力を憐れんでいるかのようでした。
私達の開墾地は、大森林の中にできた小さな穴のようなものです。
その穴が隣の開墾地の穴とつながって広く大空が見えるようになって「羊蹄山は、こんな方角にあったのかと気が付いた」という話をよく聞きました。
空が開かれて、周りの森のこずえを越して他の開墾地の火入れの煙が見えました。
「ああ、あっちにも開墾者がいる。負けるもんか」そう思ってひたすら伐木、笹狩り、火入れに励んだものです。
働いても働いても開墾は進まず、第1年目の作物は早霜にやられ、ほとんど何も取れませんでした。
国を出る前に移民募集に来た橋本さんから「北海道で働けば、馬の草刈しても1日に1円や2円は取れる」と聞いていました。「北海道へ行けば濡れ手に粟のように金が入る。2~3年も稼いで成功して内地へ帰ろう」みんなそう思って移住してきたのではないでしょうか。

ブドウづるの緒
農場小作人は鍬下3年で、その後は米麦、みそ、農具、種子、日用品など一切を農場から貸してもらいました。したがって個人入植者のように日常生活物資でひどく困ることはありませんでした。
ただ、配給品を受取るためにほんの5~6町離れた事務所まで行き来するのにほねがおれました。
今の三条通りは、農場の道路としてワッカタサップ橋のあたりまで、木を切り倒し、笹を刈ってありました。笹は刈ったとはいうものの根元が1尺以上も残っており、危なくて暗くなればとても歩けませんでした。この笹の切株の中を歩くために、シコロの木を切って割り、手製の下駄をつくりました。緒はブドウづるの皮です。
今の三条通り□(ひとがしらの下にトの屋号)守さんのあたりはひどい谷地で、うっかりぬかると大変だから太い木を何本も倒して丸木橋のようにしてその上を渡って歩いたものです。
農場からの食料は1日どれくらいあったか忘れましたが、米が3、麦が7の割合でした。故郷の加賀は米作地ですから、こんな麦飯を食べたことはありませんでした。香川県から移住してきた田尾牛松さんに麦飯の炊き方を教えてもらったが、つい麦を残して米だけ先に食べてしまいました。そこで事務所の人に見つからないように倶知安まで往復7里の道もいとわず、こっそりと米を買いに行ったものです。
しかし、それは多少現金が手元にあるうちのことで、やがて米などぜいたく品となり、開拓者に共通の粗食の苦しみをなめなければなりませんでした。自分の土地から多少収穫があるようになると、ソバ、イナキビ、トウキビなどが常食となりました。
小作人の中には種子用の馬鈴薯を食ってしまう者もあり、私もルサンまで出かけて、ようやく分けてもらったことがありました。
「娘時代の私には開墾の苦労より、食べ物の不自由がいちばんつらく、一生忘れられません(トク談)」
開墾地からの収入がなかった時代、現金を得るには事務所の出面(でめん)に使ってもらいましたが、それだけでは不足なので尻別川の向こうの江川農場へ働きに行ったのですが、事務所の人に見つからないようにこっそり隠れていきました。
そうやって得た少しばかりの日銭もみな食料を買うのに使い、衣料など新しいものを買う余裕もなかったが、また欲しいとも思いませんでした。

あかり・ふろ・わらじ
灯下は“小とぼし”というものを使いました。小さなカンヅメくらいの大きさのブリキ缶に石油を入れ、木綿ひもの芯をつけて点火するのですが、ローソクくらいの明るさです。
石油は4合ビンに1本ずつ事務所から配給されました。無くなってもらいに行くと、「使いすぎる」と叱られました。叱られるのが嫌だから」、なるべく石油を使わず、いろりのたき火で我慢しました。
フロは大木の切株で、中心がうつろになっているのを見つけて輪切りにし、中をくりぬき、片方に石油缶のブリキを広げて張りつけて底にしました。手ごろな石をならべ、その上にこのフロをのせ、下から火を焚く野天フロでした。
お茶などはぜいたく品でした。たいてい柳の新芽を摘んでそれを干して茶の代用としましたが、もちろんおいしいはずがありません。
わらじも初めはブドウの皮で作りましたが、ゴワゴワして堅く、はき心地が悪いので、米のあき俵を払下げしてもらい、そのワラで作りました。米のあき俵は夏のワラジ、冬のツマゴ作りに貴重な材料でした。

望郷の心も
こういう生活を続けながら1年がかりで開墾した土地は2~3反もあったでしょうか。働き手の多い家でも4~5反が精一杯だったと思います。いやまだまだ開墾できたかもしれませんが、皆の心の底にはやがて国へ帰ろうという気持ちが潜んでいるのだから良い成績があがらないのです。
どんなに苦しんで働いても土地は自分のものにならず、出発前に故郷と想像したのと、現実はあまりにもかけ離れていたからであります。
「何の為に北海道へ来たのか」・・・と、そぞろに故郷が懐かしくなり、帰郷したくて矢も楯もとまらないという気持ちになるのでした。
それでも小作者たちは1坪、2坪と土地にしがみつくように開墾したのは、1反につき3円の開墾手当が欲しかったからです。今更故郷にも戻れず、そうして大地にむかうより地に生きてゆく方法がなかったのであります。

2年目は
開墾第2年目(明治34年)は10月半ばに早くも初雪を迎えました。みぞれが降り続き冬が近くなると、またしても故郷を思い自分たちの生末を考えると不安で一杯でした。しかし努めて故郷の話をしないようになりました。
これも2年目の冬のことでしたが、木は処分に困るほど有り余っているのに、冬のたきぎの準備を忘れてしまいました。倒しては焼き、焼いては開くことに夢中になって、冬の燃料のことなど念頭に無かったのです。
その辺の林に行って10日分くらい切ってきます。雪の中で生木を運んで来るのですから良く燃えません。枯れ木なら燃えるだろうと思いましたが、枯れ木でも雪の中で濡れたものはよく燃えません。
ガンビならよかろうと探したが、あいにく私の土地にガンビはほとんど生えていなかったのです。
苦労しているうちに、生木を上手く燃やす方法があることを知りました。
万事こんな調子で、今思うとつまらない事、ささいな事を一つ一つ体験していきました。

曙光を見出す
開墾は中々はかどりませんでしたが、何時の間にか2年、3年と過ぎて故郷へ帰ろうという気持ちも薄れ、1反2反と開墾を進めるために働き続けました。
5年目かと思いますが、馬鈴薯が大豊作しました。笹の根を掘ってそのあとの穴の中に捲くという粗末な方法でしたが、取入れになってその穴を掘ると面白いほどたくさん出て来ました。「5升芋というが、本当に一株に5升もつくものだな。」と思いました。
あまり取れ過ぎて、道路の砂利の代わりに敷いてみようか・・・などと言ったほどでした。
作物が取れ過ぎると買い手がなくて困るのですが、やはり方策は大きな喜びでした。(註:小作人が収穫した作物は決められただけ農場へ納め、残余は販売してもらったという)
開墾した土地が広くなるにつれ、食料の他に余分が出ると、それを売ってもらって現金収入が得られるようになりました。そうなると農場へ納める小作料に一苦労でしたが、小作生活も落ち着いてきました。
明治何年だったか、私は京極農場小作者では一番早く馬を買いました。1頭20円くらいだったと記憶しています。
「岡本の家では馬で畑を耕すそうだ」と評判になり、見物に来る人もありました。けれども始めは馬も人も馴れていないので、ブラウを使うのに苦労しました。
そのうえ、新墾地ですから木の株や笹の根が残っていて難儀しました。“一本うねきり”も使いましたが、そのころとしては珍しいものでした。馬を買った時の喜びと誇らしさは今も忘れることができません。
肥料を始めて使ったのは明治の末だと思いますが、「過リン酸というこやしを使ったら、うんと作物が取れるそうだ」と聞いて、小作人仲間が共同で試用してみることになったのです。10貫入り1俵が1円50銭くらいだったでしょうか。
過リン酸は灰のようで使い方も良くわからなかったが、「じょうごのような筒を使って、うねの中へまくそうだ」と聞き、板で筒を作り、肥料は箱に入れて肩から吊り下げ、どうやら恰好がつきました。
あとになってわかったのですが、始めてまいた肥料の分量は問題にならない薄まきだったのです。薬でも使うように、ほんの少しまき、ためしに無肥料の畝と比較してみることにしました。さて、作物が成長しはじめると肥料を入れた所と無肥料の所とでは格段の違いが現れてきました。
もちろん収量にも大きな差が出て、私達は肥料の効果にびっくりしたものです。
翌年から、みな競って過リン酸を使用しましたが、今思うと過リン酸の単一使用で、後年に地力が減退することになり、農民生活を苦しめる原因にもなったと思います。
原始農業だ略奪農業だといわれますが、当時の私達には知識もなかったのです。
肥料を使い、馬を使うようになって、農家らしい収穫も上がるようになったわけです。
当時イナキビを17~18俵、麦を15~16俵くらい売ったように記憶しています。しかし、作物を売れる農家になったのは大福豆や白丸ウズラ豆などの手竹のものを作るようになってからでしょう。もうそのころは雑穀仲買商へ個人個人で売るようになっていました。

野ねずみの大害
たしか明治37年のことだと思います。
トウキビの取入れをする秋のころでした。ある夜、家の外でザワザワ、ザワザワと気味の悪いもの音がひっきりなしに聞こえるのです。始めは風の音かと思いましたが、風にしては切れ間が無いのです。
次第にざわめきは強くなってまるで津波でも押し寄せてくるような感じでした。寝るにも寝られず、こわごわ小屋の戸を開いて外に出て、やみを透かしてみると、畑のトウキビの茎や葉が動いていたのです。「ねずみだ」と直感しました。しかも30匹や50匹ではない。数えきれないほどの大群だと気付くと何か背筋がぞっとするような不気味さを感じました。
今にもこの家のなかへ襲ってくるのではないかという不安な気持ちで眠れぬ一夜を送りました。
夜があけるのももどかしく、畑に出てみてその被害の激しさに驚きました。トウキビ畑は大風の去った後より、もっともっとひどく惨憺たるものでした。
こうして次の夜も、またその次の夜も、夜通しネズミがやってきました。このままでは畑が全滅してしまうので、事務所では急いで毒薬を取りよせ、全小作者にネズミ取りを命じました。
私どもは教えられた通り、シコロノキの板切れの真ん中にくぼみを作り、そこへ毒餌を入れて、畑のあちこちに置きました。また「板落とし」といって」、バネでネズミをはさむようにした道具もこしらえました。夜になると畑のあちこちでパチン、パチンと板落としのはねる音がしました。
事務所ではネズミ1匹5厘で買いました。尻尾だけ集めたのを塚に葬りました。
ネズミは多少なり毎年害をしましたが、どうしてあの年だけ大発生したのか不思議です。その当時は「去年、笹の実が大豊作だったから」といわれておりました。
とにかく畑の切株などおこしてみると必ず数匹のネズミが潜んでいました。ある家では「いずこ」の中へ寝かせて置いたあか子の鼻をかじられ、また小屋で寝る時は頭や足に「かます」をかぶらなければならなかったものです。
そんな有様で、この年はトウキビや大豆の収穫はほとんどだめでした。
開拓の頃には全くおもいがけない苦労がありました。

以上が岡本又三氏の回顧録を転記しました。

 完

2016年6月 1日 (水)

石川県から京極町への開拓移住者(5)

開拓時代の思い出(1)

開拓の苦労について京極町史では詳しく記載されていました。
その中で明治33年に石川県石川郡河内村から入植した岡本又三氏の聞書きを当時の貴重な記録として転載しておきます。

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『岡本又三翁回顧談』
岡本又三は明治33年京極農場第三次入植者の一員として石川県石川郡河内村(現:石川県白山市河内)から渡道し、同じく第一次入植者の北口九平の養女岡本トクに入夫結婚し、昭和35年1月に80歳で歿した。また妻トクは昭和50年6月に102歳で歿した。
この回顧談は昭和32年1月、村の小中学生の郷土学習用に、“村の歴史”を編集する時にとりまとめたものである。

「苦しかった道中」
私は明治33年に京極農場の小作人として石川県から14戸ばかりの一団に入って渡道しました。
開墾時代の苦労は一生忘れることが無いだろうと思っていましたが、年月が過ぎるとともに、あの苦労が懐かしく、よく耐えてきた我が身がいとおしく思われます。
もう記憶も薄くなり、私達のあのころの生活を口や筆で伝えることは困難です。時勢が変わり、ものの考え方も違い、昔の私達の暮らしや気持ちを今の人にわかってもらう事は難しいと思います。
よく若い人から「何を好き好んでそんなに苦労したのか」といわれます。

明治33年3月15日、郷里の河内村から富山県石動まで歩き、石動から伏木まで川船で下り、伏木から船に乗り、1週間目に岩内に上陸しました。
伏木を出港してしばらくの間は海上も静かでした。みな甲板に出て、海上の風景を楽しんだり、離れて行く故郷の山々に別れを惜しんだりしていました。
ところが何日目かに、ひどいしけになりました。昔の船は小さかったので、まるで木の葉のように波にもまれました。胃の中のものはみな吐き尽し、船室の床をごろごろと左右にころがされ、人と人がぶつかる。まるで樽で芋を洗うようなものでした。
ついに帯を解いて船の柱に結わえ、その端をしっかりつかんでいなければなりませんでした。初めて船に乗った私達はただ神仏に無事を祈るだけでした。
親たちは「お前たちを殺すために北海道へ行くようなものだ」と言って嘆いていたことを今思い出しました。
時化にあったり、あちこちの港へ寄ったりして1週間目にやっと岩内港へ上陸しました。
この船の中で老婆が一人死に、上陸後なきがらを見知らぬ土地に葬るために悲しい野辺送りをしました。
岩内で一泊した一行は翌日、倶知安に向かって出発しました。

北海道の冬について何も知らなかった私達は、手甲に脚絆、足袋にわらじという姿でしたから道中の困難は想像以上でした。
トクは2年前の明治31年2月の渡道で岩内から倶知安への道中は運悪く吹雪でした。間もなく子供は寒さと疲れで歩けなくなり、叺(かます)に半身を入れられ、駄馬の背にゆわえつけて連れて行きました。指先のこごえに息をはきかけ、はきかけ泣きながら行ったものでした。子供にとってはとても悲しく、つらい道中でした。
私の時は幸い晴天に恵まれ、小沢で休息の後、3月の堅雪の上を倶知安に向かいました。
倶知安峠には大木の幹に碍子(がいし)を取り付けて電話線が張ってありました。峠を下がるとき、はるかに羊蹄山が真白く輝いておりました。
あの山のすそのに我々の住む京極農場があると聞いて、いよいよ北海道に来たのだと思い、身の引き締まる思いがしました。
倶知安では今の六郷あたりの宿屋に一泊しました。
翌日は南4線を通り、目名では尻別川の渡し場を越し、今の村長住宅(註:元の農場事務所、現在佐藤テツさんの所)の向かい側に建ててあった共同小屋にたどり着いたのは夕方のことでした。

『笹小屋で』
共同小屋は細長い笹小屋で3か所にたき火をし、数家族が入りました。ここで4~5日泊まっているうちに管理人の児玉さんから、それぞれの入植地を決めてもらいました。
決められた場所へいってみると、そこはうっそうとした大原始林で、大木の梢のかなたに3月の青空が遠く見えるのでした。
私どもの故郷の加賀では見たこともない木ばかりです。これらの大木にブドウやコクワの蔓がからみついているのも珍しいことでした。
まず、私達は雪の中に半分埋まっている仮小屋に入りました。これは30年に入植した藤村さんが建てたものです。笹小屋で6坪位もあったでしょうか。冬中に小屋の中に入った雪を外へ捨てるのに苦労しました。床には松の小枝を切ってきて敷き詰め、その上に荒むしろを広げました。入口には1枚の荒ムシロを吊り下げて戸の代わりにしました。
この笹小屋での第一夜は、ハタハタと夜風に入口のムシロが揺れ動き、強烈な松葉の香り、いぶって上手く燃えないたき火など今も思い出します。心細かったです。
朝になって目を覚ますと、布団の上に雪がかかっていたこともある仮小屋の中で、雪が消えるまでに極力やって置くべきだと教えられた仕事は、小屋の周囲の大木を倒すことでした。
農場から貸し付けられたノコやマサカリを手にしても、伐木の経験のない私達は、二抱えも三抱えもある大木の前に立ってなすすべを知りませんでした。
ノコはヤスリで目立てをするものだと聞いていましたが、ただ、こすれば切れるようになるものだと思っていたのです。そんな私達に管理人の児玉さんは、「木の根もとで、幹に背を付けて上を見なさい。どちらに枝が沢山ついているか。幹はどちらに傾いているか。倒す方向が分かったら、そちら側にマサカリで切り目をつけ、反対側からノコをひきなさい。ノコ目が通らなくなったらクサビを打込んでせめなさい」と教えてくれました。
それまでは、幹の半分くらい切ると、木の重みでものすごい勢いで倒れ、切り口から2メートルも縦に裂け、切株へ斜めに橋がかかり、どうにもこうにも、始末がつかなかったものでした。
知らないと言えば私どもは、ツマゴもモンペも知りませんでした。半纏のような仕事着を着て、ももひき、きゃはん、わらじという服装で雪中の伐木作業をしたものです。
モンペの作り方は、その後、秋田、福島など東北地方から入地した人々から教えられました。

2016年5月17日 (火)

石川県から京極町への開拓移住者(4)

開拓奨励金と小作料
農場では開墾補助金として平均1反歩につき金3円を支給し、居住小屋建設補助金として金5円を与えることになっている。
これについて古老の柴山又吉は「開墾費は初めの3年間は1反歩について3円、4年目からは60銭だった」と言っている。
鍬下3年であったが、農具は自費、日常生活用品、食料、種子などは農場が貸して、開墾費と差引いたのである。
だから小作者は「3円の開墾補助費が欲しくてひたすら開墾に打込んだ」と明治33年石川県河内村出身の岡本又三氏は話した。

小作料は3年目から1反歩について1円徴収する計画になっているが、古老の話によると3年間は無年貢だったというから開墾が予定通り進まなかったので計画を変更したのだろと推測される。

800町歩の開墾成る
北海道移住者は住み慣れた故郷を離れ、新天地に夢を託して渡道したのですが、夢を打ち砕くような現実に直面した移住者は鬱蒼と茂る原始林を一本ずつ切倒して開墾していったのです。
その中で衣食住は生きていくうえで重要なことで、開拓者は毎日の生活に窮することも度々あったという。
これらの生活を維持するためには強固な意志と身体がなければ開拓地に定着できないものであることは自ずと理解できる事象であった。
その中で夢半ばにして帰省を選択する者、点々と各地を渡り歩くものも少なくなかったのである。

「明治40年に至り120戸の小作人を擁し、起業方法の如く成功の域に達した」(旧村史)にあるように、若干の出入りがあったが大正元年8月に京極家は「京極開墾地竣工記念」として初代管理人の児玉忠廣を始め、開拓指導者の藤村徳治、模範小作者の柴山又吉(明治33年吉野谷村より)、中村与作(明治31年鳥越村より)、岡本又三(明治33年河内村より)、沢 乙吉(明治33年河内村より)らに賞状と記念品を授与している。

京極農場の成功は第一に小作人の堅忍不抜の心と京極家並びに管理者の適切な運営があった事に期するのであるが、なんといっても地形地味ともにその立地条件が恵まれていたことも大きな要因である。

京極農場は神社、寺院(広徳寺)の建立、学校(京極小学校)や郵便局の設立などにも力を尽くして民心の安定をはかり、農場の一部を返上して市街地とした。
大正12年には大規模な造田を行うなど本町発展のうえに果たした功績は大きいのである。
大正8年鉄道開通と共に駅名を、更に昭和15年村名を「京極」としたのも開拓以来本町との深い関わりによるものである。
昭和13年小作者120余名に農場を開放して、明治30年以来41年に亘る開拓の歴史を閉じたのであるが「京極」の名は町名として永久に残るのである。

開拓者の生活
ここで入植した開拓者の生活はどのようなものであったのでしょうか
『渡道の動機と経路』
北海道に新天地を求めて渡道した人達は様々な理由があり、団体ごとにも違った移住の動機があったと考えられます。
団体移住者には共通して自然災害による水害や天災によるものが多いのが特筆されます。
京極町に移住した各種団体を調べてみると下記のようになります。
加賀団体…明治30年石川県手取川の大水害 京極農場初期入植団体
庄川農場…明治39年富山県庄川の大水害
山梨団体…明治40年富士川、笛吹川の大水害
第一群馬団体…明治43年利根川支流の大風水害
香川県から渡道した藤村徳治一家や大西源治らは同県観音寺町の津波被害が動機という。
その他、土地が狭少、分家、知人や親類の勧誘なども多い。中には一旗組もあったという。
しかし内地に人の「食い詰め者が渡道した」という言葉は許せないと述べていることが開拓者としての矜持だと思います。

『加賀団体からの移住者の動機』
私の出身は石川県で、大雨が降るとよく川が氾濫する場所であった。白山川と手取川の合流する所で地名も河野村河合である。
私が6歳のときなので明治30年だと思う、川が氾濫し警察が出動し、ロープを張って救助された。私の家も畑もすっかり流されてしまい、これがきっかけで父は「こんな所にいてもしょうがない。聞くところによると北海道は広くて良いところだそうだ。北海道へ行こう」と決心したところへ、ちょうど北海道倶知安村ワッカサップの京極農場から小作人募集があったので、それに応募したのである。」(京極小60年記念誌久保孫三談)


『渡道への経路』
村の始めに入植した人々はどういう道筋をきたのであろうか。
明治37年10月に函館―小樽間の鉄道が開通したが、それ以前はどのようなルートで渡道したかを各団体での体験談をまとめてみました。

“石川県、富山県から京極農場へ入植した人々”
富山県の伏木港から日本海を渡航し、函館に寄港し岩内に上陸、岩内と倶知安にそれぞれ一泊した。
伏木から岩内までの日数は途中の寄港状態でまちまちだが1週間を要したこともある。

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“余市、倶知安方面からの入植者”

京極農場、江川農場などに入植した徳島県人は汽車又は船で青森に着き、ここから小樽へ上陸、いったん余市や倶知安に入地し、後に京極に転住した者が多い。

“室蘭に上陸し洞爺経由の入植者”
京極農場開墾指導員石原幸吉、白川小太郎、藤村徳治らは、それぞれ別個に洞爺に入植しているが、渡道の時は同じように太平洋航路をたどり室蘭に上陸している。京極入地の時は向洞爺から今の留寿郡に至り、留寿郡~留産~目名~京極農場の経路をたどったと思われる。
藤村徳治の弟岩吉の場合は郷里を出て1か月もかかってようやく洞爺村に着いた。

2016年5月 1日 (日)

石川県からの京極町への開拓移住者(3)

入植始まる(最初の人々)
児玉は噴出しの上から尻別川までの道路を開かせ、川を渡って農場事務所を設けた。
翌年の移住者受け入れのための共同小屋を建てた。
その間に石原、白川、藤村たちの土地も定め開墾にも着手させたのである。
明治31年3月、第1回目の小作者を石川県河北郡、能美郡などから入れた。
その募集には児玉忠廣が現地に行って奔走したと思われるが、なぜ石川県から募集することになったかは不明であると書かれていましたが、開拓移住の召募時期は石川県各地で自然災害の発生した時期と重なった偶然と一致したのである。

明治29年8月の豪雨で手取川が氾濫し、下流域の多くの人家や田畑を流失し甚大な被害をもたらしたのである。
このため多くの人達が北海道への開拓の話に夢を託して、墳墓の地を後にして渡道していったのである。
京極町への開拓移住者の名簿 京極町史から石川県と富山県からの入植者名と出身地を記述しておきます。
これらは明治34年までに入植した人々で、古老の記憶と明治34年八幡神社寄付帳及び町役場旧戸籍簿などによりまとめたものである。

なお、記録には出身地石川県○○村とだけ記載されていましたが、明治22年の市制町村施行時の町村名とし、現在の市町村名を合わせて記載しました。
明治31年入植者 明治22年市制町村施行時の地名    現在の地名
金田 伊三郎  石川県羽咋郡河合谷村        石川県河北郡津幡町河合谷
山本 常次郎  石川県羽咋郡河合谷村         石川県河北郡津幡町河合谷
寺田 和三郎  石川県羽咋郡河合谷村        石川県河北郡津幡町河合谷
中塚 三次郎  石川県河北郡八田村          石川県金沢市八田町
川向 伊三郎  石川県河北郡八田村          石川県金沢市八田町
高木 権次郎  石川県河北郡八田村           石川県金沢市八田町
村井 孫七    石川県河北郡八田村          石川県金沢市八田町
奥野 伊三郎  石川県河北郡八田村          石川県金沢市八田町
中村 弥三郎  石川県石川郡鳥越村           石川県白山市鳥越
北口 九平    石川県能美郡河野村          石川県白山市鳥越
宇羅 仁介    石川県河北郡田近村          石川県金沢市花園八幡町
田中 伊右衛門 石川県石川郡鳥越村          石川県白山市鳥越
田中 仁太郎  石川県能美郡西尾村          石川県小松市波佐羅

明治32年入植者
久保 孫次郎  石川県能美郡河野村          石川県白山市鳥越
清水 長松    石川県石川郡鳥越村          石川県白山市鳥越
古村 市太郎  石川県能美郡板津町          石川県小松市
荒木 市次郎  石川県河北郡田近村          石川県金沢市花園八幡町
鴋沢 理吉    富山県西礪波郡石動町         富山県小矢部市石動町
日下 栄次郎  富山県富山市               富山県富山市
島岡 吉次郎  富山県西礪波郡石動町         富山県小矢部市石動町
駒井 宗助    富山県射水郡下関村            富山県高岡市下関町  倶知安から移住

明治33年入植者
芝山 岩松   石川県石川郡吉野谷村          石川県白山市吉野
中川 円七   石川県石川郡吉野谷村         石川県白山市吉野
柴山 徳松   石川県石川郡吉野谷村         石川県白山市吉野
林  磯八   石川県石川郡吉野谷村          石川県白山市吉野
中川 六右衛門 石川県石川郡吉野谷村        石川県白山市吉野
進藤 又八   石川県石川郡吉野谷村          石川県白山市吉野
柴山 与左衛門 石川県石川郡吉野谷村        石川県白山市吉野
沢  乙吉   石川県石川郡河内村           石川県白山市河内
西村 仁次郎 石川県金沢市                石川県金沢市
篠原 次郎助 石川県石川郡鳥越村           石川県白山市鳥越
吉田 与平治 石川県(不明)
林  磯吉   石川県石川郡河内村           石川県白山市河内
岡本 又三   石川県石川郡河内村           石川県白山市河内

明治31年から34年の間の移住者

桑田 平助   石川県石川郡河内村           石川県白山市河内
前多 栄次郎 石川県羽咋郡河合谷村          石川県河北郡津幡町河合谷
木本 八右衛門 石川県能美郡西尾村          石川県小松市波佐羅
大屋 作次郎 石川県河北郡田近村           石川県金沢市花園八幡町
大沢 尚次郎 石川県(不明)
荒木 ニ太郎 石川県河北郡花園村           石川県金沢市花園八幡町
中村 与助   石川県能美郡河野村           石川県白山市鳥越
川口 嘉六   富山県射水郡二上村           富山県高岡市二上
福岡 善六   富山県射水郡片口村            富山県射水市片口
竹内 政次郎  富山県射水郡片口村           富山県射水市片口
藤沢 喜作   富山県上新川郡東岩瀬          富山県富山市東岩瀬
吉野 藤蔵   富山県西砺波郡南谷村          富山県小矢部市石動町
山田 長三郎 富山県西砺波郡南谷村           富山県小矢部市石動町
滝田 七兵衛 富山県西砺波郡南谷村          富山県小矢部市石動町

(注)入植者名簿の中で京極町史では「石川県田辺村」と記入された個所がありましたが、明治22年の市制町村施行時の地名で石川県内の地名を調べたのですが同名の地区は見当たりませんでした。
私の移住者リストの中では河北郡内の同地域から入植されている田近村ではないかと思慮されるので田近村と表記しています。
今後の調査で正確な地名が判明するとよいのですが。

明治32年第2回目の移民は石川、富山両県から入植したが、この時の募集には第2回管理人となった橋本作治が当たっている。
明治34年は不明、翌35年は橋本により徳島県から募集してきたが、その正確な数は分からないと記されています。
この間、京極農場の開始を聞いて倶知安、仁木その他からの入植者もあって次第にその数も増加した。

第1回の入植者数は「開道50年記念北海道」には23戸、第2回目の管理人橋本作治の書簡によると20名となっているが現在分かっているのは16戸くらいである。
第2回目以降は毎年20戸ずつと旧村史に記してあるが正確なところは不明で、故岡本又三氏の談話では3年間で43戸と言っている。

この他に吉野谷村史には吉野谷村吉野から下記の人達が移住していた記録が記載されていました。

中川円七    明治40年10月  円作の父
中川六右衛門 明治42年  4月
戸田又吉    明治44年  1月
中川円作    明治44年12月
柴山いと     大正2年     明治33年入植の柴山岩松の妹

2016年4月20日 (水)

石川県から京極町への開拓移住者(2)

京極農場開く
京極農場は明治29年空知郡沼貝村茶志内(現美唄市茶志内)に開設した京極第一農場に開設した農場に次ぐ第二農場である。
京極農場240万坪の土地は京極家ゆかりの深い人々の名義で貸付許可の手続きが取られていた。

京極家では明治28年茶志内の貸付許可を得、同年12月にはワッカタサップに第二農場の許可願いを道庁に提出した。
許可と共に児玉忠廣をワッカタサップの第二農場管理人に任命して開拓の指揮を取らせることにした。
まず、土地の実測に当っては向洞爺の三橋政之のもとで開拓に従事していた石原幸吉、白川小太郎、藤村徳治をあてた。

土地の実測について藤村徳治の弟岩吉は次のように言っている。
「兄徳二は明治29年頃、京極農場の測量に来たと言っておりました。測量士は室蘭出身の須藤エイイチという人で、人夫は19人、2人のアイヌ人もいたそうです」
一節には須藤はエイタロウといい、室蘭の屯田兵として来道した人だともいう。
(私が屯田兵名簿を調べた結果、室蘭の屯田兵舎は輪西にあり、明治20年5月に愛媛県から須藤栄吉と須藤鉄三郎という名で入植記録がありました)
Photo                 (土地区画図)

貸付許可が出て、農場開拓にかかるため「5戸27名」の人々を開墾指導者として先発入植させ児玉忠廣指揮のもとに小作人受入れの準備にかかったのは明治30年のことであった。

土地貸下願・起業方法書・設計書
明治28年12月に京極家は三橋政之を代理人として240万坪に及ぶ土地貸下願いを提出した。
Photo_2                      (企業計画書)

この中で京極子爵の名義分を掲載します。

土地貸下願
場所:胆振国虻田村字ワッカタサップ
1.樹林地29万7千坪  畑の見込み
 外に石狩国空知郡沼貝村に於いて明治28年11月日付出願中の分121万9千716坪
を北海道庁に出願している。

起業方法書には樹林地29万7千坪を畑に開墾するための方法が詳しく記載されています。
樹林地には目通り3尺廻り(直径約30cm)の赤タモの木(ニレの木)1,700本、タモの木1,500本、ナラの木500本がありこれらを伐木し畑地に開墾する。
赤タモ、タモ、ナラの木は現在では床の集成材や野球のバットに利用されていますが、当時は薪や炭に利用する以外に利用価値がなく伐木後は燃やされていたようです。
明治29年より明治39年までの10年間で開墾する事業を年次ごとに計画してあり、その中から初年度分の計画を要約しました。
初年(明治29年)は2万2,500坪を畑に開墾する。
普通農具唐鍬山刀、鎌を用い、小作人4戸を移住させて畑に開墾する。
その費用は225円で一反当たり3円の割で開墾費用とするものである。
小作人の住む小屋4棟建築し、その費用は20円(但し小屋造築補助費5円の割)事務所及び倉庫共1棟建築するその費用は300円(建坪30坪、10円の割)
道路308間(560m)開設費、その費用92円40銭(但し間口30銭の割)
管理人1名雇入れ年給144円、創業資金として300円として合計1,081円40銭となっています。

設計書は起業方法書に書かれた項目をより詳しく具体的に書かれたものです。
この項で初めてこの開拓が“農業経営”であると明記してあります。
その個所は「右ハ農業経営ニシテ土地開墾ノ順序ハ小作法ニ依ルモノニテ毎年香川県下ニ於テ相当資産アル者ニ限リ明治29年ヨリ32年迄小作人18戸ヲ移住セシメ明治38年迄10ヶ年間ヲ以テ全域成功ノ目的ニシテ小作人1戸ニ貸与スル土地1万5千坪トシ1ヶ年間開墾シ得ヘキ程度ヲ5千坪ト予定シ3ヶ年間ヲ以テ全ク1戸分ヲ成墾セシムル計画ナリ而シテ小作人ニハ毎戸小屋建設補助金トシテ金5円ヲ与フ開墾費ハ難易平均1反歩ニ付金3円ヲ給ス其他図上朱線道路ヲ開設ス此工費金472円80銭要スル予算ナリ」

小作人1戸で1年間に5千坪、3年間で1万5千坪を開墾させる。
小屋建設補助金として5円を給付するが開墾後の土地は3年後から一反歩当たり1円の小作料を徴収する。
農具は小作人の自弁とすることが書かれています。
これらの事柄が10年間の収支計算書が行われ設計書として書かれており、6年までは欠損が大きいのですが、6年目からは利益が拡大していく計算書になっていました。
農業が経営として明治28年に計画されていたことに驚き、当時の人の計画性は現代の会社経営にも通じる物があると感じました。

2016年4月11日 (月)

石川県から京極町への開拓移住者(1)

京極町の位置
京極町(きょうごくちょう)は北海道後志総合振興局管内、羊蹄山(蝦夷富士)の麓にある町です。
東側に札幌市と接していますが、どちら側にも森林帯があり直接往来はできません。 また南に喜茂別町、西に倶知安町、北には余市郡赤井川村が接しています。
面積は231.49km²の町です。

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明治43年(1910年)に 倶知安村(現在の倶知安町)より分村し東倶知安村となった。
昭和13年(1960年)村の開基者京極高徳子爵所有の京極農場が開放されたのを記念して、昭和15年京極村と改称されました。
昭和37年(1962年)に京極町となり現在に至っています。

京極町の開拓の歴史を京極町史より転載します。
京極町の歴史に関しては他の町の歴史が書かれたものと比較するとその時点のことが克明に記載されておりますので、それだけ記録として残っている物が多いということでしょうか。

開拓者の方の当時の生活も記録として残されており、開拓者の言霊としての現在の我々に伝えることが多い町史であると思っています。

沿革のあらまし
本町の開基は明治30年京極農場に始まる。
旧讃岐丸亀藩主の京極高徳子爵は、北海道開拓のため旧藩士の児玉忠廣に北海道の土地の選定を命じた。

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児玉は内務省に勤めていたが官を辞し、渡道すると道庁に勤めながら空知の茶志内と胆振ワッカタサップを調査し、開拓に適地として報告した。
京極家ではこれにより明治28年12月ワッカタサップの地795余町歩の貸付を申請し、翌29年許可になったので、児玉忠廣を管理人として開墾の指揮をとらせることにした。
これより早く明治20年、京極藩の重臣であった三橋政之は香川県人ら22戸76人を率いて向洞爺に入植し、明治22年にはさらに80余戸を入植させ苦心苦闘の末、開拓に成功していた。
児玉は三橋の配慮を得て、29年に京極予定地を測量し、明治30年には向洞爺から開墾経験者の石原幸吉(42歳)、白川小太郎(45歳)、藤村徳治(28歳)ら数戸を招いてワッカタサップに入地させて開拓の第一鍬をうちおろした。