石川県からの石狩町開拓

2017年3月25日 (土)

石川県から石狩町花畔村への開拓移住者(10)

入植時の石川県の出身地名
石狩地区への入植時の出身地は石川県下の16町村に渡っていました。
その当時の出身地と現在の市町名を揚げておきますので参考して頂けたらと思います。
出身当時の町名          現在の市町名
江沼郡東谷奥村荒谷      加賀市山中温泉荒谷町
江沼郡東谷奥村今立、西袋  加賀市山中温泉今立町
江沼郡東谷奥村大土      加賀市山中温泉大土町
江沼郡東谷奥村新保      加賀市山中温泉上新保町
 ※記念誌では東谷奥村新保となっていますが、上新保と思われます。
江沼郡上河原崎村       加賀市河原町
 ※記念誌では上河原崎となっていますが、河原と思われます。
江沼郡庄村            加賀市庄町
能美郡串村             小松市串町
能美郡新丸村新保         小松市新保町
能美郡長野村字牛島       能美市牛島町
石川郡白峰村字白峰       白山市白峰
河北郡倶利伽羅村竹橋     河北郡津幡町竹橋
羽咋郡東増穂村里本江     羽咋郡志賀町里本江
羽咋郡椑造村             羽咋郡志賀町今田
羽咋郡子浦               羽咋郡宝達志水町子浦
鹿島郡滝尾村             中能登町小竹
鳳至郡南志見町字西山志   輪島市西山町

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新天地を求め上川郡江丹別への再移住
 花畔での開拓を完成させ予定存置を確定させた加賀団体であったが、花畔開拓が完了してから石狩国上川郡のエタンベツ原野の未開地90万8688坪の貸付を受け、この地に小作人を入れて開墾したと記録されています。

 道立文書館の資料では江丹別の開墾は明治34年とある。江丹別原野開墾、そして江丹別への再移住を決意した動機には明治30年の「北海道土地払下規則によって開墾成功後土地払下げが従来は千坪1円であったが無償となった事や花畔の土地の開墾成功によって土地を担保に入れることが可能となり、土地請願の資金調達がしやすい条件が整ったことによるものと推定されます。

石川県人の気質
 記念史の中で明治44年の北海道庁調査の「北海道と各道府県の関係」には石川県移住者の気質について「一般質素にして着実勤倹、よく業務に励むといえども、やや偏執(頑固)の評あるを免れず、いずれも仏教の信仰厚し。然れども酒を飲み賭博をなすもの少なからず、商業中にはすこぶる有為の人物あり」とやや辛口の評価がなされていると書かれています。
 花畔の開墾やその後の江丹別原野への再挑戦という、他の開拓者にはまねのできない行為には同郷の者として改めて敬意を表するものです。

 このようにして開拓された花畔村でしたが、明治35年には樽川村と花畔村が合併することになり、お互いから1字 ずつとって花川村となった経緯がありました。
 明治40年に石狩郡石狩町と石狩郡花川村が合併し、石狩郡石狩町となりました。
平成8年には市制をひき、石狩市となっています。石狩市役所も近くにあり、札幌市のベットタウンとして発展している町です。
平成24年(2012年)8月27日輪島市と友好都市提携を行っています。
 

2017年3月18日 (土)

石川県から石狩町花畔村への開拓移住者(9)

加賀団体の故郷(能美郡新丸村)について
・地理
新丸村は能美郡の最南端に位置している。東方は石川郡の白峰村、尾口村、鳥越村に、南方は福井県大野郡の北谷村、野向村、荒土村(現在勝山市)に接している。
西方は江沼郡の東谷奥村(現在山中町)、西谷村(現在山中町)、能美郡大杉谷村(現在小松市)に、北方は能美郡の西尾村(現在小松市)及び石川郡の鳥越村に接している。
新丸村(しんまるむら)は、石川県能美郡に存在した村である。

 東西の最長距離は4.3㎞、南北の最長距離は16.6㎞でその面積は83.75㎢である。
  明治22年(1889年)の市制町村制施行により新保村、瀬納谷村、丸山村、小原村、杖村が合併し新丸村となった。合併した村のうち、新保・丸山の両村の名前より新丸とした。
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自然災害
 この村も山に囲まれた場所で河川の氾濫や山崩れ等で様々な災害に見舞われた歴史があります。その中でも村民が北海道へ移住することになった大災害がありました。
明治29年8月1日の大豪雨のため、河川が氾濫し、県下全体に大きな被害をもたらしたのですが、村内を流れる大日川も大増水し滝の尻川沿いに土砂崩れがおこり、村内に大きな被害が出ました。

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  特に丸山、新保では被害が甚だしかったが、その惨状の悲惨さに中には復興を断念し、新天地に希望を託して北海道に渡る者41戸、231名に達している。
 新丸村の資料では明治23年に新保地区から春木氏ほか5家族が北海道石狩国石狩郡花畔村(ばんなぐろむら) へ開拓移住が始まったと記載されていましたが、花畔開拓資料では明治27年となっていました。

生活様式
 新丸村の村民はどのような生活をしていたかが記録されていましたので、生活様式が記載されたものを転記します。
 昭和初期までの生活状態の一端を述べると、夜の寝具では村内を通じ敷布、布団を敷いて寝るような家は一部落で2、3軒位です。
大抵は藁を敷き夜具の一枚も着て寝るという家は上の部であり、多くはその時その時の着のみ着のままで眠り、その尽ですぐに労役に服したものであります。
また調味料の如きものは村内の余程の裕福な家でなければ味噌を用いなく多くは塩のみでありましたと記載されていました。
 新丸村からの移住者は多く、石川県内、福井県、その他で特に多かったのが北海道への移住者です。
 北海道も各所に開拓移住していますので、別項目で「新丸村」からの開拓移住者を取り上げていきたいと思っています。

 

2017年3月11日 (土)

石川県から石狩町花畔村への開拓移住者(8)

加賀団体の故郷(江沼郡東谷奥村)
花畔と樽川地区には石川県各地から入植している入植者名簿がありましたが、今回は加賀地区の江沼郡東奥谷村と能美郡新丸村について簡単に書いてみました。
詳細については現地を調査して別項目で書き綴っていきたいと思っています。

江沼郡大土村の変遷
明治22年(1889年)4月1日 町村制施行により、荒谷(あらたに)村、市谷(いちのたに)村、今立(いまだち)村、大土(おおづち)村、上新保(かみにんぼ)村、西住(さいじゅう)村、四十九院(じじゅくいん)村、杉水(すぎのみず)村、菅生谷(すごうだに)村、滝(たき)村、中津原(なかつはら)村の11か村が合併し、江沼郡東谷奥村が成立しました。
昭和30年(1955年)4月1日山中町、東谷奥村、河南村、西谷村の1町3村が合併し、山中町が成立した。

平成17年年(2005)10月1日平成の大合併で加賀市、江沼郡山中町が合併し加賀市山中町となる。

現在は加賀市山中温泉大土町で、以前の東谷奥村は動橋川(いぶりばし川)の谷を江沼郡の中では「東の谷」として、その奥(上流部)に位置するという意味の村名である。
なお、東谷奥村の北隣、動橋川の谷の入口に当たる方には東谷口村があり、加賀市の東に聳える山々の最奥部に位置する市谷、西住、杉水、上新保は明治以降、戦後すぐまでは東谷奥村といったが、今は過疎化が進み、殆ど人が住んでいない限界集落となっています。

上新保村は明治29年の大洪水の被害を受け、全村が北海道に移住して行き、無住の村となった。
上新保村の住人は福井県の平泉寺の近くに住んでいたようで、一向一揆で平泉寺が焼打ちに遭ったので難を逃れるため、現在の石川県小松市新保町の奥に移り住みました。しかし元住民との軋轢から、江沼郡の上新保村に移り住むことになったといわれていました。
現在の上新保村があった場所には「石川県 県民の森」となり県民の憩いの場となっています。

この県民の森には、明治29年にこの土地で暮らした人々が北海道へ移住することになった時に、落民が祖先の苦労を偲び当地を去る思い出をこの石に刻んで去ったと伝えられている屏風岩があります。
西住も昭和29年には全住民が転出し無住地となりました。
杉水、市谷にはいまも何名か住人が残っているようですが、いわゆる限界集落で、村として機能しなくなっているようです

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交通手段
当時は村々から加賀平野に出るためには、北に聳える400~600m級の山々を越えて加賀平野に出るしかなかった。いわゆる整備されていない峠道で、唯一の生活道として重要な役割を担っていたのである。
現在は山中温泉の方から県道153号線が出来ており、県民の森へのアクセス道路となっています。

2017年3月 4日 (土)

石川県から石狩町花畔村への開拓移住者(7)

加賀団体の出身地と構成員
先の資料は「情報報文」であったがほぼ同じ内容であるがさらに詳しく書かれた資料もありますので掲載しておきます。
この記録では「江沼郡東谷奥村」の住民の外に、「能美郡大杉村、新丸村」等の住民も加賀団体として開拓移民していることが書かれています。
 能美郡の大杉村は明治40年 瀬谷村と大杉村が合併して大杉谷村が発足したが昭和31年に小松市に編入となり大杉町となり、現在は小松市大杉町となっている。大杉村は小松市内から約20km南へ行った四方を山に囲まれた山村です。
能美郡新丸村は明治22年 町村制施行により、小原村、丸山村、須納谷(すのだに)村、新保村、杖(つえ)村の5村が合併し新丸村が発足したが、昭和31年に小松市に編入となり大字須納谷は花立町、大字杖は津江町と改称し小原町、新保町、丸山町となり、新丸村は現在、小松市丸山町となっている。
 これらの村は江沼郡大土村から北東~東に隣接し大日川の上流部にあり、東谷奥村よりさらに辺鄙な場所である。
 この地区の住民の生業については平地が少ないため多くは炭焼に従事し、それを大聖寺町や山代温泉に販売していた。
 女子は耕作養蚕に従事し、粟、稗など雑穀に米を3分ほど混ぜて食べていたと書かれている。

 移住した村人の資産についてであるが甚だ薄資で1戸に付100円もあれば良い方で、10円~40円が普通であったと書かれています。
 小樽に上陸したときは無一文に近いものが数名あったと記載されていたがこれらの人々が団体移住者として開拓事業が出来たかを考察してみました。
開拓移住するには最低でも100円以上の資金が必要で、これは移住して1年間は耕作して収穫がないために生活するために必要な資金と考えられています。
坂下岩次郎氏が団体の移住前に札幌村近郊で生活して、近隣住民との付合いもあり、団体民が移住後に小作農として日雇いで日銭稼ぎが出来る口利きが出来たせいではないかと考えられます。

このため薄資の移住者も小作農で糊口を賄うことが出来のではないでしょうか。
花畔原野は石狩当別や屯田兵の琴似兵村にも近くこれらの地区はこの時期には開墾も終わり農地として確立し農作業でも人出が不足していたと考えられます。
他所の開拓移住を調べていると、開墾場所が都市から離れている個所での開拓移住者は入植して伐木、焼畑し播種、そして幾何かの収穫の繰り返しで持金が底を付きというケースが多いのですが、この花畔の開拓移住者に関しては周りが開拓後の発展で小作農としての出稼ぎや、伐木を利用しての薪も比較的近場で販売出来、そこそこの現金収入になったのでしょう。

入植者を年代ごとに記録してみると入植者全てが残っているわけではなく、志半ばで離村して行った家族もあった事も分かりますが、年々入植者が増えていることも分かります。
これらのことから花畔への加賀団体の開拓移住による貸付存置が予定通り完成したのではないかと推察しました。
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この表より、明治28年の入植は25戸となっていましたが、開拓区分では27戸となっています。春木さんと久保さんの家族が別々に開墾したものと推量されると記念誌では書かれていますが、その理由については記念誌では詳しく書かれていません。

明治29年では4戸が新しく入植しまし、翌30年には6戸が新規に入植したのですが内3戸は移住時に堀、南出、宮下方に寄留しているようです。この年には1戸の方が離村しているようです。

下表は明治33年1月の貸付存置の開墾により自己所有となった土地の坪数です。この表により36戸の入植者が8千坪~1万5千坪近くの開墾を成し遂げたことが確認できます。
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開拓当時の行方不明事件
 「金子文書の中で当時の開拓地で起こった子供の行方不明事件について紹介されています。
明治29年6月5日午前10時頃より2線近くの住民の子供、8歳と5歳の男子、2歳の女子が外出し行方不明となった。近隣の住民が探したが見つからなかったが、翌日の昼頃11線の家に来たのを無事保護したというものであった。
この捜索には40名ほどが参加したそうで、6月の始めといえども夜は寒い時期で、林の中に迷い込んだのかも知れない。
開拓地では時にはこんな事件も起こったと記録されていました。

石川県内からの開拓移住者
入植者を記念誌の「我家の歴史」から紹介されている方を記載しました。
加賀団体での入植者
入植者名   入植年      出身地       
田  音二郎  明治37年10月 江沼郡東谷奥村字大土 
田中 石太郎  明治28年12月 江沼郡東谷奥村字大土 
堀   仁平    明治27年5月  江沼郡東谷奥村字大土 
南出 亥之吉  明治27年6月  江沼郡東谷奥村字大土 
山岸 竹次郎  明治27年6月  江沼郡東谷奥村字荒谷 
中村 藤次郎  明治27年6月  江沼郡東谷奥村字大土 
西谷 金七    明治27年6月  江沼郡東谷奥村字大土 
東出 伊平    明治28年頃   江沼郡東谷奥村字大土 
春木 スエ     明治27年6月  能美郡新丸村字新保  
春木 紋吉     明治27年頃   能美郡新丸村字新保  
久保 勘興門   明治27年4月  能美郡字新丸村新保  
織田 三蔵     明治27年6月  石川郡白峰村字白峰  

個人での入植者
小西 与三吉   明治29年4月  江沼郡東谷奥村字荒谷 
杉中 喜三郎   明治29年9月  江沼郡上川崎村    
田   兵作     大正7年10月  江沼郡東谷奥村字大土 
大屋 己之太郎 明治35年4月 江沼郡東谷奥村字大土 
下屋 久次郎   明治35年頃   江沼郡東谷奥村字大土 
千歩 亀松     明治32年12月 能美郡今江村     

入植経緯不明(他所からの転入者を含む)
阿知良 源三郎 明治30年頃    江沼郡東谷奥村字新保 
下野 善吉      明治34年頃     江沼郡東谷奥村字大土 
茎津 重蔵      明治28年7月  江沼郡東谷奥村字大土 
澤谷 小間吉    明治25年5月  江沼郡庄村      
二枚田 清四郎  明治27年頃    江沼郡東谷奥村字大土 
志田 吉松      明治35年10月  江沼郡東谷奥村字大土 
東  安次郎     明治35年8月  江沼郡東谷奥村字大土 
織田 久四郎     明治33年12月  石川郡白峰村字白峰  
織田 ハツ      明治30年頃    石川郡白峰村字白峰  
藪  與惣       明治30年頃   石川郡白峰村字白峰  
岡田 定松      明治35年6月   能美郡長野村字牛島  倶知安より転入
春木 いよ       明治28年8月   能美郡新丸村字新保  
宮野 長七         不明       能美郡串村      
山本 みつ       明治38年        能美郡中の峠     

能登地区からの開拓移住者(個人・他所からの転入者を含む)
池端 岩松       明治41年3月  羽咋郡富来町字里本江  
越野 リト         明治31年2月  河北郡倶利伽羅村竹橋  
原  定次郎      明治35年2月  河北郡倶利伽羅村竹橋  
一坪 勇之助     明治29年11月  鳳至郡南志見村字西山土  岩内郡 前田村字老古美へ                         転出
福田 松次郎     明治30年頃   羽咋郡碑造村大字大西  
村田 安太郎         不明      鹿島郡滝尾村      

能美郡新丸村字新保地区から花畔村への開拓移住者は「新丸村の歴史」書の中では以下のようになって記載されていました。
移住者    人数   転出年月日
春木 利作    5人   明治27年6月20日
久保 仁太郎  5人     明治27年6月20日
春木 九兵衛   6人     明治27年6月20日
久保 権兵衛   8人     明治27年6月20日
春木 紋三郎   3人     明治27年6月20日
春木 美之助   3人     明治28年8月5日
久保 吉三郎   6人     明治29年4月27日
道下 さく        1人     明治30年10月6日
道下 孫助      8人     明治43年4月30日

2017年2月25日 (土)

石川県から石狩町花畔村への開拓移住者(6)

開墾其他事業の進歩
団体民の移住地たる花畔原野は石狩国札幌郡花川村に属し札幌区の北東凡そ5里、石狩町の南凡そ2里、軽川停車場の北2里弱にあり四方開豁にして海に近し、土性は砂質壌土にして土位中等に位せり。
而して団体民は移住の初年即ち明治27年は其他の排水せざると資力の乏しきとにより原野に入る能わず。僅かに小屋掛開墾に着手せるのみ。翌28年運河兼排水溝の開鑿ありて之に沿える地は乾燥せりとも雖も稍や離れたる地は排水尚十分ならざるに付、明治29年団体民は出願して許可を受け貸下地の中央10線に沿い自費を以て1間の排水道路を開きたり、之によって土地の全部乾燥し開墾容易なるを得たり然れども29年は尚糊口に究する者多く開墾に精励する傍ら運河工事及び札幌村の農作雇等に出稼して生計を補いたりしか此年は栗、麦、稗、馬鈴薯、大豆を相応に収穫して食料に差し支なきを得たれば、老人婦女に至まで皆安堵し30年には復た他に出稼するものなく一意専心開墾作業に従事し各自食料を収穫せる外、大豆小豆等を札幌に搬出して販売したり。明治31年には既に貸付地の全部成功して付与を受ける者4戸、次いで付与を受けるもの32年に20戸33年に5戸、34年に5戸、35年に3戸、是に於いて団体民の貸付地は悉く成功して私有地となれり開墾事業の成績佳良なりというべし。

団体民は其業に勉強するのみならず又能く節倹を守り資本を貯えて事業の拡張に務めり、馬は明治29年に之を購入したるもの2戸あるをはじめとし爾後各戸漸次購入し今や皆之を所有し従って荷馬車、洋犂、耙澇等を持たさるものなく盛んに耕作するの結果付与地の5町歩宛にては不足を告げ或いは他の土地を借りて耕作し1戸の作付け反別多きは10町歩、平均6町5反歩に至れり。
又団体民の中十余名連合して明治30年□月石狩国上川郡江丹別原野に於いて未開地90万8688坪の貸付を受け此地に向いて既に3千円を投入し数万坪を開墾せり。
又明治35年中団体民の内4戸は花畔の土地を売却して島松地方に移りたるが其原因は失敗にあらず何れも該地に於いて2、3万坪の土地を購入したれば寧ろ事業の拡張と称して可ならん。
而して売却したる花畔の地4戸分の内3戸分は団体民中に於いて之を購いたり。

団体規約其美風
団体規約はかって北海道庁にて調整せる団結移住規約標準によりて作りたるものにて勤倹貯蓄の如き。災害に罹りたるものを相互に救護するが如き皆之を実行して絶えて怠けることなし、ただ未だ実行せざるは共同貯蓄の一事のみ、尚、特に目立つ事項を挙げます。
一. 団体の率先者たる水上藤次郎、前田惣与門等は最初より今日に至るまで団体のため尽力せるが、土地視察の際金5円と移住後官庁等へ出頭する時1日金40銭の手当を受けしのみにて其他には絶えて報酬を受けず。是を以て団体の経営は極めて僅少にして今日迄に1戸に付金1円50銭に過ぎずという。団体の経費斯の如く小額なるは殆ど他には其例を見ざる所なり。

一. 団体民は質素を旨とし衣服の如きも其初めは規約により郷里に於いて用うる麻屑織を以て常服とせり生計の余裕を得るに至り各自の随意に任せたるものも亦決して華美の風をなすものなし、食料は主として自家耕作する所のものを用い米は僅かに1ヶ年4、5俵を購うに過ぎず。

一. 団体民は其地内に樹木ある内に建家の準備をなすべきとして各自に用材を採り置きて建築せり、而して木挽きは皆自ら之を為し又大工も団体中其技に巧みなるものを雇い未だかって団体外より雇たることあらず。

一. 団体民は相親睦してかって喧嘩口論をなせしを聞かず又一人の規約に違背したるものなし。

一. 団体民は吉凶相慶吊し殊に災厄に罹りたるものを救護せり、火災は移住後4回(4戸)ありたるが一同相集まりて草屋を造り与え且つ各戸より応分の雑穀を拠出して之を救助せり、又農馬の斃死するものありし際は其代償の十分の七、八に相当する金額を一同より拠出して之を補助して以て更に馬を購入せしめたり。

一. 団体民は租税村費は常に能く之を納め未だかって一人も其義務を怠るものなし。

一. 4月6日は団体民が本道に移住する日なるを以て毎年此日を以て祈年祭を行えり、且つ明治32年9月移住記念碑を建立せり。

一. 団体民は甚だ厚く仏教を信じ冬季閑暇の際の如きは団体民中殆ど隔日位に僧侶を聘し説教を聞くを例とせり従って冬期閑居不善をなすものなし。

一. 団体民と付近民との間柄は甚だ円滑にして絶えて紛糾を生じたることなし、且つ付近に住する他の人民及び郷里より移住して付近に在る者にして団体規約へ加入を請い団体民と同じく規約を守りつつあるもの目下14戸あり。

生活の現況
此団体民は各戸平均6町5反歩を耕作し其内凡そ2町歩には、大麦、粟、黍、蕎麦、玉蜀黍、小麦、馬鈴薯、南瓜、其蔬菜類を作りて自家の食料に充て他の4町5反歩には主に小豆、菜種、大豆を作り又大豆、亜麻、燕麦等を作りて販売せり、1反歩の収穫は平均5円にして一家1ケ年に販売して得る所225円とす而して之より1ケ年の経常費を差引けば残る所数十円にして之を以て益々事業を拡張し生活の程度を改善するを得べし。
団体民の多くは掘立小屋を改め家屋を建築し又板庫を建てるものあり、食物は自家作る所の雑穀を主とすれども春季鰊漁期には僅かに2、3里を隔つる銭函海岸にいたり廉価に鰊を購い樽に漬け置きて副食に供し、又秋季鮭漁期には石狩川に漁する所の酒を購い塩引きとなして貯え置き時々之を食せり。神社、小学校等は団体地を距る数町なる石狩道路の畔にあり。
寺は石狩町、説教所は石狩道路及び軽川に在り之を其郷里に比すれば生活の程度著しく進みたるのみならず諸事大いに便利なり且つ団体民の資産は現今平均既に7、8百円に達し之を其移住の際、携帯せる資産に比すれば実に10倍の増殖なり。
更に此団体民と付近の人民とを比較せんに其職業に精励する事、風俗の淳良なること実に一頭地をぬけり。とこのように書いているが、当時の状況が事細かに記録されているのですが、苦労して開墾していることは分かるのですが事象がきれいすぎて中には脚色されていると思われるか所も見受けられます。次に金子文章についての解説がされている文章があります。

2017年2月18日 (土)

石川県から石狩町花畔村への開拓移住者(5)

木材・薪炭
明治30年頃迄は殖民地貸付地より立木を伐採して盛んに薪材を出し、1ヶ年2万敷は之を石狩市街に供給せしが、近年樹木漸次欠乏し来り、目下村内に売買相場は1敷1円20銭。
(1敷とは薪2尺5寸の長さのものを高さ5尺、幅6尺に積んだ量をいう)

地価
既墾地の売買は地勢とに依りて、一定せざれども、1等地1反歩の時価はおよそ7円にして下等地同3円50銭とす。

風俗
人情、単独小農民多きが故に永住の決心堅く、受付の念比較的熾んにして、柾屋を建て果樹を植栽する者少なからず、殊に当村は海辺に位し汐風常に吹き荒み、農作物を害するの恐れ多きを以て村民は風防林の必要を感ずること甚だ痛切にして、明治26年村民一統協議の上規約を設けて互いに之を励行遵守することとなせり。次に其規約の要を摘記して参考に資せんとす。
村 民 契 約 證
第1条 本村は海浜に接近し海風常に荒きを以て農作物に及ぼす害甚だし、故に禁伐木の設けあり。禁伐木は村民相互に之を監守すへし。若し盗伐等の違反者を見受けたるときは速やかに其筋へ届出るべし。
但し違反者を看過ごするときは同犯者と見做すこと。
第2条 村内に住居する者は其当時最寄の村総代に届出て記名調印をなすべきこと。
第3条 村民の一致協和は一村の発展上最も必要欠くべからざることなれば村中厚誼を厚くみ、相互に親密に交際し不道徳の行為あるべからざること。
第4条 小学学舎の児童あらば其期を愆(あやま)らず就学せしむること。
第5条 非常の災害疾病等に遭遇せるものあるときは近接の者は勿論、村民相互に救助すべきこと。
葬送の節は組合を定め組合外は、親族知己の者にあらざれば関係なきものとす。
第6条 村内道路修繕等之ある時は洩れなく出役すべきこと。
但し小児女子等は止むを得ざる事故あるにあらざれば出さざるものとす。
第7条 村総代は村内一切の事務を管理し及び共有財産を整理する者とする。
但し総代は本村に5ヶ年以上居住したる者に非らざれば選挙せざること。
以上の規約を設けて各自を遵守することとなし、若し違反するものあるときは其制裁として村民一統違反者に対して絶対的に交際為さざることを規定せり。次いで32年に至り、益々風防林保護の必要を感じ、其8月村民又協議して風防林監守を置き風防林の監督を為さしむることとせり。(後略)

創田の碑
 この報告文では、加賀団体が石川県江沼郡の坂下、水上、前田の3名によって主唱され、明治26年調査し花畔原野を選定し、52万7千坪の土地を予定存置し明治27年から3年に分けて入植したとある。
明治27年には25戸、翌28年5戸、翌々年の29年には7戸移住し、32年の時点で大半が開墾に成功している。この年には開拓移住記念碑を建立した。
この碑は元花畔北10線6号角の田口 貞さんの土地にあったが石狩湾新港開拓後背地の用地となったため昭和47年に農民住宅団地内公園に創田之碑と共に建っていが、現在では花畔神社境内に移設されています。

Photo                                (開拓記念碑)
Photo_2                            (開拓記念碑 碑文) 
Photo_3                     (開拓記念碑 碑文の追記)

碑文
 明治二十七年四月六
日 石川県江沼郡大土
村住民 前田惣与門 
水上藤次郎 坂下岩次
郎 発起ニテ二十七戸
團体組織シ此ノ地ニ移
住セル者也

明治三十二年九月八日建立
昭和四十二年七月五日
此ノ地ニ移ス
石狩町長 鈴木与三郎 書


この碑にある石川県江沼郡大土村とは現在の江沼郡山中町字大土町のことである。碑文では「大土村」と記されているがこの村名は江戸時代から明治22年まであったが、明治22年以降~昭和30年までは江沼郡東谷奥村大字大土であった。この市町村の変遷については別項で詳しく述べることにします。
殖民広報より
この広報は明治34年(1901年)3月から大正10年(1921年)12月迄の北海道庁が編集し、北海道協会が発行した北海道開拓に関する雑誌で法令、産業、交通など開拓事業に関する情報が網羅されたもので、拓殖事業の広報、指導書として重要な役割を果たした雑誌である。

「殖民広報」第15号 (明治36年7月)
石狩国花畔原野石川県民団体

郷里に於ける状態
此の団体は石川県加賀国江沼郡東谷奥村の民を主とし之に能美郡大杉村新丸村等の民を合わせ37戸を以て組織せるものとす。
東谷奥村は大聖寺町を距ること南東凡そ5里の山間にあり、山高く谷深くして殆ど平地なく男子は多く炭焼きに従事し又其炭を大聖寺町及山代温泉場に販売し、女子は耕作養蚕に従事す、作物は栗、稗、大豆にして之を自家の食料に供し尚、食料の足らざる所は炭を売って得たる所を以て米を購いて之を補い米3分雑穀7分の割合を以て常食となせり風俗素朴にして改進の気象に乏し大杉村新丸村に至りては其僻陬なること東谷奥村よりも甚だし、要するに此の団体民の郷里は誠に山間の僻地にして其人民は十分の職業を得ること能わず。概ね究乏にして粗衣粗食以て生活をなしたるものなり。而して移住せる団体民の多くは其中に就いて亦最も窮乏せるものとなす。

移住の顛末
東谷奥村の坂下岩次郎なるもの明治23年故ありて郷里を出て遂に北海道に渡り、石狩国札幌郡札幌村に寓し地を借り小作をなすこと2、3年にして北海道のはるかに郷里に勝るを知り、手紙を以て屡々其実況を郷里に報告せり、因て同村水上藤次郎なるもの明治26年6月渡道し岩次郎と相談して札幌付近より上川地方まで踏査して8月札幌村に帰り北海道移住の利なる事並びに総代を遣わし実地視察すべきことを郷里に報せり。
是に於いて前田惣与門は、其年10月郷里を発して渡航し藤次郎等と共に札幌付近の生振、花畔、軽川等の原野を視察し相談して曰く、上川地方は将来最も望みありるも薄資なる我等には事実甚だ困難なり、寧ろ地味稍や劣るも便利なる花畔原野」を撰ぶに若すと乃ち道庁に出頭して該原野貸付の手続き、団結移住等を聞糾し惣与門は国に帰り視察する所を報告し且つ曰く北海道に移住せば、当初は困難なるべきも数年の後は郷里に優る生計を営み得へきに付我は家族を伴い断然移住する決心なり強いて勧誘するにあらざれども志ある人々は賛同せらるべしと是に於いて直ちに賛成の意を表すものもあり、熟考の後賛成するものあり又聞伝えて加入を申込む者あり終に37戸の団体を組織するに至れり。
此年12月団体規約書を作り貸付の予定存置を出願し団体者を分けて3回に移住することとなす。
而して初年の移住者27戸は明治27年2月より3月にかけて各自に家屋家具等を売買し3月25日郷里を発し30日塩谷港より汽船に乗船し4月5日小樽港に到着せり、当時花畔原野貸付地未だ確定せず且つ団体民は甚だ薄資にして其携帯する所1戸4に付多きも100円を超えず。
普通10円乃至40円にして中には郷里出発前身代限りの処分(国語辞典によると:江戸時代、借金を返済できなくなった債務者に対し、官が全財産を没収して債権者に与え、借金の弁償に充てさせたこと。破産者のこと)を受けた者もありて、小樽に上陸するや嚢中に1銭を余さざる者数名あり因て小樽より汽車にて札幌に赴き坂下岩次郎等の寓居せる札幌村に至りて差向き此処にに仮居し村民に依頼して日雇い稼ぎをなし傍ら少し許の畑を借りて耕作をなせり。幸い此団体民は誠実に労働せるを以て評判甚だ宜しく男は1日30銭、女は1日25銭にて村民喜びて之を雇たるにより糊口に究するものなかりき、而して団体総代は花畔原野に召喚せられ実地立会いの上区画地52万7千9百坪の引渡しを受け5月2日貸付予定存置の指令を得たるも其地卑湿にして居住する能ざるを以て此年僅かに小屋掛けをなし開墾に着手せるのみ其生計は全く札幌村に於いて労働して之を営みたり。
冬期雪積るに及び壮丁に従事し明治28年春は復た札幌村に戻りて労働し傍ら花畔に至り稍や高き処を撰びて開墾をなせしに5月ころより茨戸銭函間の運河排水溝開鑿の工事ありしに付、壮丁は之に従事し1日40銭づつの賃銭を得たり。
而して此運河は団体民貸下地の傍らを通過するのを以て其竣工するや貸下地内に停滞する水は減退して開墾耕作をなすを得るに至れり。依りて冬期までに団体民は家族を挙げて札幌村より花畔に移り爾後此地に於いて開墾耕作に従事せり。
此年新たに郷里より移住するもの4戸明治29年又新たに移住するもの6戸、先の移住者を合わせて37戸となりて予定の移住を完了せり。

2017年2月11日 (土)

石川県から石狩町花畔村への開拓移住者(4)

石川県移住百年記念事業記念史より

 「石川県移住百年記念事業記念史」(平成6年10月31日発行)の『風雪に耐えて』より摘録しました。
 この石川県移住記念史発刊にあたって記念事業協賛会の南出重晴会長が巻頭言で開拓移住してこられた方に対してこのように述べています。
 「私は困難を乗り越えるために石川県人としての不屈の魂を燃やしたという祖父母たちの話を小さなころから聞かされて育ちました。
 どんなに厳しいご苦労を重ねられたことでしょうか。しかし、その甲斐あって入植後6年を経て区画の開墾を成し遂げた事により、北海道庁より開拓者の模範として、その刻苦精励の功労が官報に掲載され今日に残されている所であります。
 その後石川県各地より個人或は数家族で花畔、樽川地域に入植者が相次いだと聞いています」と述べています。
 また「百年の節目を迎え、偉大な先駆者の労苦を偲び、その遺徳を後世に伝えたい」との思いから記念誌を発刊する理由として述べています。
Photo                            (石川県移住百年記念誌)

北海道移住者送出主要府県(北海道開拓記念館の記録より)
順位  明治27~31年    明治38~42年    大正4~8年
 1位  石川県  8,695戸  富山県 9,126戸   青森県 11,079戸
 2位  富山県  7,351    新潟県  8,419    宮城県 11,056
 3位  新潟県  6,756    宮城県  7,705    秋田県 10,268
 4位  青森県  5,988    石川県  6,846    新潟県    9,223
 5位  福井県  5,629    青森県  6,692    岩手県    7,473
 6位  秋田県  4,804    秋田県  6,433    山形県   6,959
 7位  岩手県  3,229    岩手県  5,157    福島県   6,686
 8位  香川県  3,023    山形県  5,003     富山県   6,370
 9位  山形県  2,630    福島県  5,002    石川県   5,473
10位   徳島県  2,448    福井県  4,121    東京都   3,332
11位   宮城県  1,947    岐阜県  3,377    岐阜県   2,830
12位   愛知県  1,824    徳島県  3,103    福井県    2,752
  合 計     54,324戸   合 計  68,984戸 合 計   83,401戸
  全国計    72,994戸         94,758戸        113,602戸
 北陸三県計の比率 29.7% 21.2% 12.8%
 

加賀団体の入植と花畔村
 石狩町に石川県人が本格的に入植したのは明治27年に入植した「加賀団体」が最初であると考えられる。
 加賀団体について資料を基に当時の花畔の歴史も交え検証してみることにしました。まず、河野常吉による「北海道殖民地状況報文石狩国」から当時の花畔村石川県人による   石狩町開拓の先駆けとなった「加賀団体」について考察することにしました。

 北海道殖民地状況報文石狩国 花畔村
 「明治22年以降漸次農民の往来する者ありて、戸口稍や増加するに至れり。
同26年、原野区画を測設し翌27年貸付を許可するや、出願して移住する者多し、同年また石川県団体移住民等36戸、予定存置を出願し許可を得て先ず25戸移住す」とあります。
これが花畔村への初めての入植となりました。
 農業の項目では、「当村は」北西海に頻し東南は石狩川に臨み、狭長なる原野をなし、其の土壌は概ね砂土なるを以て地味良好ならず。
 東南の一隅は前田農場に属し其の他10万坪内外の土地を有する者数名あるのみにして、比較的土地配分宜しきを得る村なり」と土地が平坦で分割がしやすい土地であることがわかるのである。
 入植に関しては次のように書かれています。
 「明治4年に移住したる岩手県民と27年移住の石川県団体との外は総で単独小屋とす。故にその土地の貸付或は所有の地積は大抵15,000坪至35,000坪の間とす」
 次に団体移住の概要が書かれていましたので紹介しておきます。

 加賀団体の移住の計画
 「石川県団体移民、団体主唱坂下岩次郎、水上藤次郎、前田惣与門は石川県江沼郡の人にして、本道に移住の志を立て明治26年石狩国に於て諸々を探検跋渉し、遂に当原野を相して移住地と定め藤次郎以外36名の団体に対し地積52万7千坪の予定存置を出願し、3ヶ年継続移住の義を許可せられたり。
 初年25戸、2年目5戸、3年目7戸の移住とす。27年25戸移住す。此移民の郷里は山間の僻地に位し、総て小作農民にして絶えて資産ある者なく、何れ貧弱の生活を為せし者なれば各出発に際し、其家産を売却して得し所多き者いえども僅か110円を出ず。普通30~40円位なりしお以て大抵旅費として之を使消し、残る所幾何もなく一同甚だ困難せり」と書かれています。

 移住するに当たり旅費と当面の生活費を工面するのに殆どの開拓移住者の方は苦労したようで、小作農をしていた人の農地は地主のもので、住んでいる家と僅かばかりの家財道具を売りそれらに当てたようですが、移住後の生活するに充当するだけのお金はなかったようです。
 それらが工面できなかった移住者は生活の為にしたことが次章に書かれています。
小作農での生活
 「直ちに開墾に着手することあたわず、皆札幌付近の既墾地を借りて小作をなし、又其壮丁は多く農作の雇いをなし、傍ら貸付地に至りて開墾に着手せり。
事情斯の如く甚だ困難の境遇に陥るりしが、各自奮励、冬期は伐木に従事し薪材と為して之を漁場に販売し、翌年開墾の準備と為せり。」

 原野の開墾
 元来当原野は湿潤に過ぎ排水の後に非ざれば開墾の事業甚だ困難なるを以て、27年団体貸付地の中央を貫徹して6号道路の排水溝開鑿せられ、同時に9線、11線と排水溝を開き、なお28年茨戸銭函間の運河開鑿せられたれば、たちまち乾燥するに至れり。ここに於いて団体民は益々奮って開墾に力を尽くしたりしかば僅かに1ヶ年間にして大抵1町歩の土地を開き少なきも5~6反歩を下りし者なく大いに耕種に勉励せり。此年5戸来住す。
翌29年団体民7戸来住して全部移了せり、爾来団体民は互いに協力し、互いに競争して開墾に従事したりしが、明治31年に至り、全地を墾成したる者5戸、其の他も32年に至り付与を受け、残るは僅か3戸のみ、しかも此の3戸の農民も最早大抵墾祖の業成りたれば、遠からずして付与せらるるに至るべし。
 全地砂土にして耕作、除草共に容易なるが上、毎戸大抵馬を飼いて馬耕を為すを以て、5町歩の耕地にては充分に農業を営むに足らざるより何れも附近農家所有者より既墾或は未開墾地を5反歩以上1~2町歩を借りて耕作せり。
馬は団体中3戸の外悉く毎戸1頭宛を有し、土台付の木造家屋を構造せし者25戸の多きに及び其大きさの如きも協議の上之を一定して毎戸間口7間奥行き3.5間となし、草葺の納屋は各戸之を築造し、又板庫を造りたる者数戸に及べり。

 農作物の生産
 農作物の収穫は1反歩に付大小豆各1石2斗、裸麦1石、大麦(ゴールデン、メロン)1石5斗、小麦1石2斗、燕麦3石、なたね1石等にして廐肥は丁寧に保存蓄積して皆之を圃場に敷き込めり。其耕作に熱心なること他に多く其比類を見ざるなり。之を要するに当団体民の郷里たるや石川県中最も僻在せる山間にして、日常の食料の如きも只、栗、黍、稗を主食となせる程にて、其生活程度は意外に低かりしが如し、然るに本道に移住するや各自5町歩の貸付を許され、自己の勉力に依りて一定の期間内に之を開くときは、直ちに其所有を許さるることなれば、団体民は非常の忍耐と非常の勉強とを以て戮力協和開墾耕種努めたる結果、今や大抵付与を受け相当の資産を有するに至り、まお進んで他人既懇未墾地等1戸分乃至2戸分位の買入れをなし、専ら耕墾に従事せるものありて、其生活程度の如きも、之を郷里に在りし日に比するに、大いに進歩し目下皆付近農民の規範とせらるるに至れり。明治32年移住記念碑を建立す。
 けだし多数の団体移民中其成績顕著なるものの一つなり。

 単独小屋
 単独小屋は全村に散在し大抵1戸分乃至2戸分の土地を得て熱心に開墾耕種に尽力せり。其耕作せる所は大麦、大小豆、裸麦、燕麦等にして、大麦は札幌麦酒株式会社と特約して作付をなせる者あり、品質も善良1石大抵6円以上に販売せらる。
又林檎園を設け、杞柳(枸杞のこと)の試植を試み、養蚕の飼育等を為すものあり、林檎の栽培は旧移民(南部団体など)は1反、2反歩より5~6反歩のものありて相応の収穫をなせり。大抵之を石狩市街に販売す。作付反別の多きは、作付反別の多きものは、7~8町歩に至る。
 普通既墾地の小作は1反歩50銭より1円となす。又小作開墾をなさししむるものは鍬下2ヶ年を与え1反歩の開墾料、樹林地は2円50銭、草生地は1円50銭となす。
一般に砂土なるを以て、何種の農作物も其の品質乾燥共にすこぶる上等なりという。

 漁業
 明治33年石狩川に於ける鮭曳網就業23ケ統、収穫802石、価格17,716円鱒曳網収穫21石価格450円、瀕海一帯の漁場なし。
川曳網の打廻しは150間乃至は200間とす。
 漁場の所有者11人にして皆他町村人とす。就中石狩市街の人最も多し、又其漁場の半数は自営に属するれども其他は多く歩分け法行はる。歩分法は漁場主漁業権を貸し、漁具と漁船とは漁場主之を出し、食料其他は借方の支弁となし。収穫の内6分を貸主4分は 営業者の有となす。営業者は漁夫相共同して之を行うが故に、損得は直接各自の頭上に影響するを以て皆よく労働に服す。漁獲多き時は、1漁期にて1人の純所得15、6円乃至20円に至るという。

2017年2月 4日 (土)

石川県から石狩町花畔村への開拓移住者(3)

石川県からの移住者たち
明治27年には花畔原野に石川県江沼郡大土村の坂下岩次郎、水上藤次郎、前田惣与門らが、前年における石狩地方の現地調査に基づいて主唱し、指導して構成された加賀団体が入植した。同団体は前田惣与門に率いられて、まず同27年4月6日25戸が入地し、同年36名に対して52万7千坪の予定存置を出願した上、3カ年継続移住を許可されたので、翌年5戸、29年7戸も入地することになった。そして31年に全地を懇成した者が5戸おり、32年には他のほとんども附与を受け残る者は3戸のみとなっている。
なお、この団体の郷里は石川県で最も山間の僻地で、小作農民の多かったところであり、その頃人々は日常アワ、ヒエ、キビなどを主食としていたといわれ、移住直後は札幌付近に小作や雇人として出ながら開墾に従事したという。
また、27年には以上の他、徳島県人関又一が9万坪の予定存置を手続し、翌28年貸付を許可されて、小作6戸(うち2戸は徳島出身)を樽川にいれている。
さらに、28年石川県から32戸160人が花畔に入っている。
以上のように明治初期から20年代後半までに亘って内地からの移住があり、それに伴って石狩地方の人口は次第に増加し、かつて漁業で栄えたこの地方が明治20年代以降における不振とともに、農業に重きを置く地帯へと変貌されて行った。
ちなみに明治20年代末から30年代前半にかけての花畔および樽川両村の戸口数と人口を次表に示します。

明治30年前後における花畔・樽川村の戸口および人口

                                                       
 

村名   年代

 
 

明治15

 
 

明治29

 
 

明治31

 
 

明治32

 
 

明治33

 
 

花畔村

 
 

50

 
 

288

 
 

360

 
 

362

 
 

452

 
 

160

 
 

1,203

 
 

1,321

 
 

1,511

 
 

1,878

 
 

樽川村

 
 

 

 
 

60

 
 

128

 
 

140

 
 

166

 
 

 

 
 

252

 
 

573

 
 

586

 
 

695

 


第三章 農業
石狩町誌では農業の項で作物のことが記述されていますので摘録します。
石狩は「鮭の町」ともいわれ、明治前半期には漁業で栄えたが明治5年には農業人口が商業人口や漁業人口より多かった。それは農業が開拓使時代以前から営まれており明治元年には箱舘からロシア産の蕎麦、えん豆、麻などの種子が送られてきたりもしているが、明治前半期における農業は専業者による場合でも十分な耕地を必要としたものではなかった。
また、当時の主な生産物は蕎麦、粟、大麦、小麦、黍、蜀黍(もろこしきび)、玉蜀黍、大豆、小豆、馬鈴薯、葉藍などで、この地方の米作は当別を除けば明治半ば過ぎになってから次第に広められた。
この地方の農業は明治10年代に入っても、旱魃や水害に見舞われ中々発展を見ることができず、往時の農民の生活は僅かに口を糊する状態で厳しいものがあったと記されています。
明治16年刊行の『札幌縣勧業課第貮回年報』では次のように記されている。
「本部中農業ニ依テ生計ヲ營ムモノハ花畔、當別等ノ各村ナリト雖モ花畔、生振両村ノ如キハ概ネ砂地ニシテ殊ニ風雪厳ク常ニ耕作物登熱ノ十分ナラサルヨリ年一年ニ衰頽ノ色ヲ現ハシ就中本年ハ未曾有ノ旱魃ニシテ一層ノ困難ヲ極メ殆ンド見ルニ忍ビサルノ状況ニ陥リタリキ今之レカ村民ノ有様ヲ概言スルトキハ平常ハ自作物ヲ以テ僅ニ其口ヲ糊シ農間ハ漁場ノ雇夫トナリ雪中ハ森林ニ入リテ薪ヲ伐リ炭ヲ焚キ以テ今日ノ活路ヲ凌クモノニシテ頽ル肥沃人民競フテ農事に勤勵スル事ハ前回既ニ報告セリ」


 

2017年1月28日 (土)

石川県から石狩町花畔村への開拓移住者(2)

第三節 北海道庁時代の移民
北海道庁時代に入って、従来よりさらに内地からの移民を増す計画がもたれ、北海道各地で殖民地が選定された。
明治26年の石狩付近の区画実施状況が下表となる。

                                                                       
 

区割測設年次

 
 

原 野 名

 
 

15,000

 

以上

 
 

10,00

 

15,000坪   

 
 

6,000

 

10,000坪 

 
 

6,000坪未満

 
 

明治26

 
 

軽川原野

 
 

197

 
 

138

 
 

221

 
 

24

 
 

 
 

花畔原野

 
 

221

 
 

108

 
 

16

 
 

11

 
 

 
 

生振原野

 
 

479

 
 

76

 
 

34

 
 

27

 
 

 
 

篠津原野

 
 

297

 
 

67

 
 

35

 
 

17

 
 

 
 

當別原野

 
 

1,240

 
 

304

 
 

106

 
 

52

 

[ 区割の方法 ]
『新撰北海道史』第四巻で、「石狩國各原野等に於ける區割の方法は、大體同一で直角法によって方九百間の大割を作り、これを九等分して中割とし、(方三百間)さらにこの中に間口百間、奥行き百五十間、一万五千坪を區割し、一戸の標準耕作面積として、6戸を入れるのを原則とした。
然しその土地の状況によって中割、大割に止め、小割の測設迄は行わざる土地もあり、中割、小割に止まったところもあった。即ち土地不良にして急に入地不良の個所、牧畜敵地等は大、中割に止め、又土地狭少にして大割に要せざる所は、中、小割に止めたのである。
斯る方法を原則とはしてゐるが、土地の状況によって必ずしも直角法によらず、ためにその區割も15,000坪以下の區割が測設されたのであった」と説明されている。
そして殖民地に選定された生振原野(西生振)に、明治27年4月15日(旧暦)、愛知県下16カ町村から56戸320余人が入地し84万坪に亘って開墾に従事することになった。
さらに翌28年39戸が、翌々年(29年)には41戸が加わった。

なお、この団体の移住前の状況と移住後の様子、功労者などが北海道庁第五殖民課による
「移住者成績調査第一篇」(1906年刊)に紹介されているが、摘録してみた。

愛知團體
郷里:愛知縣東春日井西春日井二部、 現在:石狩國石狩郡生振字生振原野
・郷里に於ける状態
  省略
・移住の動機及ひ移住の顛末
  省略
・移住當初の景況
 この團體民か郷里出發の際所有せる資金は各戸甚た不同にして約千圓を有するもの1戸、四五百圓を有するもの3戸、其の他は平均百圓内外にして旅費(1人に付凡そ7圓)を支拂ひて残る所僅少なり。又旅費の外一銭も持たさるもの数戸あり。携帯品は衣類家具及び少許の農具等にして、外に各戸平均二三俵の米麥を携帯せり。
移住地は石狩國石狩郡に属し、石狩川其の東部を流れ札幌市街を距る凡そ4里、石狩町を距る凡そ2里。
當時原野には測量の際刈分けたる細徑あるのみにして交通不便、加ふるに樹木繁茂し熊笹叢生したれは、開拓の業容易ならす。相励まして伐木開墾に従事し資本なきものは資本あるものの開墾を手伝ひ、傍ら自己の土地を開きしも其の業に熟練せす。
且つ移住の時期稍々後れたる為め明治27年は1戸平均5反歩の作付をなしたるのみにして収穫少なく郷里より携帯せし米麥は食ひし盡し大いに困難を極めたりと云ふ。
以下の項略
同団体は入植に当たりその成功を期して「愛知縣團結移住者規約」を設け開墾に励んだとありました。

さらに三縣時代及び北海道庁時代初期に花畔および生振へ入地した個人4名の移住の前後を記載されていますが、本稿では割愛します。

2017年1月21日 (土)

石川県から石狩町花畔村への開拓移住者(1)

石川県から北海道石狩町花畔村への開拓移住者

石川県から北海道へ開拓移住している人々を調査している中で、石狩市の花畔(ばんなぐろ)に加賀団体で移住していることを知りました。
この石狩市には前田家が牧場を営んでいた手稲前田や札幌で最初に屯田兵が入植した琴似地区があります。
明治27年6月に「能美郡新丸村」から春木利作氏ほか4家族、計27名の方が花畔に入植したとあります。
明治27年にも石川県人69名が入植したとの記録もありました。

石狩町花畔の歴史を「石狩町誌 中巻一」(昭和60年発行)から調べてみました。
石狩町は平成17年(2005年)10月1日、厚田村・浜益村の両村を編入合併し石狩市となりましたが、明治時代を調査する関係上、石狩町の時代に遡っていきます。

[ 石狩町の位置 ]
石狩町の西側は石狩湾に面し、北(北東)は厚田郡厚田村、東は石狩郡当別町に接しています。また、南西側は小樽市、南側に札幌市北区、手稲区とも接しています。
石狩市の中心あたりを石狩川と茨戸川が流れています。
石狩の語源は諸説があるようですが、アイヌ語の「イシカラ・ペツ」(曲がりくねった川)から来ているという説があるようです。
花畔(バンナグロ)の語源はアイヌ語で「パナ・ウン・クル・ヤソッケ(川下人の漁場)」からきているそうです。

Photo_4                         (石狩市位置図)
Photo_5                      (花畔位置図)


 第三章 内地人の移住より
第一節 開拓使時代の移民
明治4年3月岩手県下より召募された80戸が札幌およびその付近に移住することになり、移民たちは同月19日宮古から船出して、4日後の23日小樽に着き願乗寺で一泊し、各々の目的地へ向かったが、この際20戸が当地方に落ち着いた。
さらに岩手県からは明治5年農民39戸129人の入地が予定され実施された。
なお、これらによって花畔村が開村された。
明治4年5月には宮城県宮城郡」の高木、松島、磯崎、山形県米沢藩士玉木琢蔵(引率者)ら29戸134人も石狩へ入地しており、これによって生振(おやふる)村が開村された。
明治12年には南緑地区に四国より14人が入地している。

第二節 札幌縣時代の移民
明治15年にはオタルナイから樽川村として開村された後3年を経て、18年1月にはこの村に山口県から43戸の官費渡航による保護移民が移住した。
しかし、これらの43戸中23戸が地券を渡されておらず、地券を渡されたのは20戸のみについてであり、共に移住したうちの半数以上は同地に馴染めなかったということになる。
また、同じく山口県から18年同村に川本荘七に率いられた12戸が入地している。
そして、これら山口県からの入地者の生活状況が「北海道縣第四回勧業年報」(明治18年版)に記載されています。
「本年4月以来、廣島・山口両県民ノ札幌郡山口・手稲両村及ヒ石狩郡樽川村等ニ移住セシ者資力極メテ韮薄ニシテ、壮者ハ過半他ニ出稼シ開墾ニ従事スルヲ得ス。
出稼スル者モ亦只僅ニ一身ノ糊口ニ過キス。是ニ於テ其非ヲ悟リ、一家壮者二人アレハ一人ハ他ニ労役シ、一人ハ、留リテ開墾シ其得ル所ヲ以テ互ニ相救済シ、以テ業ニ就クニ至レリ。」
と記されている。
その後、樽川村では秩父事件で追われた秩父自由困民党幹部の井上伝蔵が、東京府平民伊藤房次郎という変名を用いて分部越に入地し、25年8月4日親船町北17番地に寄留して畑48,000坪の貸下を受け、26年1月より33年12月までの8カ年をかけて開墾している。
明治15年手稲町星置に山口県から14戸の団体が入地した。
明治18年山口県(周防国玖可郡中津村)より14戸(または12戸)の保護移民が高岡に入地した。この移民は20戸(または19戸)で生振村に入り同年6月1日、そこに6戸を残して高岡へ移ったものであり、通称6戸といわれる地区はこの残留した6戸による地所である。
また、高岡に転住した移民たちは当初シララトカリ川沿いの地味の肥沃な場所を選んで落ち着いたが、その年水害に見舞われ、19年に高台に移転した。
また、高岡にはこの後、明治28年5月山口県から37戸160人ほどが入地している。